第1話『祖父のヘソごま』
八女の街は、まどかにとって“静かすぎる”場所だった。
放課後。商店街の角を曲がった先、木造の看板に「川原こま店」と書かれた古びた店がある。もう数年、のれんが出たところを見たことがない。
そこは、まどかの祖父・源一が生前営んでいた、八女で最後の「和こま職人」の店だった。
祖父が亡くなって三年。誰も使わなくなった作業場に、今日もひとりで入った。
木の粉の匂い。削りくずの残るろくろ台。奥の棚には、形も色もさまざまなコマたちが並んでいる。
そのなかに――ひときわ目立つ、ごつごつとした木のコマがあった。
丸い胴体の上に、まるで“ヘソ”のような深いくぼみがある。
「これ……」
祖母が声をかけてきた。
「それはね、じいちゃんが最後に削ったコマよ。お前が生まれたときに、“この子に残そう”って言ってた」
「私に?」
「じいちゃん、言いよった。“伝統は、残すものじゃなか。誰かが、回すもんやけん”てね」
手に取ると、思ったよりもずっしりと重い。削られた木の手触りが、手のひらに伝わる。
その夜、祖母が出してきたのは一本の古いビデオテープだった。
映っていたのは、まだ若い頃の祖父が、畳の上でこまを回している姿だった。
「うわっ……何これ、技!? すご……!」
線の上をまるで生き物みたいに滑る“犬の散歩”、くるくる跳ねて人差し指に着地する“空中手のせ”、まるで踊っているみたいな“灯籠”――。
釘付けになった。
こんな世界があるなんて、知らなかった。
次の日。まどかは町の小さな広場に立っていた。
祖父の“ヘソごま”を手に、ぐるりと糸を巻き、ぎゅっと構える。
「いけっ!」
ひと振りで、コマが木の地面に跳ね、ぶるぶると回り始めた――が、すぐに倒れてしまった。
「うわ、むずっ!」
苦戦していると、同じ中学だったタケルがやってきた。
「まどか? それ、和ごまやん。珍しかね。でも、そいじゃ技とか無理やろ」
「無理じゃない!」
まどかは、思わず声を張り上げた。
「これ、じいちゃんが作ったと。最後の一本。
誰も回さんなら、私が回す。八女の伝統、止めたくなか!」
タケルは一瞬驚いた顔をしたが、やがてポケットからスマホを取り出して言った。
「じゃあ見せちゃる。こま技検定ってやつ。技ごとに段位があるっちゃん」
画面に並ぶ技名。「空中手のせ」「犬の散歩」「ツバメ返し」……そして「世界フリースタイル選手権」の動画リンク。
「よし、決めた。検定、全部受かって、フリースタイルの大会にも出る。
このヘソごまで、まわりの度肝、抜いたるけん!」
その瞬間、広場の風がぱっと吹いた。木の葉が舞い、まどかの手の中の和ごまが、ひときわ光って見えた。