紅髪挿し
「あんな木こりふぜいになど嫁にはやれぬ」と父親に言われた菊姫が、涙ながらにやって来たのは今朝のこと。菊姫の中山家は、この長岡藩では上級の家格で、武家の体面もあるのだろう。
市之進は旗本の父が婿入りした赤城家の次男坊。訳あって今は山里で隠棲している。その訳とは、江戸で修めた柳生新陰流剣術を買われて城に上った市之進だったが、江戸のまわしものと小馬鹿にする上役と喧嘩をして無役となった。誰からも袖の下を受取らず、それを上納しないので、上役たちから不興を買ったのだろう。
その人柄をよく知っている菊姫は「市之進さまは、真っ正直なお方です」と慕ってくれた。顔馴染みで気立ての良い娘御だ。前々から心引かれ、乙女の純心には、やわらかな温かさを感じていた。
「俺は木こりの真似事をしているが、城下に信濃屋という材木問屋がある。そこの番頭竹蔵なら、杉や檜はあるだけ買ってくれる」そんな前置きをして市之進は「食っていけるさ。菊姫、木こりの嫁になってくれないか?」と言葉をつないだ。
「では、菊姫はおやめ下さい。それであれば『お菊』と呼んで下さい」と微笑んだ。
市之進は良い返事をもらって、とても嬉しかったので「俺も市之進をやめて『市さん』で頼む」と得意げに応えた。
早速、山へ入る準備をする。「四、五日留守にするが頼むよ、お菊さん」と声を掛けた。そうは言っても茅葺きの粗末な家。今までの男所帯に金目の物など無かったし、お菊さんの呼び方にも照れ笑い。「市さん、気を付けてね」と菊姫も笑顔で応じてくれた。
筒袖、股引に半被を着て、腰に鉈を差し、やぶを歩くための鹿皮靴を履いた。キセルを懐に、大事な斧を肩に担ぐと、菊姫が竹皮に包んだ握り飯と水筒を渡してくれた。さらに「あ、ちょっと」と言って火打石をパチンと弾いてくれる。そして菊姫が「ご武運を」と言ったので、二人して思わず大笑いしてしまった。武家の癖はすぐには無くならないようだ。
細い獣道を登って山奥に分け入り、これはと思う真っ直ぐな良木を見つけた。この檜は大人の胴二人分の太さがある。鹿や雉の鳴き声も聞こえる山奥でひとり「さあ切るぞ」と気合いを入れて、鉢巻を締めた。最初は斧を軽く打ち込み、次第に力を入れて木の前後に大きな切れ目をつける。樹勢から南に倒すのが常道だ。
両の掌はしびれてきた。刀を振るうのとは少し違う。やがてバリバリバリと音を立てて勢いよく大木は倒れた。「よぉーし」と声を上げた。喉が涸れて背中も汗でびっしょりだ。
休息に水筒の水をガブリと飲み、枝葉を払って運ぶ算段を立てる。斜面を滑らせて落とし、川で筏を組むのには、あと五本、約三日であろう。長さ二丈(十二尺)の竹棹も用意する必要がある。
ただ無心に斧で切り込んだ。静かな深山にコツン、コツンと斧の音がこだました。
そうして組んだ筏は急流を下り、川幅も広くなってくると、急に里心が湧いて来た。新婚の資金として材木を大金に換えて帰るのだ。心中には菊姫の喜ぶ顔が浮かんだ。
約束の川岸に筏を寄せると、待っていた信濃屋の小僧さんに「赤城市之進だ。番頭さんを呼んで来てくれ」と連絡を付ける。小僧さんは「かしこまりました」と走って行った。
しばらく煙草をふかして待っていると、番頭の竹蔵が早駕籠でやって来て、にこやかに挨拶を交わした。
「市之進さま、お待たせ致して申し訳ありません。では早速、材木を拝見させて頂きます。ふむふむ、ほう、うむ。さすがは良い物でございますね」
経験豊富な大店の番頭ともなると、一目で価値が判るらしい。そんな竹蔵とは、城勤めの頃から気心の知れた間柄である。もちろん袖の下など突っぱねた関係だ。
「それではお代として十二両と、頼まれておりました髪挿しでございます。上等な土佐の赤珊瑚とべっ甲細工を用いた良品を、何とかご用意出来ました」と懐から至極大事そうに取り出した。
見ると鮮やかな紅い玉に黄と黒のべっ甲の串。とても渋くていい。上等というのに間違いは無いだろう。
「髪挿し代を引いといてくれ。いつも通り貸し借りなしで頼む」と言うと「さすがは粋な旗本さまだ。では差引きで十両です」と竹蔵は、ふくさに金を包んで拝み、両手で手渡して呉れた。「旗本と呼ばれては、木こりに悪い冗談だ」と笑って見せた。腰に大小を差してこその侍だ。もちろん竹蔵に嫌味などないだろう。「失礼しました。では奥方さまに宜しくどうぞ」と挨拶され、笑顔で分れた。
山里の家で「帰ったぞ」と声を掛けると「お帰りなさいませ」との返事で前掛け姿の菊姫が出て来た。おそらく料理でもしていたのであろう。「お土産だ」と無造作にふところから、そっと冷えた手に紅髪挿しを手渡した。
市之進は斧を横に置いて、切り株に腰を下ろして見上げると「まあ」と菊姫は目を大きく見開いて紅髪挿しに驚いていた。
しばらく日にかざしては珍しそうに、紅珊瑚とべっ甲の輝きを眺めている。そっと髪に挿して「似合いまするか?」と聞くので、もちろん「おう」と応えた。
山奥に入っての土産が、海の珊瑚と亀のべっ甲とはまったく可笑しな話だが、見ると菊姫にはよく似合っている。
何もない山暮らしで、粋な着物も着せてやれないが、小物ながらも贅沢で、美しく輝く紅髪挿し。市之進は大切にしたいと思った。
そんな毎日であったが、突然「大変でござる」と赤城家の従者小吉が、息咳切って走り込んで来た。
「何事かあったのか」と尋ねると「他国者が参って御前試合にござります」とあわてた様子。鷹狩りの殿の御前で、すでに藩の手練たちが何人も討たれたという。「すぐに行く」と市之進は声を荒立てた。
そこに話が聞こえたのであろう菊姫が割り込んで来た。「市さんは木こりですよ。侍を止めたのではではござりませんか?」と涙目で市之進に訴えた。
重く胸に響いたが「家は捨てたが、武士の魂は捨てていない」と強く二刀を取った。
「では、お守りを」と咄嗟に菊姫が紅髪挿しを渡して呉れた。
菊姫の心配そうな表情を胸に、市之進は手元の紅髪挿しをどうするか迷ったが、自身の曲げの元結に押し挿して、急ぎ走り出した。
途中、考えあって長い枝を一本切り取って、木刀にする。相手は渡辺とか言う他国者で、当藩に真剣試合を挑んできたらしい。
川原には見物客がいっぱいで、皆は市之進の到着を待っていた。厄介者の市之進だが、抜きん出た剣術は藩内でも有名だった。床几に座るお殿様に黙礼し「赤城市之進、参上つかまつった」と相手に名乗りを上げた。
渡辺と向かい合う。気迫に満ちた面構えで、余程の修羅場をくぐったに違いない。
「渡辺熊樫いざ参る」と敵は真剣を抜いた。市之進は平常心のまま「拙者はこれで」と木刀を構えた。生木なのでじわりと重い。間合いを詰めると、一瞬の間に二人は動いた。
市之進は右袈裟に打つ。渡辺も同じで木刀に真剣が切り刺さった。市之進は構わず強引にねじ込む。それが敵の喉に当たって、木刀が二つに折れた。その瞬間に、短くなった木刀で渡辺の腹を突いて卒倒させ、「勝負あり」となった。
その強さと、頭に紅髪挿しを挿していたので「紅差し市之進!」との大きな歓声が飛んだ。
勝者の市之進はお殿様の御前に進み出る。そこには以前、喧嘩した上役も真面目な顔で控えていた。ご機嫌取りの重臣たちが、お殿様に「今度は武芸指南にしては?」とか「御徒組の組頭は如何か?」と推挙したが、元上役は「人の和を乱すので災いとなりましょう」と小声で言うのが、聞こえてきた。
褒められると期待していた市之進は、これには憤り、場の雰囲気で役付きは駄目だったと判った。ならば一言申すべきが忠義というもの。ご家老が「勝負は見事。しかし……」と言いかけたので「慣例などは堅苦しい。されど我は元旗本。戦となれば、いの一番にて御城に駆け付けまする」と勇ましく胸を張った。
お殿様は床几を蹴って立ち上がった。お怒りに違いない。だが……。
「この武骨者め! では、山林奉行与力として十人扶持を授ける。大事には必ず山里から駆け付けて来い」とお殿様が鶴の一声を発した。
周囲は驚いた。一番驚いたのが市之進だった。徳川の旗本などと偉ぶり、文句を言った上での抜てきだったから。
去り際にお殿様は「市之進よ、勝負見事であった」と優しく微笑んでくれた。その背中を見詰めて市之進は「有難き幸せ」と涙があふれた。
中山のお義父上からもお褒めの言葉を頂いた。菊姫からも「御無事で何よりでした」と安堵される。
市之進は懐から紅髪挿しを取り出して「全てはお菊さんのお陰だ。侍としての勤めもあるが、普段は木こりの市さんでもいいかい?」と聞くと「はい」と頷く。
「お菊さんと紅髪挿しは我が家宝だ」と菊姫の頭にそっと髪挿しを挿して見詰め合った。