縋りたい手
誰もが俺を責める。
もう、ストレスで押し潰されそうだ。
なぜこんなに卑屈にならなければいけない……。
翌日の夕方、終業のチャイムと同時に内線が鳴った。
販売情報センターに飛ばされた俺に内線をかけてくる人間……。
誰だ。
「はい、販売情報センター、恵乃森です」
「元気?」
「……」
「顔色、悪いよ」
この声は松川さんだ。
え、顔色?
思わず辺りを見回す。もちろんいるはずがない。
松川さんが、昨日の昼間見た俺の顔のことを言っているのだと気付くまでに五秒ほどかかった。
「ま、地下なんで、ここ」
「たまにはお日様の下で身体動かしなさいよ、いい季節なんだから」
「でも、俺、元からスポーツ気質じゃないから」
「何、その気質って。ところで何してんの、仕事」
「肉体労働」
「そんな風には見えなかったけど」
「じゃなくってほら、肉体労働っていうのは、延々と続く打ち込み作業とか、そういうやつです」
「ああなるほど。でもあれね、あんなに頭使って人動かしてた恵乃森君が肉体労働なんて、ストレス溜まるんじゃないの」
「いや、手ぇ動かしてると余計なこと考えなくていいんで」
嘘だ。打ち込みは慣れてくると手が勝手に動く。だからつい余計なことを考えてしまう。
「そうなんだ。でも、たまには外に出なよ」
「そうすね」
ふんっと鼻で笑われた。適当に答えたのがばれたらしい。
「あのさ、今度うちの部でテニス大会やるんだけど、参加しない? 招待する」
「知ってます? 俺、五分バトミントンしただけで、翌日、腕上がんなくなるんですよ」
「いいのいいの、テニスしない人も参加してるんだから。本当は試合後のバーベキューがメインなの、他の部の人もけっこう来るよ」
「でも俺」
行けるわけがない。
しかし、ここで終わりにしたくない。
もっと話していたい。
泣き言を戯れ言に変えて欲しい。
その手に縋りたい。
今、この手を掴み損ねたらきっとどこまでも落ちていく。そういう不安に陥る大切な何か。松川さんのことが、そういう例えようもない存在に、今は思えた。
「ねえ」
「はい?」
「体組成計、乗ってる?」
ああ、ヘルスメーターのことか、と思い出し、「乗ってます」と答えた。
「で、何だって?」
「何って」
「あれって体調について診断してくれるでしょ」
「ああ、大丈夫だって、健康ですって」
嘘を吐いた。耳の奥で電子音の〔過剰です〕〔運動が足りていません〕といった警告がリピートされた。そして余命。〔三十一年です〕
「ほんと? それ」
答えないことで嘘だとばれたはずだ。でも松川さんは追求しなかった。ただ、
「身体ってね」
「はい」
「ちょっとした油断で壊れるけど、背負うのは一生なのよ」
たっぷりと間が開いた。
言っていることはわかる。
わかるが……。
俺は割り切れない気持ちを抱えたまま、「はい」と答えていた。
「カフェミスト、またごちそうしてよ」
「あ、ええ、はい」
松川さんは「じゃあね、また」と内線を切った。
「今の誰?」
真後ろに橋爪センター長が立っていた。
センター長の目は、俺ではない、ある一点に集中していた。慌てて電話機のディスプレイを手で覆った。発信元の内線番号が示されていたはずだ。
「女だよな」
黙っていたことで、認めたことになった。
「わかるよ、男と話してるときと声の感じが違うからさ」
適当なもんだ。ここにきて一ヶ月になるが、電話など掛かってきたことがない。
「いいよなぁ気遣ってくれる人がいて、オレなんて悲しいもんだよ、ここにきてもう四年になるだろ、もう電話どころかメールだってきやしない。孤立無援だ」
仮置き場に四年。いったい、
「橋爪さんって何」
やらかしたんですか? と聞こうとして急停止した。
でも間に合わなかった。
「いいねえ若者はストレートで。まあ、今度ゆっくり語ろうや」
「はあ」
「それはそうとさぁ、昨日の店、美味かったろ。あそこな、また夜がいいんだよ、刺身がね。睦美屋の大将ってさ、若いころ寿司屋で修行してたことあって握れんの。美味いよぉ、今度食わしてやるよ」
昨日の昼、睦美屋で鯖塩定食を平らげたのはセンター長としゃべるのが億劫だったからだ。無心で焼き魚と向き合っていたら完食していた。
センター長の「今度食わしてやる」というのが、実はQAとの部署間交流会で、メンバーに松川さんが入っていると知ったのは、当日、店に行ってからだった。