失敗のあと始末
(これまでの流れ)
総合菓子メーカー【(株) 相澤薄荷本舗】で働く恵乃森拓海は、社内で開催されているプロジェクトコンテストに、スナック菓子の新ブランド《ガリンチ》の企画を応募し、みごと最優秀賞を勝ち取った。
しかし一年後、プロジェクトは失速し、これまで一枚岩で頑張ってきたチームには解散の命令が下った。完全な敗北だ。
恵乃森は、異動させられた販売情報センターで、退屈で、屈辱的な日々を送っていた。
思いを寄せていたQA(品質保証部)の松川比奈とも、すっかり疎遠になってしまった。
マンションのバスルームには、松川比奈からプレゼントされたヘルスメーターがあった。自らを「カスミ」と自称して恵乃森に語りかける、最新型のAIを内蔵するヘルスメーター。
カスミは一年前、恵乃森に「余命62年」と診断していたのだが……。
「恵乃森、おまえ今日もカップ麺かよ」
いきなり後ろから肩を掴んだのは橋爪センター長だ。年は四十過ぎか。確か未だに主任級のはずだが、この部署では、職級によるヒエラルキーに意味はない。
「おまえ、毎日そんなもんばっかり食ってて飽きないのか」
飽きねえよ、という答えの代わりに、湯切りを済ませたカップ焼きそばの蓋を開けると、熱湯で目覚めた麺の濃厚な匂いが、もわりと立ち上った。
チームが解散してからというもの、外に昼食を食べに行くどころかコンビニに立ち寄る気も失せた。昼食は専ら、休みの日に買い溜めして机の下に押し込んであるカップ麺だ。
ストレスの反動か、そのほとんどはメガ盛りかドカ盛りといったビッグサイズとなった。普通サイズしかないときは二個食べた。
化学調味料で舌を痺れさせ、ふやけた固形物を飲み込む瞬間は、憂いを忘れることができた。
「なぁ、いいじゃんか、そんなもん。焼き魚の美味い定食屋見つけたんだよ、食いに行こうぜ」
「いや、俺は別に」
「奢るよ。ていうかさ、あの店ひとりで行くとカウンターに座らせられるんだよ、あそこさぁ」
そう言って、ベルトに乗っかった腹肉をパンっと叩いた。カウンターでは窮屈でたまらない、といことらしい。
「もう、これ、お湯入れちゃったんすから」
「うるっさいなぁ、たまには人の役にたて」
「たってますよ」
「ぐちゃぐちゃ言うなよ! お前最近、白瓜みたくなってんぞ」
「何ですか白瓜って」
センター長は俺の手首を掴んで強引に引っ張り上げた。指で摘んだソースの小袋が目の前でゆらゆら揺れた。
気にかけてくれるのは嬉しいが、少しは自主性も尊重してほしい。
「わ、わか、わかりましたからちょっと待って」
いくら訴えてもセンター長は俺の腕を離そうとしない。今やソースを絡める直前だった〔ガッツ焼きそばスパイシーマヨソース〕は諦めるしかなさそうだ。
まったく、強引な人だ。
階段を上がって一階のフロアに出ると、すれ違う人すべてが自分を見ているような気がした。
実際には誰も見ていない。
でもきっと、視界の端に俺の存在を認めて笑っている。
そんな気がして仕方なかった。
「お前さ、夜って何食ってんの」
前を歩く橋爪センター長が俺を振り返って言った。
「えっとポテチとか、チューハイとか、グミとか、返品のとか」
「病気んなるぞ、ちゃんと食わねっと」
「橋爪さんに言われたくないですよ。それに全部自社品ですよ、何でうちの製品食べて病気になるんですか! うちの製品のどこが健康に悪いっていうんですか! ええ!?」
「おい」
声が大きくなっていた。
見回すと、錯覚でも思い込みでもなく、本当に周囲の人達の視線が、俺に集まっていた。
お客様相談室への苦情は、プロジェクトが解散したあともしばらく止まらなかった。今でも、たまにくる。対応は相談室でしてくれるが、それらはすべて、元マネージャーの俺のところにも報告される。
「子供が、マヨネーズをかけないとご飯を食べなくなった」
「娘が納豆にケチャップをかけるようになった。日本の文化がめちゃめちゃだ」
「給食を残すようになった」
「とんかつ一枚食べるのにソースを一本使うようになった」
「おたくのスナック菓子には何か薬でも入れてるのか」
どれも言いがかりだ。
ただ、論駁しようにも、相手は見えないところから攻撃してくるのだ。それに、向こうが激高しているうちは何を言っても駄目だ。身を固めて耐えるしかない。
メインロビーに向かう橋爪センター長が、楽しそうに何か言っていた。
「鯖塩は間違いなく東京一だね。でもさ、赤魚鯛がまたいいんだ。自分とこの漬け床で作ってんだけどさ、香りが違うんだよ。こないだ真鍋君に食べさしたらはまっちゃって。大将が釣り好きだからメニューがよく変わるんだけど……」
美食の話など、知らない外国語を聞いているような気分だった。
ロビーを突っ切ってメインドアに向かったそのとき。逢いたくても逢えない人とすれ違った。
松川比奈さん。
今回、QAにはかなりの迷惑をかけた。だから《ガリンチ!》の失敗が巻き返せないとわかってからは、松川さんには連絡をとっていない。
もう、どのくらい話していないだろう。
互いに姿を認め、顔を目で追い、松川さんは首が回り切ったところで視線を外した。
そんな潔いことができない俺は、身体ごと向きを変えて後ろ姿を追った。縋るような視線で。揺れるショートボブが完全に視界から消えるまで。
☆
夜、シャワーを浴びたあと、何となく、ヘルスメーターに乗ってみることにした。
運動不足と乱れた食生活で嫌な予感しかなかったが、それでも乗ってみようと思ったのは、昼間、松川さんの顔を見たからだ。
『一日一回必ず乗ること』
耳の奥に、松川さんのアニメ声がよみがえる。
〔お久しぶりです、タクミさん。足を電極に合わせて、わたしに、乗って下さい〕
本当に久し振りだ。
箱を開けて試しに乗ってからだから一年近く? いや丸一年乗っていないかもしれない。それでもAIなので、無沙汰を詰るようなことはしない。
一年前の会話が甦った。
ちょっとからかってみたくなった。
「なんだよ、今日は裸で乗れとか言わないのか?」
AIは黙った。からかい甲斐もない。
「えっと、なんつったっけ」
〔カスミです〕
「じゃあカスミさん、乗るからさ、脅かすなよ」
〔AIは嘘を吐きません〕
「ふ、嘘も方便だろ」
答えないと知りながらそんなことを言い、俺はヘルスメーターに乗った。
体脂肪、内蔵脂肪、筋肉量などが読み上げられ、最後は余命だった。
〔三十一年です〕
「え?」
前に測ったときは確か百近くまで生きられたはず……。
「おい、ちょっと待て」
〔三十一年です〕
「いい加減なことを言うなよ!」
〔三十、一、年です〕
胸の奥から、マグマのように熱い怒りが湧き上がってきた。それに伴って引きずり出されてくるストレッサーの数々。クレームの嵐、他部署からの批判、そして販売情報センターへの異動。どれも、屈辱以外の何ものでもない。お陰で人目を避けようと縮こまる毎日だ。松川さんにすら……、もう半年近く話せていない。なぜ。
なぜ俺は卑屈になっている。
なぜ。
なぜ。
失敗は罪ではないはずだ。
くそ!!
気が付いたら、踵で、力任せにヘルスメーターを踏みつけていた。
ヘルスメーターは半回転して壁に当たり、大きな音を立てた。それでもまだしゃべっている。
〔わたしには、毎日、乗って下さい。そうしないと〕
思わずスイッチを切っていた。