カスミ
いよいよ本格始動だ。
メンバーの補強、仕事の優先順位。考えることは山のようにある。
最初の仕事は、プロモーション担当の決定になった。
白羽の矢を立てたのは白幡稔。
三十二歳、独身。
LAの日系海洋資源会社で販路開拓の仕事をしていたのを、昨年、人事がスカウトした。今は調達部に所属して海産原料のグローバル調達にノウハウを発揮しているが、留学先でマーケティングを専攻しているし、能力的には申し分ないはずだ。
キャリアは、いかにも今風で華やかだが、人柄は穏やかで控えめだという。うちのチームにもすぐに馴染むだろう。
本人に意向を聞きに行く前に、調達部に仁義を切らなくてはならない。もし獲得できたら、広告代理店も、今回はコンペありきではなく白幡君の意見を尊重しよう。
結局、この日はほとんどデスクにいることなく、人事と調達部への根回しに奔走した。
特別に、白幡君の自己申告書も見せてもらい、仕事への希望や将来のビジョンも確認した。
彼は経営者志向だった。年俸や肩書より裁量権の範囲を重視している。幅広い分野に責任を持つプロモーション担当には必要な資質だ。
そのほか、本格始動するチームの、粗方の人員配置を決定し、この日は、少し早めに仕事を切り上げた。
チームメンバーを残して仕事を上がるのは久しぶりのことだった。
明日から、また忙しい日々が始まる。今日ぐらいは甘えてもいいだろう。
これからの戦いに備える禊ぎのようなことを、心が欲していた。
帰りに、いつも通り過ぎていたネパール料理の店に立ち寄り、アーユル何とかのコースを注文した。
スパイスの香りが程よく、身体というより、心に滋味が染み込んでくるようだ。
コースの最後に出てきたお茶は青草と柑橘の香りで、束の間、目の前を高原の風が過ぎったような気がした。
仕事の話もなしで、ひとり静かに夕食を摂るなんて、何年ぶりだろう。
マンションに戻り、バスタブに、いつもより温めの湯をたっぷりと張った。
風取りの連窓を開き、窓辺にアロマキャンドルを置いて火を灯す。
電気を消してゆっくりと湯船に身を沈めると、湯が、さざ波のような音を立てて溢れていく。
静かになったバスルームに夜気が流れ込んだ。
ゆっくりと揺れるキャンドルの炎を眺めていると、すべての音が遠ざかった。なんだか、宇宙を漂っているような気分だ。
たっぷりと時間をかけた風呂を上がり、身体を拭いていたら、松川さんからもらったヘルスメーターの箱が目に入った。
いい機会だ。試してみよう。
箱から出し、一枚板のような本体からAIボードと名付けられたディスプレイを引き起こすと、主電源が入った。
〔初めまして、わたしの名前はカスミです〕
思わず仰け反った。
こいつ、しゃべるのか。
青緑に光るディスプレイを見ると、そこにも、今しゃべったのと同じ文言が表示されている。
脅かすなよ、と呟きながら外箱の表示を見る。
販売者は健康ミスト株式会社となっていた。
ミスト……、なるほど、それでカスミ(霞)か。ミストサウナか何かで起業した会社なのだろう。だとしたら相澤薄荷本舗と発想が同じだ。今も昔も、起業家にとって最初の成功は、どうしても刻んでおきたいものらしい。
説明書はあっけないほどシンプルだった。
要は指示に従えということだ。内蔵されたAIが、その人の、そのときの健康状態に合ったアドバイスをして健康管理をしてくれるらしい。
説明の最後に、〔光発電なので暗闇に長期間放置しないでください〕とあったが、これは大丈夫だろう。このバスルームは午後から日が差し込み、夏は天然のサウナと化すほど明るい。
「さあて、あとは、どうすりゃいいんだってぇ?」と呟いたら、ヘルスメーターは電子音声で答えた。
〔まず、お名前と生年月日、性別、メールアドレスを入力してください。音声入力でも承ります〕
驚いた。音声認識機能も備わっているようだ。ということは、わからなければ聞けばいい、ということだ。
俺は、ディスプレイの指示に従ってあれこれと入力をして「あとはどうすればいいの」と訊いた。
〔ありがとうございます、タクミさん。これから、あなたの健康に、寄り添って、参ります。どうぞ、よろしくお願いいたします〕
会話にタイムラグが感じられない。なるほど、最新のAIだというのも頷ける。
〔さっそく、計測してみましょう〕
「あ、そうだな、じゃあ」
〔足を、金属の電極に合わせて、裸で、わたしに乗ってください〕
カスミと名乗るだけあって声質は女性だ。それだけに……、
「裸であなたに乗れって言うんですか、カスミさん。俺、あなたとは初対面なんですけど」
これには返答がなかった。さすがのAIも照れたのか、この手のユーモアには当意即妙、とはいかないらしい。
電極の配置は適切で、特に注意しなくとも自然に正しく乗ることができた。
体重を表す数値が、少し揺れた後に止まった。
無意識に「六十九キロか」と呟いていた。
〔やや太り気味です。適正、とは、いえません〕
「大きなお世話だよ、さっき飯食ったばっかりなんだ」
ピッという電子音に続いて、ディスプレイに体脂肪、内蔵脂肪、筋肉量、骨量といった数字が現れ、電子音声がそれを読み上げた。それぞれに、過剰とか適正といった評価が添えられる。
最後に現れた項目にぎくりとした。
余命。
「おいおい、余命ってなんだよ」
〔今の生活を続けた場合の、もっとも高い確率の余命です。余命とは、あと何年生きられるかの数値です〕
「そりゃ知ってるけどさ、ほんとなのこれ」
〔わたしには、二億三千八百四十一万七千三百五十八名の臨床データが登録されています。そこから導きだした、統計上、もっとも高い可能性が表示されています。この数値は0・05の、水準において、優位です〕
「いきなり優位検定かよ。しっかし松川さんもエラいもんくれたな。笑えるぞ、これ」
ヘルスメーターは無言だった。やはり、ユーモアのセンスは持ち合わせていない。
俺は、ディスプレイで余命の数値を確認した。
「まあでも、六十二年か。てことはつまり、九十四歳まで生きるってこと? 何だよカスミさん、悪くないんじゃないの?」
ヘルスメーターはこの質問にも答えなかった。代わりに、
〔これから、毎日、わたしに乗って、健康をチェックしていきましょう〕
「はいはい、じゃあよろしくね、カスミさん」
俺はガウンを羽織り、バルルームを出た。
冷蔵庫を開け、ビールを取ろうとして躊躇した。
「まあ、今日はやめとくか」
ミネラルウォーターのボトルから、直接三口ほど飲み、ベッドに入った。
普段なら考えられないくらいに早い時間だったが、眠気は意外に早くやってきた。
疲れが溜まっていたのかもしれない。
いや、やはり健康的な食事と温めの長湯。これがよかったのだ。
俺は、仕事のことをできるだけ意識の外に追いやり、穏やかに揺れながらやってくる眠気に身を任せた。