松川比奈さんのこと
すべての準備は整った。今日の午後には結果が出る。
その前に……
始業一時間前に出勤すると、花房八重がホストコンピュータの前に座っていた。
「おぅ、おはよ」
「え、恵乃森課長、早くないですか」
「うん、今日は早く帰ってゆっくり寝るわ」
「勝つ気満々ですね」
笑いながら、目をコンピューターの画面に戻した花房がうれしそうに言った。
「追い風吹いてますよぉ」
「何だよ、花粉は勘弁してくれよ。あ、それとも桜前線か?」
「違いますよ、スターツ製菓のギザリンチョ、カテゴリーシェアでトップになりました」
「何でライバルの好調が追い風んなるんだよ」
花房は振り向いて言った。
「だってほら、友田専務って後追い嫌うじゃないですか」
「あぁ確かにな。専務ってギャンブラー的なとこあるもんな……。あ、そっか、あっちはソフト路線だから、逆張りは吉ってことか」
「どうします、プリントアウトします?」
「いや、画面コピーしてデータで送ってくれ、隠して持っとく」
「了解です」
下のスタバでコーヒーでも買ってきてやるか。
花房はたぶん、このために早出したんだろう。
「花房さん、キャラメルマキアートでよかったっけ」
「ありがとうございます。ライトシロップのショット追加でお願いします。トールで」
ちゃっかりしている。
やることはすべて終わった。
あとは運だ。
そう思ったら、急に松川比奈さんの声が聞きたくなった。
彼女は、QA(品質保証部)所属の一年先輩で、顧客クレームの処理で助けてもらったことがある。お礼を兼ねて食事に誘い、そのとき、生い立ちを知って驚いた。
同じ高校の出身で、彼女は一学年上の先輩だったのだ。
それから意気投合して誘ったり誘われたりという関係が続いているが、それ以上親密にはなっていない。
高校時代の部活。
俺はブラバンで、彼女は長距離ランナーだった。それもインターハイに駒を進めるほどの有力選手。
松川さんには「ええ? あのとき壮行会までやってもらったのよ、覚えてないの」と真顔で呆れられたが、スポーツなど何の興味もなかったのだから仕方がない。要するに、同じ高校に通いながら、まったく別の世界で生きていたということだ。
後に本人から聞いた話によると、松川さんは高校卒業後、清華体育大学に進み、栄養学を学びながら、本格的に陸上に打ち込んだ。
入学と同時に駅伝部に所属したが、坂でリズムを崩す弱点が克服できず、なかなかレギュラーになれなかった。そこで監督と相談して三年の途中からトラックに転向した。これが見事に当たり、四年時には一万メートルの日本代表候補にまで成長した。そのときのスポンサーが相澤薄荷本舗だったらしい。
ちなみに相澤薄荷本舗の社長は業界でも有名な陸上好きで、今も何人かの有力選手をサポートしているし、令和女子駅伝では第一回目から協賛会社として理事を務めている。
松川さんは一万メートルの日本代表を逃したのを機に一線から退き、相澤薄荷本舗に入社した。それが八年前のことだ。
エレベーターを降りて一階のスタバの前から会社のPHS(内線)で松川さんのデスクに掛けた。
いるだろうか。
「あ、松川さん? いるんだ、早いですね」
「それ、内線で掛けてきたあんたが言う?」
返す言葉がない。
しかし、やっぱりこの声には癒される。アニメっぽい、と誰かが言っていた。確かにその通りだが、いわゆる美少女系のキャラではない。理知的なお姉さん、か小悪魔系? そんな感じだ。
「今、スタバにいるんですよ。俺今、すっごく機嫌がいいんですけど、よかったらなんか飲みます?」
「おっほぉ何ぃ、ご機嫌のお裾分け?」
「飲むんだったら早くしてください。もう順番きちゃうんで」
「ありがと、じゃあカフェミスト、トールで」
「了解、じゃ、五分後に」
三人分のコーヒーを買い、紙の手提げに入れてもらってそのままエレベーターに乗り込んだら、狭い空間にコーヒーの香りが広がった。ちらちらと向けられる視線が気になるが、幸いうちのメンバーは居ない。
作業部屋に戻り、まずは花房さんの手の届くところにコーヒーを置いた。そして、
「お待たせ、データありがとね」と肩に手を乗せると、花房さんは「ごちそうさまです」と言って笑顔を見せた。その流れでスタバの手提げに紙コップがふたつ残っているのを目敏くみつけた花房さんは、
「あれぇ、恵乃森課長、彼女さんに出前ですか」
さすが女子。察しはいいが、残念ながら、まだ彼女ではない。ここは苦い顔を作って答えておく。
「違うよぉ、QAはほらさ、いろいろと世話んなるからさ」
「あ、そうなんだ、QAなんですね、あぁはいはい、そういうことですか。行ってらっしゃいませぇ」
やぶ蛇だった。
QAも、早朝だけに、松川比奈さんはひとりだった。
「お待たせ、です!」
「おぉ、悪いね」
「松川さんっていっつもこれ一択ですよね」
未だに敬語。これがふたりの距離と関係を如実に表している。
「考えるのめんどくさくって。ありがと。で、あれなんだって? 今日なんでしょ、社長プレゼン」
「社長選会です。もう昨日も零時近くまでですよ。今日審査通ってもまだまだ続きますからね」
「落選とかやり直しっていう可能性は考えてないんだ。すっごい自信」
「あ、それ、今さっきメンバーにも言われました」
松川さんは笑い、「でも、無理してんじゃないのぉ?」と、手の甲で俺の腹を軽く叩いた。
「不健康な暮らしが現れちゃってるよ。それにほら、朝からそんなハイカロリーなの飲んで」
松川さんは俺が持っている紙コップを指さした。
アイスのホワイトモカ。エキストラソースでホイップはチョコに変更してある。疲れた身体が欲するのだから仕方がない。今月に入ってベルトの穴が広い方に向かってひとつずれたのは事実だが、決して肥満体型ではない。
「こんな早く出社するんだったら、その分走ったらいいのに」
「走るくらいなら寝てますよ」
「これだからなぁもう。あ、そうだ! 恵乃森君にぴったりのがあるの、これ」
引き出しから出したのは、よく名前を聞く分析会社のパンフレットだった。
「お得意さま優待のキャンペーンに、試しに応募してみたのね。ほら、うちってこの会社けっこう使ってるじゃない。それでかもしれないんだけど」
松川さんは、そう説明しながら、机の下からそこそこに大きい段ボールの箱を出した。
「当選しましたって、担当営業が持ってきたのよ。体組成計なんだけど、最新のAIが搭載されてるんですって」
「へぇ」
パンフレットの写真は、高機能のヘルスメーターのようだ。引き起こされたディスプレイに青緑の文字が光っている。
思わずしかめた顔を見られてしまった。
「恵乃森君、最後に体重を計ったのは、いつ? 正直に言ってみて」
いつだっけか。ここ数年は会社の検診も逃げ回っているので、本当に覚えがない。
「記憶に、ございません」
政治家の答弁みたいな言い方に、松川さんが顔を綻ばせた。そして、その流れのまま紙箱を捧げ持ち、有無を言わせぬ勢いで俺に押し付けた。
「はい!」
「え?」
「あげる!」
「え、だってこれ、松川さんだって」
「わたしぃ? 持ってるよぉ。これでもまだ走ってんのよ。それに、体組成だったらジムで計ってるから、家にこんないいやつ要らないもん」
あぁ、そうなのか。
「いい? 一日一回、決めた時間に必ず乗る。そうすると自然と体調のこと意識するようになるから」
「あぁ、はい」
「体重だけじゃダメよ。恵乃森君の場合は、体脂肪と内蔵脂肪、あと筋肉量も必ずチェック」
「へえ、筋肉量」
「そ、最新型だからねー」
松川さんは、なぜか自慢げにそう言った。
なんだか可笑しな流れになった。
まあ、頂き物なら遠慮なくいただいておくか、と紙箱を抱えて自分のオフィスに向かった。
カフェミストを奢って、最新型のヘルスメーターを持って帰る、というわらしべ長者的な流れに、思わず笑った。