甘えられる後輩
老舗の総合菓子メーカー【(株) 相澤薄荷本舗】の商品企画室・情報分析チームに所属している俺は、社内で行われているプロジェクトコンテストに、ある商品企画をエントリーしていた。
「あぁ、もうこんな時間か」
わざとらしく背中を反らして後ろの時計を見、独り言のように愚痴をこぼしたのは、部下の関根信太郎だ。
ちらちらとこっちを見て反応を窺っている。
そのようすを視界の隅に捉えつつ、俺はディスプレイの右下に表示されている小さな文字を確認した。23:17。
いけない。最終チェックに夢中になっていて気が付かなかった。
「もう帰っていいぞ。ここまで出来てりゃ明日の本番は午後だし、俺ももう終わる」
ほっとした関根が大きく伸びをした。そして、あくび混じりに、
「でも、いよいよっすね」
そう言って、関根はノートPCの蓋を閉じた。
「あぁ、悪かったなこんな時間まで。感謝してるよ」
「気持ち悪いっすよ拓海さん、ていうか頼むときは首締めといて、よくいいますね」
「おまえねぇ、人聞きの悪いこと言うなよ」
「いませんって聞いてる人なんて、何時だと思ってるんすか」
口の利き方はぞんざいだし、そもそも先輩を名前呼びする時点でマナーとしてはアウトだが、誰が相手でも媚びない姿勢は失礼を飛び越えて天晴れだ、と俺は思っている。
チームのメンバーは全部で十人。今日は、全員で作業部屋に集まって資料の最終チェックと質疑応答のためのデータの整理をしていた。
それがひとり帰りふたり帰り、二時間前に五人になった。そして最後まで残ったのが、この関根信太郎だ。
入社三年目のこいつは、いい意味で学生気分が抜けていない。どんな仕事であれゲームを楽しむような感覚で向き合う。まるでサークルの乗りだ。それで、ときには首を絞めて「おまえなぁ!」という流れになる。甘えられる後輩、といったら誉めすぎだろうか。
「メシ、食ってくか」
「あざっす、でもいいっす」
「遠慮すんなよ先輩が奢るっつってんだから」
「あぁ拓海さん、それって微妙にパワハラ」
「はぁ、めんどくさい世のなかんなったな」
「でもほんと、遅くなっちゃうんで」
「タクシー代は無理だけどカプセルホテルくらいだったら経費で落とせるぞ」
「いやほんと、夜の試食ってけっこう胃にくるんで、すんません」
そう言われて、自分の胃もすっきりしていないことを思い出した。まだ三十代とはいえ、スナック菓子のエンドレス試食は、やはり堪える。
「そうだな。俺も今日は帰るか」
「え、今日はって拓海さん、帰ってないんですか」
「ああ、昨日と一昨日だけな。カプセル。ちゃんと着替えてんぞ」
そう言って、俺はワイシャツの折り目を見せつける。
「ですよね、臭くしてるとスミさんとか遠慮ないっすもんね、きっと」
三宅純江、通称スミさんは妙齢というには少々無理が出てきた、商品企画室・調査係の中堅だ。
確かに、汗臭いワイシャツで出勤しようものなら、鼻に洗濯挟みで一日過ごす、くらいの抗議はやりかねない。
ここは株式会社 相澤薄荷本舗の本社である。時代錯誤した社名は、創業者の相澤剛一郎が薄荷飴で会社を興したことに由来している。今では、ミントタブレットにその名残を残すくらいで、全年代向けに広がった菓子のラインナップに薄荷のイメージはない。そもそも薄荷というワード自体を、若い世代は知らない。
実態に合わせて社名を変更する動きもあるが、社名に薄荷を残すかどうかで揉めているのだから、実現は当分先だ。
それでも、人事考課制度については、二年前に、大胆な改革が行われた。
最大の目玉はプロジェクトコンテスト制度の広範な運用である。
応募資格に制限はない。プロジェクトの内容も自由。企画は、書類選考を通ると〔生産〕〔技術〕〔商品〕〔その他〕のいずれかに振り分けられ、カテゴリーごとに審査を受ける。
面接による一次審査で優秀賞を取ると、その企画は自動的に最優秀賞降補企画となる。ここまででも人事考課では大きく加点評価されるが、社長選会という幹部の審査会で最優秀賞を勝ち取れば、提案者には期限付きでプロジェクトリーダーの権限が与えられる。
そして実際に動かしてみて、利益貢献が認められれば二階級の昇格も夢ではない。参加メンバーも貢献度に応じて報われる。
その代わり、この制度ができたおかげで、待っていて昇格する見込みは、きわめて低くなった。
俺は一年前、当時の上司である高橋次長のプロジェクトに参画して年俸を七パーセント上げ、管理職二級に昇格した。
だが今回は参画ではない。自分が作った新ブランドの企画が優秀賞、つまり最優秀賞候補企画に残ったのだ。
優秀賞を目指すだけならアイディアだけでも可能だ。だが社長選会で勝ち残るには、財務の審査に耐える事業計画書を作らなくてはならない。今回はブランド企画だから試作品が要るし、プロモーション計画もあった方がいい。そのために、俺は二ヶ月前、仮のプロジェクトチームを作った。
社長選会の準備には業務時間を充てることが許されているが、それでも二ヶ月はあっという間に過ぎた。
いよいよ明日だ。
明日、最優秀賞を勝ち取れば予算が付く。通らなければ、金一封と賞状でチームは解散となる。
だがこの企画には自信がある。
問題はむしろその先。プロジェクトが正式に始動してからだと俺は思っている。
コンテストで優秀賞を取った企画は《ガリンチ!》
濃い味と、酸味や辛みの刺激を今までにない形で組み合わせて若者のストレスを緩和しようという、新しいスナック菓子のブランドだ。
ターゲットのインサイト分析とコンセプトワーク、それをどう製品に落とし込むかの検討と検証のために行った試食評価会は百回を越えた。
明日の社長選会でゴーサインが出れば、すぐにも製品実現の計画が始動できる。そうなればメンバーも補強しなくてはならないし、今まで以上に忙しくなる。本当のスタートだ。
「じゃあ拓海さん、お先っす」
「おぉ待て、これ飲んどけ」
俺は試作品用の冷蔵庫からガラス瓶のアンプルを一本取って放った。
健胃生薬配合の栄養ドリンクは、俺のささやかな差し入れだ。
弧を描いたアンプルを空中でパシっと音を立てて受け取った関根は、おかしな両目ウインクを残して事務所を出て行った。