第02話 主の子らは麦のみにて生くるにあらず
ため息はやがてささやきとなり、礼拝堂を埋め尽くす。
(あの冷鋼マギーの下か!)
(いや、まさかそんな、チル・スティールの下だと?)
(エントラス伯家の子息だぞ、どうして……)
聖職者達、しかもそれなりに高位の者であればたとえ驚くことがあったとしても、それを表に出さない訓練は日々うけている。だがそれでも枝が風にゆれる音のようにさざめきは重なっていった。
少々はしたない彼らの振る舞いに枢機卿はわずかにコホンと咳をたてた。
それだけで注意としては十分であった。聖堂は再び静寂に包まれる。
「主の御心のままに」
アルノルトの咳にうながされ、ようやく気を取り直しお定まりの言葉を口からとっさに返せたのも、幼いとはいえローレンスも聖職者の一人であったが故である。
そうして一礼し、下がろうとする彼に、アルノルトは他にはない言葉を付け足した。
「主の御心に従い、なすべきことをなしたまえ」
と。
***
枢機卿から始まり儀式にたずさわった司教達が礼拝堂から退出していくと、ようやく今回の叙任を受けた者達、高司祭となったオリエンスから順番に退席していくこととなる。
助祭になったとはいえ、一番下位のローレンスはやはり最後まで待つことになるのだが、その間、ずっと唇は硬く引き締められたままであった。
(失礼、ローレンス助祭、後で少しよろしいでしょうか)
そっとささやいてきたのは、隣にいる、今回同じく助祭となったケヴィンだった。
(……承知しました。礼拝堂を出たあと修道院脇の木の下で)
ケヴィンの意を汲んでそれだけをローレンスはようやっと返す。
だが、ケヴィンの反対側、ローレンスの隣にいたバルトロマイ助祭が、口の端だけをわずかにつり上げて、ケヴィンにぎりぎり届くような声を発した。
(おやおや、ケヴィン殿とローレンス殿は何かご相談ですかな)
その言葉に反応しようと顔を向けたしたケヴィンだったが、ローレンスが軽く彼の修道服の裾をひっぱり押しとどめる。ローレンスは一度視線をケヴィンに向け、そして言った。
(いえ、何分若輩者ですゆえ、先輩からのご指導を賜りたくおもいまして)
(それはそれは。なんとも熱心なことでございますな。感心いたしますよ)
そう言って、バルトロマイは明らかな笑いを目に浮かべる。それは好意とはほど遠い類いの笑いに違いなかった。
(ありがとうございます)
(なんでしたらワタクシがローレンス殿に)
――ご指導させていただいてもヨロシイのですよ?
という言葉が最後まで彼から発せられることなく済んだのは、退出を始めていた新たな司祭の一人が、三人の様子を目で軽く制したからであった。
この場で彼に発言が許されていたなら、その司祭は「静寂は金貨にまさる」と聖句からの引用をしたことは間違いないような視線であった。
三人はそれぞれが目線の移動だけで、その司祭を含め退出する方々への謝罪をすると再びじっと自分の順番を待つのであった。
***
「なぁ、オマエあれどういうことだよ!?」
水の入った木桶と麦わらでできたタワシを手に持ったローレンスが、修道院脇にある大樹の下へとたどり着いたときに、同じように桶を手元においたケヴィンが開口一番叫んできた。
「ケヴィン助祭、いくらここだとは言え少々声が大きいです」
「あっ、悪ぃ悪ぃ」
「それと口調。いつも言っていますが、助祭になったのだからなおさら気をつけねばならないでしょう」
一本たてた人差し指を左右に振りながら諭すようにローレンスが告げると、たまらずケヴィンが噴きだした。
「オマエこそバルトロマイの真似やめろって」
「ほらほらそういうところですヨ?」
耐えきれずに腹を抱えるケヴィンにローレンスは、口調を改める。
「いくら沈黙の間の傍といっても、誰に聞かれるか判らないんですから、声は抑えましょうよ、ケヴィン」
「わかったわかった、ローレンス殿」
笑いをかみ殺しながら、二人は桶とタワシを持ち直し奉仕の行に勤しむことにした。
修道院脇には墓地がある。そしてこの菩提樹の根元近くには個別に墓を持てぬ人、何かの理由で旅先のこの都で亡くなった人達の共同の墓碑があるのだった。二人はその墓碑掃除を名目に、教会内では話せないことなどを色々と言葉交わすために奉仕役に名乗りでたという経緯があった。
まわりのゴミや枯葉、木の枝を片付けながらケヴィンはぼそりと言う。
「もしかして、オマエんとこコレやばかったりする」
そう言って人差し指と親指で作った形はもちろんお金を示すマークであり、つまりは『オマエのために父親の伯爵様は賄……もとい喜捨を十分できなかったのか?』という意味だった。
「いや、そんなはずはないんですけどね……」
ローレンスが聞く限り実家の伯爵家が経済的に困窮しているという話もなかったし、実際教会のローレンス宛てに送ってこられる「生活物資の差し入れ」もいつもと同じ十分なモノが入っていたのだから。
「じゃあ何? 親父さんと仲でも違えたのか」
「父親とも兄上ともあいかわらずですよ。今回も激励の手紙が届いてましたし、二人から」
「じゃあなんだそりゃ」
ローレンスの言葉にケヴィンは困惑する。
貴族であれば修道院入りした子女に「仕送り」をするのは当たり前のことであったし、ここぞという時には神と教会への「喜捨」は忘れなどしない。もちろんそれの窓口が特定の枢機卿であったり大司教や高司祭であったりするのは余談ではあるが。
「金でもないし、仲が悪いわけでもない。じゃあなんか心当たりは」
「いや、心当たりと言われましても私も叙任式から困惑し続けてるぐらいでして」
「だよなぁ……しかし、冷鋼のマギーかぁ。よりによってなぁ」
「よりによってって、そんなに『ヤバイ』んですか?」
あえて、ケヴィンから移った平民の言葉でおどけてみせるが、彼の顔は渋いままだった。
「だって、オマエさ、助祭何人とばされたか知ってるか」
「とばされる……って辞めさせられたんですか」
驚愕して「マジで?」とつぶやくローレンスに、ケヴィンはマジで、と真顔で答える。
「確か、オレがこっち来てからでも五人、いや六人だったか? とにかく一ヶ月以上もったの知らないぞ」
初めて知った事実に、ローレンスは顔を青くする。
噂話でマーガレット司祭の話は多少なりと聞いてはいたが、まさかそんな状況とは夢にも思わなかったからだ。それでは叙任どころか左遷降格まっしぐらではないか。
だからか、だからなのか。枢機卿があえてローレンスだけに言葉を付け足したのは。
「『主の御心に従い、なすべきことをなしたまえ』ってどういう意味なんでしょうね」
「そらオマエさん、頑張れってことじゃねぇの」
ため息まじりの二人だったが、その言葉に木の陰から別の声が響いてきた。
「『この国難に我らと共に神はあり。主の御心に従い、なすべきことをなしたまえ』先の大戦前に、教皇猊下が騎士団員に伝えられたお言葉ですね」
君たちはご存じないでしょうが。と人差し指を振りながら現れたのは、同じく助祭に命じられたバルトロマイであった。
「あー、こいつも来やがった」
ぼそりといったケヴィンの言葉を受け流し、にっこりとバルトロマイは二人に礼の姿勢をとり挨拶をする。
「ケヴィン殿、ローレンス殿。助祭への就任心よりお喜びいたします。主の祝福がふたりにあらんことを」
その言葉に二人も即座に反応する。
「バルトロマイ殿、助祭への就任お喜びイタシマス」
「バルトロマイ助祭、貴方の未来に主の祝福がありますように」
片言になっているのは二人のどちらかであるかは言うまでもないが、彼は言葉通り祝福を受け止めた。
「そういえばバルトロマイ助祭は、港町ファーレン教区へとのことでしたよね」
「ええ、ありがたい事に噂に名高いファーレン教会で主にお仕えできることは望外の喜びです」
心からにっこり笑う彼に、ケヴィンは実家の伯爵家はいったい幾ら包みやがったんだチクショウめなどと思っていたのだが、それはさすがに口にださずにとどめておいた。そのかわりに
「あー、でもファーレンか。港だから魚とかうまいらしいな。うらやましい」
「ケヴィン殿、助祭の身でそのような贅沢が許されることなどありませんよ」
一瞬だけ喜びを浮かべそうになったが、現実を思い起こし顔を渋らせるバルトロマイであった。
「いや、あそこは違うんだってよ」
「何がですかケヴィン殿」
「助祭の扱いが違ったりするんですか、ケヴィン」
その二人の食いつき具合に、ケヴィンはにんまりと笑うととっておきの情報だとばかりに告げる。
「なんか、めちゃくちゃ豊漁の時期が多くて、ヘタしたら同じ重さの小麦よりも魚が安い時がけっこうあるんだってさ」
「「マジですか!?」」
バルトロマイまで移っちまってるなという笑いはかみ殺して、ケヴィンは続ける。
「いや、だってうちの親父や兄貴達が遠征の時に見てきたっていうし、よっぽどのことがなきゃずっとだってさ」
「うらやましいなぁそれ」
というのはローレンスであったが、それを聞いてもバルトロマイは無反応であった。いや、あったように見えた。
「主よ! 感謝いたします!」
突然叫んだと思いきや両手を組み神への感謝を始めた彼に、あっけにとられる二人だったが、そういえばとローレンスが言う。
「バルトロマイのブルジェ伯爵家ってそういえば美食家揃いって聞いたことありましたね」
「あー言われて納得したわ。なんか時々ぶつぶつ言ってるのそれでか」
「たぶんそうですね」
そんな二人をよそに、バルトロマイは神への感謝を捧げていたと思うと、くるっと首を二人にむき直すと、満面の笑顔でこう告げた。
「素敵なことをお伝えいただいたお返しではありませんが、とっておきの情報をお伝えいたしましょうか」
そういわれても、と顔を見合わすケヴィンとローレンスだったが、続きの言葉には耳を傾けざるを得なくなった。
――冷鋼のマギーことマーガレット・サリバン女史の話、聴きたくありませんか?
と。