Good Boy
「その翌日から水曜までAさんは欠勤しました。風邪ひきで。
職場での話では、季節の境目である事と真面目な彼がこの1年年休もとらず働き詰めだったからだろうとのことでした。私もそう思いました。その時は特に大きな仕事もなかったので、毎年この時期は誰か1人〜2人はお休みなのですよ。それにしても、恋する人なら誰でも考えることですけど彼の居ない、帰って来ないオフィスはとても退屈でした。さすがにここで何かを起こす気は毛頭ありませんが、それでも愛する人がいるのといないのとでは大違いです。…好きな人がいるかいないかで気分が変わる私も子ども?いいえ、摂理だと思います。大人なので周りに弄れた態度は微塵も出さないだけです。あなただって若い頃はそう言う経験をしてきたのでしょう?…ほらね。私の言ったとおり。私はどんなに激務であっても、心のどこかにロマンティックのオアシスを持ち続けておくタイプなのです。子どもの頃読んだ『赤毛のアン』にも同じ様な事が書いてあったと思いますが、あなた、ご存知?…あぁ、読んだ事も見た事もないのですね。失礼しました。
話を元に戻しますと、月曜だけならともかく、水曜になってもまだ出てこないとなると私はソワソワし始めました。『大丈夫?』と言う趣旨のメッセージは2、3度送ったものの返事がないので余程悪いのかと心配しました。Aさんの自宅へお見舞いに行こうかしら、でも彼のことだからうつしたくないと気を遣わせてしまうかもしれない。思えば日曜日に彼のアパートを出る頃、顔色が悪かったのは既に風邪の症状が出ていたからなのね…と考えた私は、思い切って彼に電話してみたのです。たしか仕事が一段落した5時台でした。…いいえ、初めてでした。なぜそれが気になるのです?
ちょうど私の電話にその時の音声データがあります。大丈夫ですよ。今までの話を聞いたあなたになら聞かれても何の支障もありません。それに…今となっては大事な思い出の形見ですし。」
―こう言うと、女は自分のスマートフォンを操作して当時の会話を再生した―
(以下、音声のやりとり)
「………はい…もしもし(苦し紛れな声)」
「もしもし?Aさん?やっと出てくれたのね!」
「……ハァ、ハイ」
「心配だったのよ。今日もお休みだって言うし、メールも返って来ないから家で倒れてるんじゃないかと思って。」
「…あぁ、すみません(泣きそうな声)…ご心配…おかけして…」
「気にしなくていいの。あのね、私怒ってるんじゃないのよ。ほらAさんって一人暮らしでしょ?3日休んだことだし、ちょっと気になっただけ。何なら私そっちへ看病しに行きましょうか?」
「……ッ!……」
「もしもし?聞こえてる?」
「……エッ、あ…いいですいいです!!気持ちはありがたいですが、ホ…ホラ、うつすと悪いですし…」
「そうなの?私なら平気よ。そうそうAさん、…あの日曜日のお話、私ちゃんと聞いてなかったわね。もしよければ…教えてくれる?」
「へ…今……ですか?」
「そうよ。私あれから何で呼ばれたのか気になってしかたないの。夜も眠れないくらい。もう遮ったりしないから、ね?」
「……わかりました。はっきり言います。自分、前から付き合っていた女と、先月入籍したのです。」
「………まぁ、おめでとう!…またお相手の事教えてちょうだいね。」
「……!」
「どうしたの?照れてるの?」
「あ、いいえ。…ありがとうございます。」
「…それならねぇ、Aさん(声が低くなる)」
「…はい。」
「日曜日の風呂場での事、もちろん誰にも言ってないわよねぇ。」
「……もちろんです!…だから…」
「ごめんなさいね。おかしな事聞いて。安心してね。私も言ってないから。では結婚しても…また相談のってくれる?もちろんあなたが困った時は私、先輩としていつでも助けてあげるから。約束できる?(優しい声)」
「……は、ハァ…熱が上がったようなのでそろそろこれで…(後ろから物音)…あっ!で、で、では失礼します!お電話ありがとうございました! 」
―再生が終わった。女はスマホを自分のバッグに仕舞いこんだ。その後聞き手の方を見ず、目を伏せていた。顔に手をやることはなかったが、涙ぐんでいるようだった―