思いがけない庇護
「えぇと、確か秀一さんが三日間会社を休んだところまで話しましたね。そしてその後も私達は二人で会っていたと。
ここで言っておきたいのですが、私達が一線を越えたのは後にも先にも一度だけです。ですがあのファミレスで落ち合った日の、彼の自宅での行為の後で私は奈落に突き落とされる思いを味わいました。あれなら瞳さんに浴室での出来事が見つかって修羅場になる方がずっとましだったと今でも考えるくらいです。
あの後秀一さんに急かされる形で裏口から出て来た時、彼のアパートのゲートを出て50mも歩かない地点で一人の女とすれ違いました。通り過ぎた後、背中に視線を感じるので、振り向くとぶつかったわけでもないのに怒ったような顔でこちらを凝視していました。ここまでは最初にお話しましたね。その人は瞳さんではなく、もっと歳とった女です。私と目が合ってもビクともしない様子で、彼女はアパートの方へ回れ右するといそいそと足を運んで行きました。私は微かにその人に見覚えがありました。はっきりとした記憶はありませんが、あの顔を思い出すと少し恐怖で身震いします。私にはそうインプットされていたのです。
怖いと思いながらも、その女の後をつけて行くと彼女は合鍵で秀一さんの部屋へ入っていきました。入るや否や『秀一!』と甲高い声をあげて。
私は再び裏の方へまわって彼の部屋の窓の下にしゃがんで聞き耳を立てました。換気していたのか、窓は開いた状態でした。
先程私は自分を最近まで朝霧秀臣理事長の娘だと思い込んでいたと言いましたね?これは私の勘違いではなく子どもの頃からそう言って聞かされて来たのです。もしあの時私がアパートに引き返さなければ、ずっと信じていた事でしょう。
しかしそれは真っ赤な嘘だと分かりました。
中から秀一さんと女性が言い争う…と言うより一方的に女性の方から怒鳴り散らしていました。その話し方からして彼女は秀一さんの母親だと判明しました。しきりに『あなた!瞳さんと言う人がいながら!』とか『よりによってあの女と!』などと秀一さんを責め立てていました。それだけではなく、お母様は秀一さんに医師になってゆくゆくは父親の跡を継いで欲しかったのに、彼はそうしなかったため実家を出てこうして小さなアパートで一人暮らししていたこともなじっていました。
そしてお母様―正確には私の義姉―は『あの女』、つまり私の事について言及していきました。初めは『お祖父様も…お祖父様の悪いとこだけ受け継いで!』とやたらと秀一さんの祖父についての悪口が聞こえてきました。
(どうして祖父ばっかり?)と私は不思議でたまらなかったのですが、お母様はありがたい事に外に聞こえるくらいはっきりとこう仰ってくださいました。
『…あなたがたった今まで家に上げてた女がそうなのよ!城戸遥って言う、お祖父様と他所の女との間に生まれたおぞましい娘なの。お祖母様はそれで今でも苦しんでおられるの!あなたまでお祖母様を傷つけたいの!?』
天谷さん、私がおぞましい女かどうかはさておき、あなたは今まで生きてきて『雷に打たれる思い』を経験したことありますか?私、最初は自分の聞き違いかと思いましたよ。本当は『お父様』と言っていた所を『お祖父様』とね。でもあのお母様は一言も私を『お父様の子』とは言いませんでした。その頃私はと言うと突然の事にしばらく呆然としてしまって、正直その後の会話の事は覚えていません。ですが…気が付くと秀一さんの…反論が聞こえてきました。
『何でそんなに遥さんの事を悪く言うんだよ!本当に何もなかったってさっきから言ってるだろ?怪我されてたんだよ。でも自分で手当したし俺は別の部屋にいたんだ。そしてたった今帰ったんだ。そりゃ彼女の母親はどうだったか知らないけど、あの人は立派だよ。働きながら勉強して薬剤師になったそうだし、これまで一年間同じ職場にいたけど、本当に真面目で尊敬しているんだ。この間も仕事を辞めたいって泣いて相談されて、少しびっくりしたけどとても弱った様子で何とかしてあげたいと思ってるんだ。まさかとは思うけど、父さん達で何か嫌がらせしてるんじゃないだろうな?…』
この秀一さんの声を聞いて、私は何とも言えない感情が込み上げて来ました。顔に出るのを何とか堪えて、私はすぐにアパートの敷地内を出ました。彼の母による自分のわざわざ知りたくなかった『本当の父親』についての告白とあんな事をしたのにそれを隠して私を庇ってくれた秀一さんの思いがけない優しさを目の当たりにして様々な感情が頭の中で混沌としていました。一度に二つと、とても抱えきれないくらい大きなニュースでしたから。
自分のマンション―もうLマンションではありませんでした―に帰宅してすぐに湿った服を脱ぎシャワーを浴びながら、私は泣き崩れました。父親問題の真相もありましたが、なにより初めて他人から良く言われた事などなかったのです。
(秀一さん、あなたって本当にバカだわ。こんな庇う価値のない、いやあなたのお母様の言う通りこんなおぞましい人間を『尊敬している』だなんて!)
他人に対して罪悪感を抱いたとすれば、あれが初めてだったと言っても過言ではありません。私は秀一さんを、何も知らない純粋な甥を騙していたようなものですから。
私、生まれながらの厄介者なんです。幼い頃は邪魔者としてしか見られなかったし、何度も暴力を振るわれました。十代になると汚らわしい豚みたいな好色家からいやらしい目で舐め回されて。でも、すぐに慣れてしまっていたのです。」




