そんな彼女の望みは一つ
そんな大層なものではございませんが、どうか私の話を最期に聞いてくださいませ。旦那様。
私は確かに、貴方の愛人である平民の彼女をいじめていました。けれどもそれは過去の話。私は私なりに割り切って彼女の存在を受け止めたつもりです。
だけれど彼女は私を未だに憎んでいるようですね。私のいる本邸に今日も乗り込んで来ましたよ。嘘だと言うならそこの執事にでも聞けばいいのです。…ねえ、執事さん。
執事さんに聞いてようやく信じてくださいましたね。やはり、私達の信頼関係などあってないようなものなのですね。
この瞬間にも、また私の心は萎んでいくのです。旦那様。貴方と接すれば接するほど私の心が死んでいくのですよ。
元はと言えば私のせい?ええ、そうでしょうとも。私が彼女をいじめたのがいけないのでしょう?けれども、ええ。結婚する前から愛人を作る貴方に非がないとは言えないのでは?
そんなことよりそこから降りろ?ええ、この話が終われば落ちますよ。あとちょっと付き合ってくださいませ。
ハリボテの夫婦生活は、お互い虚しかったですわね。私との間にできた男の子よりも、愛人である彼女との間にできた女の子を可愛がる貴方。私への仕打ちだけならともかく、子供まで巻き込むのはどうかと思いますわ。あの子はあの子なりに後継者として頑張っているのですから、貴方もあの子を認めてくださいませ。どうせ私はこれから居なくなるのですから、ね?あの子だけは大切にしてやってくださいませ。
…そんなことを言いつつも、まだ貴方から愛されたいと願う私に呆れますか?私、貴方からの愛に飢えていますの。こうしている間にも、ずっと心が痛みを訴えていますのよ。ああ、意識が黒い闇に落とされるかのよう。
もう、無理はやめることにしましたの。もう、生きること自体が私には難しい。だから、さようなら。旦那様。
ー…
妻はそう言って屋敷の最上階から落ちた。幸か不幸か池にぽちゃんと落ちた後、たまたま近くにいた使用人に救い出されて命に別状はない。身体には痕も残らず健康そのものだ。…後遺症はあるが。
「ソフィー。記憶はまだ戻らないのか?」
「旦那様…ごめんなさい。なにも思い出せないの」
「そうか…いや、すまない。本当に辛いのは君なのに」
「そんな!旦那様は悪くないわ!」
「いや…全部俺の責任だ。すまない」
「旦那様…」
妻は記憶を喪失してしまった。池に落ちたことよりもストレスが原因だと言われた。
「旦那様は、私を一途に愛してくれますもの。それだけでも充分ですわ」
「前にも話したが、以前は愛人を囲っていたんだ。君に嫌われて、忘れられて当然の男なんだよ、俺は」
「でも、今は私だけ、でしょう?」
「もちろんだ」
妻が記憶を失ったと知ってすぐに、愛人であったシータと別れた。充分な手切れ金を渡して。そしてもう一度妻と向き合うことにした。
「旦那様。愛しています」
「俺も君を愛してる」
俺は妻のことを何も知らなかったらしい。妻が好きなのは薔薇だとばかり思っていたが、実は百合が好きらしい。ケーキはチョコよりチーズが好きだとか。そしてなにより、妻は俺の爵位に興味はなく、俺そのものが好きだと言う。記憶喪失になる前もきっと俺そのものが好きだったんだろうと妻は笑った。俺は妻の何を見てきたのだろう。妻が記憶を失って初めてそんなことを知るなんて。
「もう浮気などしない。俺には君だけだ」
「私にも貴方だけですわ」
こうして今日も、夫婦の間にできた溝を埋めていく。もう、俺にはそれくらいしか出来ないのだから。
ー…
「母上」
「なあに?ロビン」
「そこまでして父上を縛り付けて、楽しいですか?」
「ええ。記憶喪失のフリは難しいけれども、とても楽しいし幸せよ」
「そうですか。…バレないように気をつけてくださいね」
「もちろんよ」




