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Lady

作者: ヴィオン

この世から私が消えても誰も困らない。

人混みの中で、私は湧き上がるその気持ちを抑えることができなかった。

泣くとか怒るとかいろんな感情があっていろんな行動があるだろうけど、そのとき私がしたことは東京タワーの見えるホテルの部屋を取ることだった。

部屋を取り、そのへんで新しい服を買う。それだけで力尽きて早々にホテルへ向かいチェックインすると、不意に覚えた空腹にルームサービスを頼んだ。

死ねばお腹は減らない。

そんなシンプルなことがよくわかる。

永遠の命が得たいなら死ぬことだ。肉体の時計はそこで止まる。

疲れていた。

自分がいなくなったとしても誰も困らないのだから消えてしまいたいと思う気持ちはずっと昔からあった。

ずっとずっとずっと昔からあった。

私がこの世から消えても誰も困らない、というのは厳密には間違っている。

例えば列車に飛び込めば多くの人に迷惑をかけるし、投身も首吊りも、必ず誰かの手を煩わせることになる。

困らない、というよりは悲しまないときちんと言い換えるべきだろう。

それが悲しいかと言えばちっとも悲しくない。

それが悲しいと思えるほど感情が動いているならば私はホテルの部屋など取らずに帰宅しただろう。

そしてそんなことを考えてはいけないと、自分を戒め反省する。

おかしくてたまらない。

ルームサービスを頼んでしまったので、お風呂に入りたいのに入れない。とりあえず買ったものを袋から次々と取り出す。

面倒だ。

必要だから買ったはずなのに、それは本当の私を飾らない。

クローゼットにそれらをかけながら、ボーッとしているとルームサービスが来たのでホッとした。熱いコーヒーの入ったポットが目に入ると、その銀色に酷く寒気を感じた。1人になるとすぐにコーヒーを飲む。がっついて熱いものを飲んで噎せる。滑稽。バスタブに湯を張り、熱いコーヒーを飲みながらサンドイッチをつまみ、窓外を眺める。都内のホテルからの眺めはどこでもそう変わらない。

私はスカイツリーよりも東京タワーのほうが好きだ。

脚を開いて踏ん張って、青い天に向かって赤い熱を伸ばしているようで好きだ。

服を脱ぎ散らかすとお風呂に入る。かじかんだ体がハーブティーの中の花のように開いていくのを感じる。

私が消えてもこの世の誰も悲しまない。湯気に言葉が映っているようだ。

親友が手のひらを返して敵の味方、つまり敵になったことも、よく考えてみれば常に自分の正しさを押し付けられて反論する気も起きず、ただ相槌を打ってきた自分の姿が思い出されて反吐が出る。

そうすることがうまく生きる方法の一つだと思っていた愚かさにも。

神に祈っても死ねないのは知っていた。どこへ行っても祈ったのに、あんなに祈ったのに結局私は生きてここにいる。

だから神様のお恵みや不意打ちの死を期待するより、行動して死を手に入れるしかないのだ。

じゃあ紛争地域に行けよとか簡単に言う頭の悪い、マウントを取ってくるヤツはたくさんいるけれど、行動して死を得たい者は同時に静謐も望んでるんだ、バカヤロウ。

死を手に入れるにはどうしたら良いのか考えながらお湯に浸かっていると、ここ数日よく眠れていないことに気がついた。今なら脳の代謝が下がってブレーキを外してくれるんじゃないかな、なんて思ったりセックスしたいと思ったりする。

ものすごく激しく、交尾というより喰らい合うようにできたら、私の中は埋まるんだろうか。

私は誰をも幸せにしたことがないから、今、こんな思いをしているんだろうか。

あの煌めきはなんだろう?煌めきばっかりでわからない。この煌めきの人に今日も傷ついた素足から血を流し泣いている人がいる。今、同じように死を考えている人も、今まさに実行に移している人もいるだろう。助けを求めているか、助けることこそ無慈悲なのかは、その人にしかわからない。

ものすごく私を愛している人がいて、その人が私を抱きながら後ろから心臓を一突きにしてくれたら良いのに。

そう、ちょっと歪んだ愛が良い。独占欲を剥き出して嫉妬して何度も抱いてくれるような。所有欲と支配欲はいらないってわがまま過ぎ、求め過ぎる愛の形を削り出して。

もちろん、私も相手をものすごく愛している、ならベストだけどそんな感情は持ち合わせていないのでセックスのできる相手が良い。残念ながら誰とでもできる性質ではないから、触れてキスして、そして身体まで深く深く繋がれる相手は限られている。その中の誰かに。 

ああ、選択肢が狭いな。

誰も思いつかない。

私は死を手に入れて満足だし、相手は私を手に入れて満足するだろうに。

Win-Win。

透明なお湯。窓から見える夜景。素敵なホテルの一室に素敵なバスルーム。

誰かから見れば私は死ぬ理由なんてどこにも見当たらない羨ましい存在なんじゃないかな。その可能性を私はいつでも意識している。

意識しているからこそ、世間は私を面罵しない。世間とはつまり、道行く人々であり、SNSで目まぐるしく変わる話題を飽くなき探求心でパトロールしている遠くて近い蜂の巣ような塊なのだ。

バスタブの中で温まっていく私の肢体はかなり美しくたわわな胸も滑らかな肌ものどから手が出るほど欲しがる人がいるだろうことを私は知っているし、そのせいでずいぶんイジメられた。

ちょっと可愛いからっていい気にならないでよと階段から突き落とされたとき、空を落ちるがままに誰にも手出しができないほど美しくなろうと決意した。それまではなんの手入れもしない、素のままの子供だったけれど、あの瞬間、私は少女から女になったのだ。

そのままでも自分が異質な存在として認識されるには十分過ぎたのだ。

見慣れた自分に、その価値を見い出せなかっただけで。

まずは安価な化粧水を手に入れて肌の手入れをし髪を毎日トリートメントして、歩き方や姿勢に気をつけて、簡単には嫉妬のなせる暴力は受けないだけの気高さ、美しさを身につける。上品な物腰や溢れる気品は本の中の登場人物から学び、常に勉強ができる状態をキープした。そうしながら、単なるわがままお嬢様が大人になったみたいな母親を反面教師にすれば良いのだと気がついた。もっと早く気づいていれば、母の罵倒に心痛めずに済んだのに。今では、母は病気だったのだと思えている。殴られるほどに私は無口になり、悲鳴一つあげなかった。殴り疲れた母がなにやら醜い捨て台詞を吐いて終わるこの白けた茶番劇。私が黙るのは従順でも降伏でもなくただ、話のわからない者と話す気が無かっただけだというのに。

そして、憐れんでいただけだというのに。

バカな人間だ、と。

たわわな胸は単に体質だ。父方の女性はグラマラスな女性が多いが、彼女達の中にそれをひけらかす人がいなかったので自分が大人になるまでそれが魅力であると気づかなかった。もし、大人達がグラマラスであることをもっと肯定してくれていたら、苦しむことはなかったのかもしれない。

世の中の悪い大人達が肯定し称賛し、蹂躙しようとする前に。今なら蹂躙しようと伸ばされた手を切り落とすことができるけれど、幼い私にはできなかった。

信頼できる人がいない、助けを求める人がいないということを狭い世界で生きる幼子にとって魂を削られるような日々で、沈黙のみが盾と剣になる。

私は私と生きていけない。この記憶と生きていけない。

レイプされなきゃ良いなんて誰の思考なの?

違う、こんなことを考えたいんじゃない。

私はたぶん、きっと、いや確実に異常なのだ。

生まれたその瞬間から、母親のお腹の中で羊水に浸り、外の様子をうかがっていたあの頃から。あの薄明るい灰色の世界にいた頃から。

私は一組の男女がセックスした結果胎内に宿り、どうやら魂とかなんとかそういうものをぶっこまれたか芽生えたかして温かくて灰色をした羊水の中で目を覚ました。ある日なんの前触れもなく私は目覚め、下を見た。長い昏い条が見える。どうしてだかはわからないがぐるりと振り向いて、私がその条を辿って降り始めると、周囲がブコブコと蠢きありとあらゆる場所を痛め付けてきた。固くて柔らかい、それでいて早く早くと急き立てる轟音と時折響く恐ろしい低音が不安を煽った。

これが、私が母の胎内にいた頃の記憶で、外に出た後の記憶はさっぱりない。

肺が最初の空気で満たされたとき恐怖で全身が満たされたから、それから安心したことがないから、私は今こうして温かい湯に浸かりながら死について考えているのかもしれなかった。

高尚な生への考察も死への感慨もなく、ひたすらに死にたいと沸き上がる気持ちは常に胸焼けを起こさせる。そんなとき、クソみたいなことがあると一瞬で死を望む体へグッと傾いてしまうのだ。

生きたいと願う人間に、死にたいと願う人間の気持ちはわからない。

生きたいと願う人生を歩いてきた人間に、死にたいと願いながら生きてきた人間の気持ちがわかるだろうか。

生きたくても生きられない人がいる、というなら、死にたくても死ねない人の気持ちはただ脆弱な精神がもたらしたわがままだとどうして簡単に片付けてしまえるのだろう。喉笛かっ切れば満足ですか?

生きたくても生きられない人がいる、というのはその先に抗えない死があるという脅しだ。

人間の世界は性と死に蓋をして、惑うと弱虫だと謗られる。

謗られるがまま答えれば私は弱虫だ。私を傷つけるすべての人間を殺すより自分一人を殺すほうが効率的だと考える弱虫だ。本当に苦しいのは、私を苦しめる人々の肉体に苦痛を与えることができたとしても、心にはなんら痛痒も与えることができないという事実だ。

残酷に残忍にやろうと思えば、相手の肉体を破壊できるかもしれない。けれど、私が受けた痛みは種類が違うのだ。

心蝕の痛みを、私は与えられない。私がいなくなっても誰も困らないから。この世から消えても困らないから。誰も困らないから。呼ぶ相手がいないから。

私は父親の友人であるペド野郎に執拗く触られているときに笑っていた両親や、後にその意味に気づいてしまった自分に、女に生まれたというだけで蹂躙された少女の肌を波のように刻み、大人になれば『正常』といわれる大人の欲望の対象になった。

目を瞑れば暗闇はいつでもどこでもやって来る。

違う、そうじゃない。

私がここに来た理由はなに?グ、と、のどが鳴った。

泣き喚いてもなにをしてもこの気持ちは消えないのだから、泣いてはいけない。

愛してる、と呟いてみる。口癖にしたら自分を愛せるかもしれないから。虚しく響く声は、東京タワーの灯りと共に消えた。揺れる視界と真っ暗。

あっという間の出来事だった。なにが起こったのか正確に知ることもなくそうして、私は死んだのでした。

痛みも苦しみも誰にも告げることなく、赤々とした東京タワーの灯りに照らされたバスルームで、突然止まった心臓が私を死なせてくれました。

そうして今、私はこのホテルで『レディ』と呼ばれながら、迷う魂の道案内をしています。

これだけ傷つけばもう傷つくことなどないと何度も何度も思い、それでも傷ついてしまう生は終わりました。

私は東京タワーに寄り添って、天国への道案内をしながらもう決して傷つくことのない心で赤い東京タワーが点す灯りを見上げています。

もしあなたが東京タワーの下で白い羽根を拾ったら、それは私の背にある大きな翼から抜け落ちたものかもしれません。

それを拾ったあなたへ。

辛いことがあったら、泣いてください。

そして、自分を抱き締めてください。

誰の腕があなたを抱き締めなくても、あなたの腕はあなたを抱き締めることができる。

私が生きていた頃、できなかったことだけどそれがどんなに大切か、今ならわかる。

ありがとうと言って去って逝く魂を見送りながら、あとどれくらいこうしていなければならないのかわからないけれど、あなたは私に見送られる魂でいて欲しいと思うのです。


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