春嶋ひまりの後悔②
これは、きっと罰なのだろうとひまりは思った。
自分の身を守るために、ひどい嘘をついて、プレセアを傷つけた。
たとえどんな理由があろうとも、他者を傷つけていい理由など、どこにもない。
ひまりはプレセアへの嫉妬だけで、あんなに非道なことをしてしまったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
あの子に謝りたい。
ひまりはようやく、自分のしでかしてしまったことの大きさを思い知った。
「私、羨ましかったの」
ひまりは泣きながら本音をこぼした。
「あの子、全部持ってた。聖女の地位も、婚約者も、サークレットも、何不自由ない生活も! 私には、それがないと生きていけないかもしれないのに……あの子、そんなのいらないって、言った」
「……」
「だから憎くて憎くて仕方なかった!」
だからといって、プレセアを陥れたことが罪にならないというわけじゃない。
ひまりは思っていたことを全部吐き出した。
ひまりが一番心を許せた人。
それが、魔王だったのだ。
「……プレセアは、何も欲してはいない」
魔王はひまりに告げた。
プレセアの真実を。
どれほど彼女が王宮でひどい目にあっていたのかを。
ひまりは目を見開いた。
「そんな、うそ……」
「嘘じゃない」
と言っても、もう何が本当で嘘なのか、混乱しているだろうな、と魔王は苦笑した。
「難しいな。何が真実で、嘘なのかを見分けることは」
「私は、いったい……」
「……だったら、自分の目で見て、決めるといい。人に流されるな。疑うことはけして悪じゃない。必要ならば、俺が助けてやろう」
魔王はひまりに手を差し伸べた。
その手を見て、ひまりは目を見開いた。
「……この手は、プレセアの手だ」
「……!」
「プレセアから言伝を預かっている」
魔王はヒマリに告げた。
それは魔王の声と言葉だったが、ヒマリにはまるでプレセアの声と話し言葉のように聞こえてた。
──ヒマリちゃん。あのときは助けられなくてごめんなさい。
──わたしも周りの大人と同じだった。あなたを助けず、見知らぬふりをしようとした。
──わたしは一番、わたしがなりたくなかった大人になろうとしていた。
──だから、ごめんなさい。今のわたしに何ができるかわからないけれど、今度は一緒に考えよう。
パタパタとひまりの瞳から涙が溢れた。
「……なんで? なんで、ひどいことをしたわたしに、そうまでしてくれるの?」
ひまりは泣きながら、魔王を見上げた。
魔王は肩をすくめる。
「さあ。俺はプレセアではないから、なんとも言えないな」
「……」
「だからいつか、直接本人に聞くといい」
ひまりは目を丸くした。
「……とは言っても、一度ひどくこじれた関係になってしまったお前たちを、まだ直接会わせるわけにはいかないがな。プレセアはここへ来たがっていたが、俺がそれを却下した」
お前たちの年頃は難しい、と魔王はつぶやく。
ひまりは戸惑いながら、魔王の手と、魔王の顔を見比べた。
日本へ残してきてしまった家族のこと。
中学校や、友達のこと。
未練や後悔なら、山ほどある。
けれどひまりの肉体は、もうあの世界には、ない。
この生は、神様がくれたチャンスなのだと、ひまりはよくわかっている。
だったらどうするべきか?
今度こそ。
今度こそ、未練も後悔もなく、生きたい。
残してきてしまった父や母のためにも、胸を張って、いい人生だったと言えるようになりたい。
だから──。
ひまりは恐る恐る、魔王の手袋に包まれたその手をとった。
魔王は少し表情を緩めると、ひまりを立ち上がらせた。
「た、助けてくれて、ありがとうございます」
ひまりは魔王に深々と頭を下げた。
「……これはプレセアの願いだ」
あのように頼まれては、断れるはずもない。
なんだって言うことを聞いてしまいそうだ……と魔王はブツブツ呟いた。
「……?」
「いや、なんでもない。それよりお前はどうしたいんだ? 俺は必要なら、お前を魔界で保護すべきだと考えていたが」
ひまりは迷うように視線を泳がせた。
「本当はプレセアに会って謝りたいけど……でも、会わせてくれないんですよね?」
「……ああ、今はまだ」
魔王は頷いた。
ひまりはそれなら、と覚悟したように魔王を見上げる。
「私……人間界に、オルラシオンにいます」
「……」
「ここで教えられてきたことは嘘ばっかりだったけど。私、異世界の人間だから、ちやほやされていたのかもしれないけど……」
でも、とひまりは言った。
「本当だったこともあるから」
エルダーのひまりに対する想い。
世話係たちの、ひまりを心配する言葉。
きっと、全部が全部、嘘だったわけではないのだろう。
人間側も嘘の情報を教えているつもりもなく、本当だと思い込んでいるのだから、仕方がなかった部分もある。
「それに、気になることもあるんです」
ひまりはふと、エルダーにかかっていた黒い靄のようなもののことを思い出した。
「エルは、何か……おかしなものに侵されているような気がするんです」
「……」
「今までだって……なんだか、プレセアのことを話す時だけ、様子がおかしかったの。いつもは別にバカなことばっかり話すわけじゃないのに、プレセアのことになると突然……おかしくなるというか」
記憶の糸を手繰るように、ひまりは呟いた。
「神殿の人たちもそう。なんだか、様子が変……」
そうつぶやくひまりに、魔王はため息を吐いた。
「お前はこれ以上、首を突っ込まないほうがいい……と言いたいところだが。ここに残ると決めた以上は、いずれぶつかることになるだろう」
「……?」
「だが今はまだその時じゃない」
魔王はひまりの頭にぽん、と手をおいた。
「しっかり体を休めろ。そうでないと、この厳しい世界ではやっていけない」
「……そうですね。これから、やらなくちゃいけないことがたくさんあるもの」
ふう、とひまりは息をついた。
少しホッとしたようだった。
「あの男の容体はどうだ?」
「……エルは、その、特殊な刃物で傷つけられたせいか、今も痛みに苦しんでいます。わたしが治癒の祈りを捧げているから死にはしないけど……」
「……そうか。こちらとしても早く回復してもらいたいのだが……まあいいだろう。死にそうになったら呼べ」
冷たい魔王の物言いに、ひまりは驚いた。
けれどそれもそうだ。
エルダーはプレセアを苦しめていた一番の原因でもある。
「……あの、エルのこととか、その……わたしのこととか。殺したり、しないの?」
「……私情でそのようなことをするわけにはいかないだろう。殺したいと思うのは別だが?」
魔王の声が低く沈んだので、ひまりはこれ以上突っ込まないことにした。
自ら地雷を踏みに行くこともないだろう。
気まずい沈黙が落ちる。
ふと、ひまりは窓の外を見た。
絵の具で塗りつぶしたように、どこまでも青い空が広がっていた。
「……籠の中の鳥なんていうけれど。鳥だって本当に自由に焦がれるなら、鍵を開けることを覚えて、きっと出て行っちゃいますね」
「……」
「じいっと我慢して、その時を見定めて。自由になったのなら、そのままどこまでも飛んで行くのもいい。新しい……本当に愛してくれる人のもとへ行くのもいい」
ひまりは魔王を振り返った。
「……私はあの子みたいに飛べないけど、その代りこの足で立って歩いていきます」
異世界の少女、ひまりは言った。
「私自身が、歩く道を決めます。どんな苦境にあっても、自分で道を選び取ります」
春嶋ひまりの瞳は、もう曇ってはいなかった。
世の中にはいっぱいいろんな情報があって、悪意で溢れていて。だからこそ、自分の目で見て、手で触って、確かめなければいけなかった。
自分がどうやって生きていくか、何を信じるのか……全部ちゃんと見て、聞いて、触って、自分で選ばないといけない。
きっとそれが、大人になるということだと思うから。
「いつかわたしは、あの子に謝りたい。だけど謝ったとして、その罪が赦されるなんて安易なこと、思いません」
運がよかっただけで、人を殺しかけたのだということにはかわりない。
「だから……もしもの話ですけど。そんなこと、あるのかもわからないけど」
ひまりはぐ、と指を握って、魔王を見上げた。
「もしもあなたたちが何か、大変な苦境に立たされた時。私はこの命のすべてをかけて、いただいたご恩をお返します。私にできることなら、なんだってやります」
魔王は式布に隠された瞳を、ひまりに向けた。
少女は真剣だ。
それならば魔王もまた、その言葉を真摯に受け止めなければならないだろう。
「お前の覚悟、よくわかった。プレセアにもそう伝えておこう」
「!」
「もっとも……そのようなことにならないように、願うばかりだがな」
魔王はわずかに笑った。
ひまりもようやく、ほんの少しだけ、笑みを浮かべた。
空は青い。
澄み渡るような蒼の中を駆け抜けるように、一羽の鳥が、ぴゅうと飛んでいった。




