春嶋ひまりの後悔①
人間界、オルラシオン聖王国。
王宮の一室で、春嶋ひまりは窓枠に腕をついて、ぼんやりと空を見上げていた。
体の傷が癒えきっていないためか、いつものように豪奢なドレスは着ていない。
そのかわり、眠りを妨げることのないように、柔らかな白い寝巻きに身を包んでいた。その姿はまるで、病人のようだった。
ひまりはふと、背後に気配を感じて振り返る。
「……誰?」
そこに現れたのは、黒い軍装を纏った、美しい青年だった。
黒く艷やかな髪。
目元には、なぜか黒い帯のようなものを巻いている。
人形のように整った顔立ちは、ひまりになにか、違和感のようなものを感じさせた。
それがプレセアに感じたものと同じだということに気づく。
そうであればこの男は……人間ではないのだろう。
「あなたは」
そしてそれが、あの惨劇の場にいた男だと思い出した。
「……魔界より来た。名をオズワルドという。今代の西の大陸の魔王を務める者だ」
「魔王……」
やはり、人間ではなかったか。
ひまりは目を伏せた。
「驚かないんだな」
「……もう、大抵のことじゃ驚かなくなっちゃった」
ひまりは自嘲気味に笑う。
「……私を殺しに来たの?」
魔族は、魔王はこの人間界を乗っ取ろうとする、悪い人たちなんだ。
ひまりずっと、そう教えられてきた。
そしてひまりもまた、それを信じた。
「……違う」
けれど今、ひまりの目の前に立つ魔王は、それを否定した。
むしろ魔王は、今までに見たどんな人よりも、落ち着いていた。
「ここには、プレセアに頼まれて来た」
「プレセアに……?」
パッとひまりは顔をあげる。
そして怪訝そうな顔をした。
「あなたとプレセアに、なんの関係が……?」
魔王は少し考えた後、端的に言葉をまとめた。
「プレセアは俺の大切な人だ」
「……」
大切なひと。
その言葉に含まれる意味をわからないほど、ひまりも馬鹿じゃない。
「……かわいそう」
ひまりは眉をひそめて言った。
「魔王の妻になるなんて、かわいそう」
「……なぜ?」
「魔王は悪い人なんでしょう? だからプレセアを小さくしたんでしょう? みんながそう言っていたもの」
魔王は困った。
この少女とは、会話の前提が違う。
けれどどうやら、ひまり自身も自分の言葉に自信が持てないようだった。
わざと魔王を挑発するような言葉を選んでいる。
「どう思ってくれてもかまわない……と言いたいところだが、一応勘違いは正しておこう。不公平だからな」
「……勘違い?」
「ああ。どうやらお前は、偏った知識のみを与えられているようだ」
魔王は告げた。
自分が……各大陸の魔王が、特に人間界に興味を持っていないことを。
そして大多数の大陸民が人間界に興味をもっていないことを。
「それに世界線を超えられるのは、ごく一部の選ばれたもののみ。超えられたとして、魔素の少ない世界に興味はないだろう」
「魔素……? 魔素ってなに?」
「お前たちの世界では、瘴気というのか。魔界では魔素がある場所ほど、豊かな土地となり、魔族にとって心地の良い場所になる」
ひまりは魔王の話を聞く間、言葉を失っていた。
自分が敵だと思って戦っていたものは、一体なんだったのだろう?
「だけど……人間界にとって、瘴気は悪いものなの。瘴気が濃くなればなるほど、魔物が増えて、被害が増えるから」
「それは魔界も同じだ」
「えっ?」
「魔素の濃い土地は、魔力の強い者たちを生み出したり、魔法を扱いやすくする一方で、魔物と呼ばれる無境に人を傷つける生き物を生み出す」
「そ、それじゃあ……」
「だが俺達の世界は、魔素を得ることで発展することを望んだ。魔物に対抗しえるだけの力もある」
それだけの話だ、と魔王は話を結んだ。
ひまりはしばらく黙り込んだあと、呟いた。
「……この世界の人は、魔素を望んでいない。魔力を望んでいない」
「そのようだな」
「だから魔力がある人を悪い人って言ってる」
オルラシオンでは、魔力の強いものは隔離施設に隔離され、ひどいときには国家反逆罪で処刑されてしまう。
多くの人々は、魔力持ちの人々を恐れていた。
しかしそれには理由がある。
「……昔、魔力の強い人たちが、多くの人間を殺したって。だからみんな、魔力を持つ人を恐れてる」
魔力持ちによる大虐殺があったせいで、今もオルラシオンでは魔力持ちは恨まれ続けている。
王は魔力持ちたちを封じた英雄王の血族だ。
神の力を借りて、その当時魔力持ちを封じたのだという。
魔王はため息を吐いた。
「……その歴史は確かにお前たちには重大な意味を持つ。だが魔界は関係ない。魔素を発生させているのは、お前たちの住む世界そのものだ」
「……?」
「魔界から瘴気が漏れ出ているわけではないと言っている」
ひまりは目を見開いた。
「嘘……」
「嘘じゃない……と言っても」
魔王は、動揺するひまりを見ていった。
「お前はもう、何を信じていいかわからないようだな」
「……」
ひまりは黙って口を引き結んだ。
魔王は少し首をかしげて言った。
「お前……年はいくつだ?」
突然の質問にひまりは少し戸惑ったようだった。
「……十五、だけど」
「プレセアと同じか」
もうすぐで十六だっけ、とひまりがつぶやくと、魔王は悲しそうな表情をした。
そして思わずと言ったように、声をかける。
「……たった一人でこの世界に来て、怖かっただろう」
「……っ」
その瞬間、ひまりは衝撃で身がすくんだ。
「……あ」
魔王の声には、純粋にひまりを心配するような色が浮かんでいた。
それは初めて、この世界でちゃんとした大人にかけられた言葉だと思った。
──怖かっただろう。
そうだ。そうだった。
この世界の人たちは、みんなひまりのことを特別だと思っていた。
異世界から来た聖女。
神聖で、尊いもの。
だからこそ、ひまりの身にかけられる言葉は、どこかひまりを大人として見ているようなものが多かった。
実際、この国の成人は十五歳で、そこからは大人として認められている。
だからこそ、ひまりは日本にいたときと違って、本当の意味で誰かに甘えたりすることができなかった。常に緊張しているような状態だった。
けれど魔王が初めて、客観的な視線から、大人として、子どもの庇護者として、その言葉をかけてくれたのだ。
それは、お父さんとお母さんみたいな。
大好きな学校の先生みたいな。
子どもを本当に心配する、大人の言葉だった。
中学生のひまりが、一番求めていたもの。
欲しくて欲しくて、仕方なかったもの。
「なんで、あなたなんかが……」
ひまりの顔はとうとうくしゃりと歪んだ。
「う……うぅ……」
だって、誰も教えてくれなかった。
何が本当なのか、嘘なのかも、わからない。
わたしはいったい、どうすればよかったの?
その場に泣き崩れる。
熱い涙が、床にこぼれ落ちた。




