解呪
そこは、真っ暗な空間だった。
わたしはいつの間にか、その空間の中を、一人立っていた。
あのときと同じだ。
わたしはここで何度か、不気味な影と向き合った。
あの影のことを思うと、怖くなった。
わたしは、あの影の声に、甘い言葉に、のせられて……。
ぶるる、と身震いしていると、暗闇から光が溢れ出し、まるで走馬灯のように、今までにあった過去を映し始める。
孤児院で育ったこと。
神殿へ預けられ、辛い思いをしたこと。
ヒマリとの出会い。
苦しいシーンが、いっぱい。
見ていて胸が痛くなった。
我ながら、ひどい人生送ってるなあ。
──ねーえ、物足りないんでしょう? まだ復讐をしたいんでしょう?
ふと、闇の中に声が響いた。あの声だ。
──あんなのじゃ、甘っちょろい。エルダー殿下なんて、死んでないのよ。
甘い甘い声。
──力を貸してあげる。あのときみたいに、もう一度、楽しいことしよう?
わたしの周りを、甘ったるい香りが取り囲んだ。
けれどわたしはため息をついて、それを振り払う。
「邪魔。あんたの力なんか、いらない」
──……どうして? あのときはわたしに協力してくれたじゃない。あなたは甘いところがあるから、わたしが復讐を手伝ってあげると言っているのに。
「もういいんだってば、そんなことは」
──……嘘つき。憎いはずでしょう、あなたにひどいことをしてきた人たちが。
「そりゃあ、まあ、そうだけど」
──じゃあなんで?
「あんた、バカじゃないの?」
わたしはため息を吐いた。
「わたしが、そんな無駄なことに時間を割くと思ってんの?」
沈黙が落ちる。
「わたし、やろうと思えばあいつら全員殺せる。でも別に、そんなことやらない。時間の無駄だから」
わたしはもう知っている。
幸福の在り処を。
ほしかったものが、どこにあったのかを。
「わたし、苦しいのよりも楽しいのが好きだからさ。あんなやつらのためにもう一秒だって時間を使いたくないよ」
そんなことよりも、わたしは魔王さまのそばで、幸せに暮らしたいもん。
いったい復讐なんて、なんでそんなことにわたしの大切な時間を使わなきゃいけないわけ?
それにすでに一度、みんなぶっ殺してるから、これ以上はいい。
殿下なんか、まだ回復してないみたいだし。
──ヒマリは? ヒマリのことは? あの嘘つき女。
「……わたし、ひどいこと、言っちゃったから」
ずき、と胸が傷んだ。
よく覚えている。初めて神殿の庭で言葉を交わした日のことを。
あの子はわたしに助けを求めていた。
あの子を初めて見たとき、わたしはかわいそうって思った。
そして……そう思っただけ。
わたし、関係ないって、思ってた。
わたしもさいてーだったよ。
「今はまだ、面と向かいあう勇気はないけど……でも、魔王さまに相談してみるつもりなの。どうすれば彼女を、助けることができるのか」
あの子は、お父さんもお母さんも、友達も、何もかもを置いて、この世界に来てしまった。
どれほど孤独だったのだろう。
その悲しみと絶望は、わたしもよく知っている。
助けを求める彼女の声を無視したわたしは、ほんとに最低だった。
だから彼女を責める気には、なれない。
「残念だけど、もうおしまい」
わたしはため息をはいて、闇を見上げる。
「わたしは、わたし。あなたなんかに、乗っ取られたりしない」
そう。
わたしはプレセア。
もう誰に使われることもない、自由なプレセア。
魔王さまの、プレセア。
「籠の中の鳥だってね、鍵の開け方覚えて、出ていっちゃうんだからさ」
──……
「外に行くのも自由。新しい、優しい飼い主を自分で見定めるのも自由。だからもういいの」
暗い影の中から、すうっと一人の少女が出てくる。
それは、わたしだった。
十五歳の、辛くて、寂しくて、悲しい思いを抱えたわたしだった。
──みんなが憎い。わたしにひどいことしたみんなが。
「うん」
──わたしと同じ分だけ、苦しめてやりたい。
ちょっとだけ笑えた。
もう一回半殺しにしてるのに。
「魔王さまが教えてくれたの。大切なこと。自分の幸せを、自分を大切にしていいんだって。憎しみのために、自分を不幸にする必要ないって」
わたし、中途半端な女だから、人なんか殺したらいつか病んじゃうよ。
過剰な復讐していいのは、メンタルがマジで強い人か、もう生きる気のない人だけだ。
あいつらを憎いと思う気持ちか、殺したあとに残る罪悪感か?
わたしはそんな天秤、壊すよ。
いらないから。
わたしは教えてもらった。
幸福とはなにかを。生きる意味を。
「わたしはね、ずっと、誰かに愛されたかった。誰かに認めてほしかった」
そう呟いた瞬間、もう一人のわたしは、顔をぐしゃりと歪めた。
「だけどわたし自身が、もう長い間忘れていた。人を愛するということを」
今ならよく分かる。
愛されることも、人を愛するということも、同等に幸福なのだということが。
愛に飢えていたわたし。
その二つがなければ、きっと一生、心は満たされないままだっただろう。
「わたしは魔王さまに、人に愛されることも、人を愛することも教わった。そんな素晴らしいものを手に入れたのに、もう辛いことにわざわざ首を突っ込まなくてもいいんだよ」
手をのばす。
「一緒に帰ろ。魔王さまのとこ。みんな待ってるから」
彼女はゆっくりとまばたきをした。
瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。
──もういいの? 誰かを恨まなくても。もうわたし、疲れてしまった。
「うん、そうだよ」
わたしはわたしを抱きしめる。
「大丈夫。これからは、魔王さまが一緒だから」
どんなに辛いことがあっても、魔王さまが一緒なら、大丈夫。
彼の存在を知っているのなら、わたしはなんだって乗り切れそうな気がする。
──……うん。
「もうひとりのわたし」はこくりと頷いたあと、光の粒子となって、わたし自身の中に入っていった。
ぽう、と胸の中があったかくなったような気がする。
これでもう、ほんとにおしまいだ。
誰かを憎む気持ちも、つらい過去も、全部受け入れて、わたしは大人になっていく。




