春嶋ひまり⑤ ヒマリ視点
きっかけは、ひまりだ。
ひまりはプレセアに告げてしまったのだ。
人質にされているはずの孤児院の院長は、とっくの昔に死んでいたのだと。
そう告げた瞬間、プレセアは、今までにないほどの感情の変化を見せた。
ひまりには、何が起こっているのかよく分からなかった。
プレセアは、ひまりと牢獄で会話をしたあと、自らの力で拘束具を壊した。
壊れたような、何かが軋んだような叫び声を上げながら、何もかもを破壊し尽くしていった。
それは、小さな嵐のようだった。
牢屋はこわれ、建物は強い風と、なんらかの魔法によって、ぐちゃぐちゃに壊されていく。
プレセアが歩くたび、周りのものはすべて破壊されていった。
ひまり自身も、プレセアの魔法の暴走によって、大怪我をおった。
プレセアはひまりを引きずって、他のあらゆるものたちを傷つけながら、この祈祷場までやってきた。
ひまりは、あのとき感じた違和感は、別の物だったのだと理解した。
プレセアは人間じゃない。
かといって、魔族でもない。
もっと何か……別の次元に生きる、生命体なのではないか、と。
──ああ、わたし、死ぬんだな……。
血が止まらない。
聖女の力も、もう使うことができない。
それほど死に差し迫った状態なのだろう。
周りには怪我人とも、死人とも言えないほどの人たちが転がっていた。
神殿の祈祷場。
地獄というのは、こういうことを言うのだろう。
なんだか眠たい。
ひまりはゆっくりと目を閉じた。
ふと、ひまりはひどいデジャヴュを感じた。
そしてようやく気づく。
──そうだ。私、あのとき、事故にあったんだ。
この世界に来る前のこと。
ひまりは学校の帰り、飛び出してきたトラックに跳ねられたのだ。
救急車の中で救命救急士がなにかを叫んでいたこと。
病院で両親が泣きながらひまりを名を呼んでいたことを思い出した。
──あのとき、もっと生きたいって、強く願った。
そうしたら、この世界にやってきたのだ。
ひまりはそうか、と思った。
ひまりの命はすでになくなっていて。
きっと神様が、願いを叶えてくれたのだ。
この世界での生は、ボーナスタイムのようなものだったのかもしれない。
「おかあ、さん……」
ひまりは最後に自分の母と話した言葉を覚えていない。
それくらいありきたりな日常の中から、ひまりは突如切り離されてやってきたのだ。
「おと、さん……」
なんでもっと、お母さんとお父さんに親孝行しなかったんだろう。
兄と昔みたいに、ゲームしたり、遊びに行ったりしなかったんだろう。
瞼の裏に、日本での思い出が甦った。
海沿いの中学校。
きゅっきゅってバッシュの音がなる体育館。
帰りに寄ったコンビニで、唐揚げを買って、友達と食べたっけ。
「死にたく、ない、なぁ……」
一度死んでいるのに、もっと生きたいと思うのは贅沢なのだろうか。
だんだんと意識が遠くなっていく。
けれど聞き慣れた声が、ひまりの耳に届いた。
「ヒマリ……ヒマリ……」
「……でんか?」
エルダーは体を引きずって、ひまりのもとへやってこようとしていた。彼の負傷は目も当てられないほどだった。出血が多すぎる。もうすぐ死ぬことは、火を見るよりも明らかだった。
それでもエルダーはひまりを守ろうとしていた。
自分だって、死にそうなのに。
ひまりの目から涙が溢れた。
ひまりは心の何処かでは、エルダーでさえ、許していなかったのかも知れない。
信じていなかったのかもしれない。
そして馬鹿にしていたのかもしれない。
けれどそんなひまりを、エルダーは守ろうとしたのだ。
自分の命を投げ売ってまで。
エルダーは、確かに、ひまりを愛していた。
──本当に馬鹿だったのは、殿下じゃなくて、わたしだ。
ひまりはエルダーの指先に触れて、その手を握った。
──でも、最後の最後まで、馬鹿じゃなくてよかった。誰かから愛されてたって、きっとこんなにひどいことしなくても、王宮を追い出されなかったって、分かってよかった。
ごめんなさい。
ごめんなさい、プレセア。
目をつぶる。
ひどい寒気と眠気がした。
けれどふと、ぴりりとした痛みを指先に感じて、まぶたがひらく。
──あれ……? 殿下……?
エルダーに、なにか黒い靄がかかっているように見えた。
あれは一体なんだろう。
正体はわからないけれど、とてつもなく悪いもののように感じる。
けれどひまりにはもう、それを確かめるすべはなかった。
今度こそ本当に終わり……そう思ったとき。
祈祷場の扉が開いて、何者かがコツコツと靴音を鳴らしてこちらにやってくる音が聞こえてきた。




