春嶋ひまり④ ヒマリ視点
それからしばらくしたある日。
ひまりは果物ナイフで、自分の腕を切った。
祈祷場にカラリとナイフを落とす。
それからありったけの声で、叫んだ。
慌てて飛んできた側仕えたちに、血を流した腕を見せる。
「ヒマリさま!?」
「プレセアさんが……わたしなんか聖女にふさわしくないって」
涙を滲ませれば、それだけでみんなはひまりのことを信じてくれた。
それは聖女になりたいと努力してきたひまりのおかげもあったし、プレセアに人望がなかったせいもあるのだろう。
「どうか泣かないでくれ」
飛んできたエルダーは、ひまりにそう言って、慰めてくれた。
「もう終わりにしよう」
そう言って、あの断罪の場を設けてくれたのだ。
婚約破棄と聖女の地位を奪う宣言を行ったあのパーティの日。
エルダーの宣言を聞いたプレセアは、いつもよりほんのわずかに感情を見せていた。感情を見せる、というよりは、感情を抑える、といった方が正しいだろうか。
体などは震えて、やはりショックを受けたようだった。
ひまりはそれを見て、いい気味だと思った。
あの大嫌いな瞳が、今は不安に揺れているような気がする。
サークレットがその額から失われる瞬間など、一番動揺していた。
それを見ているだけで、心に降り積もっていた不安が吹き飛んで、一気に安心感が満ち溢れた。
サークレットはひまりの額に収まると、ふんわりと優しい光を帯びた。
そのとき、ひまりは嬉しくて嬉しくて、涙が溢れ出したのだった。
これでやっと、聖女になれる。
みんながひまりを祝福している。
そう思った。
けれど、現実はそううまくはいかなかった。
ひまりはもともと、別にプレセアを殺そうとか、ひどいめにあわせようと思っていたわけではない。
ただプレセアを聖女の地位から退けたかっただけなのだ。
ひまりの温情ということで、神殿から追い出して終わりにするだけのつもりだった。
その方が結局、プレセアにとってもよかったのかもしれない。
けれどエルダーは、プレセアを処刑してしまったのだ。
ショックだった。
人を殺してしまったと思ったから。
日本の中学三年のひまりにとって、その事実は重くのしかかってしまった。
人殺し。
たとえそんな意志はなかったとしても、その事実に変わりはない。
ひまりは病んだ。
プレセアを嘘で嵌めて処刑させてしまったことに。
エルダーもやりすぎだとは思ったが、結局そのきっかけを作ったのは自分だったのだから。
しばらくの間、ひまりは寝込んでしまった。ストレスでものもうまく食べられず、それでも結界は張り続けなければいけなくて、ずいぶんとやせ細ってしまった。部屋で眠ったり、堅苦しい王宮から抜け出して街へ遊びに行ったりして、なんとかごまかしていたが、それでも心に降り積もるストレスは、はねのけようがなかった。
そしてそれに積み重なるようにしてやってきたのが、ひまりにとって初めての魔物の氾濫期だった。
ひまりはそのときになってようやく、プレセアがどれほどの苦労を強いられていたのかが分かった。
ひまりでも、瘴気を抑えきることが難しく、三日三晩寝ないで祈祷し続けても、なかなかスタンピードを終わらせることができなかった。
もともとプレセアが基礎の結界を張った上で、ひまりは足りない部分を補修していたようなものだったのだ。基礎からすべて自分一人で、となると、できなくはないが、いつまでも自分一人でやり遂げることは難しいだろうと感じた。
だからその話を聞いたとき、ひまりは本当にホッとした。
プレセアが生きているかもしれない。
うまくやれば、戻ってこさせることができるかもしれないと。
ひまりはプレセアに、ひどい罪悪感を抱いていた。
だからこそ、今生きているのならどこにいるのか不安だったし、早く王宮で保護したほうがいいと思ったのだ。
よかった。
わたしは、人を殺してなんて、いなかったんだ。
安堵して体から力が抜けたのもつかの間、しかしエルダーはとんでもない提案をひまりにした。
それはプレセアを第二妃にして、王宮と神殿に縛るというもの。
──この人は、なんだかおかしい。
ひまりはエルダーに、そう感じていた。
エルダーは、プレセアに子どもまで産ませると言っているのだ。
生粋の日本人であるひまりには、そんなことは考えられなかった。
けれどプレセアと再び二人で一緒に祈れば、今までよりもずっと楽になるのは事実で。しかも聖女と正妃の座はひまりにあり、プレセアは影のような存在になるのだという。
ひまりは王宮から追い出されはしない。
ひまりはプレセアに罪悪感を抱いていた。
だからこれからは、王宮でプレセアを保護すればいいと思ったのだ。
ヒマリがいる限り、エルダーはプレセアにひどいことはしないだろう。
それがプレセアを連れ戻すことと、エルダーの妻が二人になる、という事実を天秤にかけた結果だった。
そうして、プレセアをうまく連れ戻したけれど……。
その結果、最悪なことが起こってしまった。




