春嶋ひまり② ヒマリ視点
それはひまりがこの世界へやってきて、三月ほどがたった頃だった。
ひまりは王宮と神殿を行き来しながら暮らしていた。
神殿に移動する際は、やりすぎなのではないかと思うほど厳重な管理のもと、お供をつけて移動していた。
その日は偶然、エルダーも同行するということで、楽しくお話しながらの移動となった。
そして神殿の祈祷場に入ったひまりは、そこで美しい存在に出会ってしまったのだ。
扉を開けて祈りの場へ進み出ようとしたとき、祈祷場にステンドグラスから差し込む光を浴びて祈りを捧げる、美しい少女が目に入った。
長い金色の髪は、まるで宝石を散りばめたかのように、キラキラと輝いている。普通の金髪ではない。陽の光を溜め込んだかのように、眩い不思議な髪色をしていた。後ろ姿だけでも、ほっそりとしたしなやかな体躯をしていることが分かった。
「誰……?」
思わずひまりはそう呟いた。
そんな彼女が、立ち上がってこちらを振り返る。
「……っ」
ひまりはその少女の異様さに、息をのんだ。
髪もそうだったけれど、瞳もまた、常とは一線を画した色をしていたからだ。
遠目からでもはっきりと分かるほど、発色の良いマゼンダ色。
その瞳は宝石のように透明度が高く、ちらりちらりと輝く不思議な光を宿していた。
顔の造形も、まるで人形のように整っている。
肌が真っ白なのは、痩せすぎのせいもあったのかもしれない。
少女は痩せ細って、生気がなかった。それがまた、彼女を一段と神秘的に魅せていた。
それは確かに、美しい存在だった。
けれどひまりは、その少女にひどい違和感を覚えた。
一体、なんなのだろう、この違和感は。
──人間じゃ、ない?
違和感の正体を探っているうちに、そんな言葉が思い浮かんだ。
人間じゃない、なにか異質なもの。
わたしたちとは、相容れないもの……。
ぽうっとひまりが少女を見つめていた時間は、わずかしかなかったのかもしれない。
「プレセア、なぜ貴女がここにいる」
苦虫を噛み潰したような表情で、エルダーが叫んだ。
少女の名はプレセアというらしい。
ひまりはエルダーに守られるように、その背へと隠されてしまう。
「今日はひまりが祈りを捧げる日だ」
「……そうでしたか」
鈴の音のような、軽やかで心地の良い声だった。
けれどやっぱり、感情がない。
「すぐにここを退きます」
まるで機械みたい……。
「さっさと行くがいい」
エルダーは苛立ちの滲む声で、そういった。
プレセアはひまりには見向きもせず、音もたてずに祈祷場から出ていったのだった。
◆
けれど結局、プレセアと祈祷場で鉢会ってしまってから、ひまりは集中して祈りを捧げることができなかった。
神殿の庭に出て、ひまりはエルダーに彼女のことを聞いてみた。
祈祷場にいたあの子は、いったい何者なのか、と。
エルダーは迷いながらも、静かに打ち明けた。
「……彼女は今代の聖女で、わたしの婚約者だ」
「えっ」
ひまりの心は凍りついてしまった。
今代の聖女。
エルダーの、婚約者。
それはてっきり、今までひまりが手にしていたと思っていたものだった。
頭が真っ白になってしまう。
──それなら私という存在は、一体なんのためにあるの? どうしてここにいる必要があるの?
ごく普通の少女ひまりがここにいられる理由。
それはエルダーの後ろ盾があるからであり、自身の身に突然舞い降りてきた聖女の力だった。
けれどひまりは、この一瞬でそれらすべてを失ってしまったような気がした。
「ヒマリ。どうか心を落ち着けて聞いてほしい。プレセアではダメなんだ」
ショックを受けたひまりを宥めるように、エルダーはひまりの肩に手をおいた。
「彼女では、聖女の任を負いきれない」
エルダーはプレセアがどういう存在であるのかを、ひまりに説明した。
歴代の聖女は、ほとんどが貴族の娘の中から選ばれていたこと。
この国において魔力持ちというのは忌み嫌われる存在であるのに、プレセアは聖力と同時に、強大な魔力も持ち合わせていること。
そして彼女自身、聖女として国を背負う気力がなく、いつもエルダーを困らせていることなど。
「だから私は、ヒマリこそが本当の聖女だと考えている」
「でも……」
「これは、神の起こした手違いだったのだ」
エルダーはひまりにそう告げた。
「プレセアは聖女足り得る能力も、慈愛も、学も、何もかもが足りていない。彼女が聖女として君臨し続ければ、やがてこの国は滅びるような気がしてならないのだ」
「……殿下」
ひまりはそれを聞いて、少しだけ心が落ち着いた。
それは仄暗い優越感というか、安心感のようなものだった。
ひまりより先にお告げが下り、聖女となった少女。
けれど少女には、エルダーからの寵愛も、聖女としての力も、聖女足りうる器の大きさも、ない。
あるのはただひまりより先に聖女となった、という事実のみ。
「ヒマリ、どうか私のことを、信じてほしい」
ひまりがぼうっとしていると、エルダーはいきなり、その場に膝をついた。
「殿下?」
ひまりの手をとって、静かに告げる。
「わたしは、貴女のことを愛している」
「!」
「初めて見たときから、これは運命なのだと、そう思った」
なんてことだろう。
美しい緑色の瞳が、ひまりを捉えてはなさない。
「どうか、私の妃になってはくれないだろうか」
その真摯な言葉は、ひまりの心を打った。
たった一人、日本からこの世界へ呼ばれてしまったひまり。
けれどエルダーが支えてくれた。
この世界の人達が、ひまりを支えてくれた。
だったらひまりは、その人達の恩に報いたいと思う。
「私も、エルダー殿下のことが、大好き。今まで出会ったどんな人たちよりも」
「ヒマリ……」
「あなたに婚約者がいても。わたしが聖女じゃなくても。その気持ちは変わりません」
ひまりの頬を、つう、と涙がこぼれ落ちた。
もしかしたら、ひまりとエルダーは結ばれないかもしれない。
聖女になれなくて、いつの日か王宮から追い出されてしまうかも。
そうしたら、ひまりの居場所はなくなってしまう。
日本に帰れないのなら、ひまりの居場所はここしかないのだ。
ひまりは馬鹿じゃなかった。
オルラシオン聖王国の文明がどの程度のものか、よく分かっている。
女の身一人で暮らすことなど、できない。
娼婦に身を落とすことくらいでしか、生きていけないと、理解していた。
エルダーを好きという気持ちは、本当だった。
けれどエルダーの告白を受け入れるのには、一つの打算もあった。
わたしはここでしか、生きていくことができない。
この世界の中でたった一人の日本人には。
中学三年生のひまりには。
十五歳のひまりには。
それを受け入れることしか、できないのだ。
その他の道を探ったとして、女ひとりでうまくいく気がしなかったのだから。
ひまりはエルダーの口づけを受け入れた。
それは本当の愛でもあったし、打算の結果でもあった。
だから、目がくもってしまったのだ。
真実を見極める瞳が。
信じること。
それはとても無責任なこと。
疑おうとするのは、ものを知ろうと努力するからだ。
ひまりはとうとう、「信じる」という甘い言葉に惑わされて、真実を見極める瞳をくもらせてしまった。




