春嶋ひまり① ヒマリ視点
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
聖女ヒマリ……春嶋ひまりは、朦朧とする意識の中、かろうじて動く首だけを傾けて、神殿の祈祷場に目を向けた。
神への祈りを捧げるその場所は、血溜まりとなっていた。
そしてその中に、ナイフを持った少女が、なんの表情もうつさずに、ぼんやりと立っている。
ステンドグラスの光を浴びた血まみれの少女は、どこか神聖で、美しかった。
少女が浴びた血でさえも、どこか神秘的なものに見える。
──あの子が、あんなこと、するなんて……。
呼吸をするたびに、傷つけられた内臓から血が溢れ出た。
口から血を吐いて、むせる。
ひまりにはもう、自分自身を回復する手立ても残っていなかった。
──あのときと同じ目をしてる。
初めてこの少女にあったときと。
こんなことになるなら、こんな世界、来なきゃよかったな……。
走馬灯、というものなのだろうか。
ひまりは霞む意識の中、少女──プレセアと出会ったときのことを思い出した。
◆
春嶋ひまりは、日本という国で暮らす、ごくごく普通の中学三年生だった。
別にとびきり可愛かったとか、頭がすごくよかったとか、そういうことはなかった。
けれど毎日中学に通って、勉強して、バスケットボール部で汗をかいて、帰りに友達とコンビニに寄り道して駄弁ってと、そんな日常の楽しさを理解している、幸せな子どもだった。
喧嘩することもあるけれど、父と母と兄と、平穏な暮らしを送っていた。
何もかもが、普通だけど、順調で幸せな人生に、ひまりは満足していた。
けれどある日、その生活は唐突に終わりを告げた。
ひまりは突如として、この世界に呼び出されてしまったのだ。
確かにそのとき、ひまりの身に何かがあったような気がする。
けれどひまりはこの世界へ来る直前のことが、どうしても思い出せない。
なにか大切なことが、起こっていたような気がするのに。
そうして、気づいたら、教科書の中で見るような、聖堂のような場所にいたのだった。
「本物の聖女様がいらっしゃったぞ!」
わーわーと、周りで白い服を着た神官たちが騒いでいる。
ひまりは夢を見ているような気分だった。
というか、ずっと夢を見ていると思っていた。
「これが……異世界の聖女、なのか?」
明らかに日本じゃないということ。
言葉も違うはずなのに、なぜか理解できるということ。
おかしなことはたくさんあったけれど、ひまりはそれらを気にする前に、エルダーのことで頭がいっぱいになってしまった。
それは、運命だと思った。
柔らかな茶色の髪に、緑色の瞳の、美しい青年。
不安も驚きも全てどこかへ行ってしまい、ただただエルダーに視線が吸い寄せられる。
それはまた、エルダーも同じだったようで、二人はしばらくの間、お互いから目を離すことができなかった。
これがエルダーとひまりの出会いだった。
ひまりはどうやら「聖女」としてこの地球とは異なる世界に呼び出されたようで、その日から王宮で暮らすことを余儀なくされた。
聖女とは、魔界の瘴気から国を守る人のこと。
それは特別な「聖力」を持つ人しかなることができない。
ひまりは選ばれた人種だったのだ。
けれど始めは、日本が恋しくて仕方がなかった。
家族や友達、学校に部活。
ひまりが日本に戻りたい理由はたくさんある。
「お母さん……」
何度母を呼んだか、わからない。
東京の暮らしを夢に見て、涙を流したか、数えきれない。
けれどひまりは帰り方が分からなかったのだ。
王宮や神殿の人たちも、こんなことは前代未聞で、分からないという。
それが本当なのか、ひまりには知るすべもなかった。
だって王宮の人たちは、ひまりに帰ってほしくないようだったから。
寂しかった。もう日本に戻れないのだと思うと、辛くて涙が出た。
けれどそんなひまりを支えてくれたのが、エルダーだった。
ひまりが寂しいといえば、そばに居てくれたし、見たこともない豪華で高級なたくさんの贈り物をくれた。それは平凡な家庭にあったひまりでは、一生かかっても手に入れられないような代物ばかりだった。
ひまりにつく女官や侍女も、王宮のみんなも、優しくしてくれた。
それはひまりが聖女の力を持っていたからということが大きかったのだろうが、それでもひまりは嬉しかった。
たったひとりこの世界にやってきた。けれどひとりじゃない。支えてくれる人がいる。
あなたこそが救世主なのだと、言われているような気がした。
ひまりには聖女の力というものがあった。
それはこの国に結界を張り、傷ついた人たちの傷を治すという、魔法のような力。
ひまりは教えられたとおり、神への祝詞を口にして、祈ってみた。
それはとても、心地よかった。
体がポカポカとして、よく晴れた日に、小高い丘にいるみたいな。
そんな柔らかくて優しい気配が、体の中に満ち溢れた。
ひまりが祈るその姿を見て、誰もが驚いたという。
ステンドグラスからこぼれ落ちる光を受け止める姿は、まさしく聖女だったのだと。
ひまりはそのとき、自分の役割を理解した。
自分は聖女で、この国の人たちを守るべきなのだと。
たくさんの人たちが、ひまりに優しくしてくれた、その恩に報いるために。
聖女としての力。
そして、エルダーの存在。
ひまりはけして、日本へ帰りたいという気持ちが消えたわけではない。
けれどそれらのことが決め手となって、ひまりはわずかに、この世界にとどまってもいいかなと思うようになっていた。
けれどそんな矢先、ひまりは出会ってしまったのだ。
プレセアという、それはそれは美しい少女に。




