怒り
「ああ、それから……」
ヒマリちゃんはぽつりと言った。
「あのお話、嘘なんだって」
「え?」
あのお話って、なに?
「ほら、プレセアって、その……ここに来るのに、孤児院の院長先生? のことを人質に取られてたようなものなんだよね?」
「……そう、だけど」
ひまりちゃんの顔に苛立ちが浮かんだ。
「それ嘘なんだよ」
「どういうこと……?」
わたしは激しく動揺してしまった。
もう人質になんか、されてないってこと?
それだったら、それだったで、いいんだけど……。
けれどひまりちゃんは、わたしの反応を見て、ほっとしたような顔で言った。
「院長先生、もうとっくの昔に死んじゃったって」
「……」
「孤児院ももうないって聞いたよ」
頭が真っ白になった。
「エルが処刑したとかじゃなく、勝手に死んじゃったとか言ってたけど……」
「どう、して……?」
「えと、風邪をこじらせちゃったんだって。それで神殿に併設していた孤児院も、予算の都合で終わりにしたって聞いたけど」
さあっと頭から血の気が引いた。
指先が冷たくなっていく。
やけに心臓の音がうるさい。
「エルが嘘ついてごめんなさい。わたしも最低だと思っていて……だから、言わなきゃって思ってたの」
貧血のときみたいに、視界が狭くなっていく。
「そんなもので人を縛り付けるのは、良くないって思ったから」
なんで。
なんで……?
「私もこういうの、嫌いだから」
わたし、だって、あの人のために。
「ねえ、これでプレセアも、心に引っかかることはないでしょ? 嫌なことは嫌って言っていいんだよ。人質なんて、もういないから」
十年も、
「ここにいれば絶対安全だからね。わたしが守ってあげるから」
頑張ったのに。
「エルはプレセアの子どもを私の側仕えにするとか言ってたけど。それもちょっと無理な話だよね、意味分かんないよね」
わたしは、
わたしは。
「……い」
「……え? なに?」
体が熱い。
心臓が痛いくらいに、早鐘を打っている。
「みんな、絶対に許さない!」
──パキン!
薄闇の中に、細く鋭い音が響いた。
何かが割れるような、金属質な音。
「……っ」
パキ、ピキ……。
音は連続して薄闇に響く。
「わたしは交渉に来たつもりだった」
「なに、やって……」
「でももう、どうでもいい」
視界がチカチカする。
世界が真っ赤に見えた。
「殿下呼んできて」
「え、エルは忙しいから、来られないよ……」
「……そう」
視界がぼやけて、ボロボロと熱い涙がこぼれ落ちた。
バキン! と激しい音がして、とうとう拘束具が壊れる。
「ッ!?」
何が起こったのか、よくわからない。
頭の芯がぼうっとして、自分が何をしているのかも、認識できなかった。
それから、甲高い女の子の悲鳴が聞こえてきた。
なにか、大変なことになっているようだ。
◆
突然、視界が真っ暗になった。
──ねえ、言ったでしょ? あなたは本当は、復讐したいのよ。
どこかで聞いたことのある声。
ああそうだ、熱を出して寝込んでいた時、こんな感じの夢を見たっけ。
闇から出てきたのは、あの不気味な人型をした影だった。
──やっと自分の枷を外せたんだね。
枷? なんの話か分からない……。
──いいの、気にしないで。あなたはあなたの気持ちに向き合って。それで選べばいいの。
ケラケラと笑う声が、暗闇に響いた。
──ほら、思い出すのよ。あなたの大切な思い出を。
そう囁かれた瞬間、わたしの脳裏に、燃えるような夕日が思い浮かんだ。
ああそうだ。
これは幼い頃、孤児院の先生と一緒に歩いた道だ。
小さなころ、先生はわたしの手を引いて夕方の道を歩いてくれた。
他の子どもたちと喧嘩をしても、諭して、慰めてくれた。
五才のとき、わたしが聖女になったときも、不安そうに、寂しそうに心配してくれた。
だからわたし、十年も頑張ったのに。
身体中が痛くて。
色んな人に嫌われて。
ひとりぼっちで寂しくて。
それでも、わたしのせいで死ぬ人がでないように、必死で頑張っていたのに。
それも全部ぜんぶ、無駄だった。
わたしの十年は、やっぱり、嘘ばっかりだったんだ。
わたしはもうわかっている。
魔界の人たちは全然悪い人たちじゃないことを。
人間界よりも文明が進み、よほど安定した世界であることを。
人間界で言われる聖力は、魔界で言われる白魔力なのだということを。
人間界でも、探せば白魔力を持っている人が、きっといることを。
わたしが聖女なんてやらなくてよかったことを。
魔王さまが、優しくて、いい人だってことを。
わたしの十年は、全部無駄だった。
バカなことに時間を費やしてしまった。
──ねえ、憎いでしょう?
うん、憎いよ。
みんなみんな、憎い。
嘘つき。
だいっきらい。
──じゃあ、どうしたい?
その声はひどく甘い誘惑のように思えた。
わたしは慟哭するように叫ぶ。
みんな、死んじゃえばいいんだ。
影が、ニイっと歪んだ笑顔を浮かべた。
──みーんな、殺してあげる。あなたの願いどおりに。
◆
「助けてくれーっ!」
ぼんやりと、遠いところからなにかを叫ばれている気がした。
わたしはフラフラと歩いていたらしい。
歩いて、いつの間にか神殿に来ていた。
懐かしい。
でも、なぜか、周りは真っ赤だった。
殿下の声。
ヒマリの声がする。
なんか、助けてって言ってる。
でも、分からない。
わたし、何をしてるんだろ。
体、おかしい。思い通りに動かない。
なんで周り、真っ赤なんだろう……?
この手に握っているものは何?
最後に見えた彼らの顔は、わたしを見て
バケモノ
と叫んでいた。




