ドン・ガネーシャ
胃の中身をビルにあるトイレの洗面台で全部ぶちまけた後、俺はアツシの事務所に戻り、ほぼノーブレスの説教を受けた後、街をぶらついていた。
アパートに戻っても、何もない。
やるべき事が、ある訳でもない。諸々の手続きはナガイさんに任せている。
それに……あの自殺令嬢とやらの事が、頭にこびりついて離れなかった。
自殺がトレンドだなんて狂人の事を考えるだけでムカムカしてくるのに、しかし考えずにはいられない。
だから、あのイカレタ女の事を忘れられるだけの、興味ある事柄を見つけようと、俺は躍起になっていた。
どのくらい躍起になっていたかというと、昼飯を抜いて、陽が落ちた後も探索を続け、夜の七時まで食事をとっていなかったくらいだ。
にもかかわらず、収穫はゼロ。
大型車がほとんどないせいか、車の騒音はあまりないが、人込みとチカチカうるさい電飾、違法駐車を取り締まるロボットは足元を常にうろついている気がする……腹は空腹を絶え間無く訴えてくるし……ああ、うるさい。
膝元くらいの高さしかない機械仕掛け共を蹴り飛ばしたい衝動をこらえ、この街では珍しい、電飾が一切無い、『ラーメン』というシンプルな看板を掲げた、何を目的で商いをしているのか実にわかりやすい店の戸を開けた。
たった五つしかない椅子は地に足がついており、右奥にはやたらと小さい、映像機器というより、むしろ骨董品としての価値がありそうな液晶テレビが設置されていた。
店内には湯気がもうもうと立ち込めているが、エアコンやクーラーなどで空調を整えている気配はなく、網戸を張った窓を開け放っているのみ。
環境としては、よろしくない。だから稼ぎ時にもかかわらず、恰幅の良い褐色の肌を持つ男だけが、ラーメンを一人でずーずーと啜っているのだろう。
でも、そんな昔ながらの店構えと、空腹が、貧相な椅子に俺を座らせた。
何より、ここなら安そうだ。他の店では金額の見当がつかない。
ラーメンと餃子、そしてライスを頼む。
……入院する前までは、こうしてラーメン屋で注文をとると、コウから『父さんよりも年寄り臭い』と渋い顔をされていたっけなぁ……
「ん? あれぇ……思い出せへんなぁ」
どこの方言なのか、訛りのある言葉で、二つ椅子を挟んだ、向こうの席に座る褐色の男がこちらを見ていた。
「あんさん、どこぞのタレントさん? スポーツ選手っていう体格やないし」
「彼は多分、アルファード社の冷凍冬眠CMに出ている人ですよ」
鉢巻を巻いた、こちらは色白で矮躯な店主の指摘に、そう言えば俺はアルファード社のCMに出ていたんだな、と理解する。
CMに出たと言っても、冷凍冬眠されている俺をカメラで収めただけだから、俺自身は何もしていないのだが。
「おぉー、世界ではじめて冷凍冬眠した人かいな。なるほど、どっかで見たことある顔やと思ったわぁ。バビー、サイン色紙もってこいや。電子サインなんかとは違って、価値出るでぇ」
「お客さん、気にしないで下さい。まったく、この人は」
名案を思いついたと言わんばかりの顔で、お椀とギョーザを乗せた皿を両手に持って俺の隣に移動してきた客に対し、頭痛をこらえるように額を押さえる店主が気の毒に思えてきた。
「あ、俺のサインなんかでよければ」
その言葉を遮るように、カラカラと音をたてて後ろの戸が開かれた。
「おや、カグラんとこの自殺令嬢かいな」
「こんばんは」
聞き覚えのある声に、俺は弾かれたように後ろを顧みて……いない?
「ラーメン一つ」
声は右隣の席から……おい、気配もなく動くなよオマエ。
それにしても、さっきビルから投身自殺したのに、今は隣の席に座っているなんて……これは何のギャグ漫画だ? いつからコイツはダイ・ハードの主人公に抜擢された?
「しかしあんさんがこんな所に来るとはなぁ。いっつも空見て飛び降りる場所探すか、手首ごと切れそうな刃物探すか、ぽっくりいけるクスリ探しとるあんさんがどういうつもりや?」
「もう貴方の所から何も買わないわよ?」
ガネーシャと呼んだ彼の方は一切見ずに、自殺令嬢は感情のない声で呟く。
「ナハハハハ、ユール街を仕切るドン・ガネーシャにそんな口きくたぁなぁ」
「ドン!」
店主の叱責に、ガネーシャはいい加減に左手を振るだけ。
「バビー。相手が国を動かせるカグラ財閥のお嬢だからって尻尾ふってたら、マフィアにしてはえらい情けなくないか? なぁ、あんさんもそう思わへん?」
……そこで俺を見られても、困る。
というより、この人、マフィア? 店主さんもドン、って言ってたな?
「ドン。カグラのお嬢はこの際、いいです。でも、彼はカタギです。何もドンがユール街を取り仕切るマフィアのトップだと、わざわざ口外しなくても!」
心底疲れたように肩を落とす店主が気の毒に思えてくるけどドン、って呼んでいる事は、彼もマフィアなんだよな?
いや、同情している場合じゃない。マフィアだなんて言ったら、人をコンクリ詰めにして海の底に捨てる最低の人種だと親父が言ってた。そんな奴等とは関わりたくない。
しかし、怖いからって、俺一人だけこの場を立ち去る訳にもいかないだろう。女一人見捨てて、のこのこ退散したとなればいい笑い者。
何とかしてコイツを連れ出さないと。