この世界では、人は、死にませんよ
それは最初、白い点のように見えた。
だが数秒もせずにそれが何なのかはっきりと見えたから、かえって凝視した。
風を一身に受け止めるよう両手を広げ、衣服をはためかせながら少女が落ちてくる。
そして……目の前に、落ちた。
グロテスクな音をたてて、気味の悪い中身をブチ撒けた、人間だったもの。
何が起こったのか理解出来ても、この現実を認めたくないとばかりに俺は思わず目を閉じ……?
悲鳴が、無い? 周りに、人はたくさんいるのに?
今、俺が目にしたものはタチの悪い幻覚……ではなさそうだ。鼻腔を満たす、どうしようもない血臭はひどくなる一方。あの凄惨な墜落死体は見たくなかったから、俺はひどくぎこちなく回れ右をしてから、ゆっくり目を開けた。
視線の先には、夜の闇に浮かぶネオンに彩られた無数のビル。
道路に我が物顔で陣取るは、車輪が無いホバークラフト車。
その脇には駐車違反を取り締まる、ひざくらいの身長の警備ロボと思しきものが、右に左にと感情の見えないカメラ・アイを奔らせている。
歩道には夜ということもあってか若いカップルが多いが、サラリーマン風の男もいればキャリアウーマン風の女もいるが、老人だけは男女関係無しに見当たらない。
そのいずれも、今起こった投身自殺に、一切の関心を払っていない。
悲鳴をあげる者は、いない。
救急車を呼ぼうとする者は、いない。
物見高さでこちらに歩を進める者、いや、視線を向ける者すら、いない。
投身自殺などなかったのかと、恐る恐る背後を視線だけで見やり……地面に血だまりが広がっていくのが視界に入った。
「どうしてだよ……自殺、したんだぞ?」
己にしか届かない独白。
いや、そんな疑問は後回しだ。
今はとにかく、救急車、救急車……ああでも携帯端末はないし……いや、死んだのなら警察か? 考えがうまくまとまらない。
ビルに据えつけられた巨大スクリーンの電飾が、癇に障る。
液晶画面の向こう側で、妙に気障っぽい筋肉質な男とスタイル抜群の美女が、水着を着てプールサイドで日光浴をしていた。何かのCMらしい。
『いつも若々しい肉体を保っていたいそこの貴方、朗報です!』
『貴方の万一に備えて、『蘇生保険』は必須なもの。『ブレイン・カンパニー』では……』
騒音を振り払うように目を閉じ、首を強く横に振り、
「すいません、少々遅れてしまいました……どうかしましたか?」
後ろからかけられた声に、反射的に振り返る。
黒のスーツで身を固めた痩身の壮年男性。名前は、確か、ナガイ・ヒロ・アキだったか。身形からしてやり手って感じの、エリート感バリバリの男。
「いいとこきてくれた。ナガイさん、話はあとだ。救急車、救急車呼んでくれ!」
彼は俺の視線の先にある少女の墜落死体と、色を失っているであろう俺の顔を見比べ、得心したように頷くと、何やら訳のわからない事を喋り始めた。
ジーンなんたらという会社でDNAを元にうんたらかんたらし、なんたらメモリーとかいうとこで何らかの刺激を与え……ええい、そんな場合じゃないだろ!
「あぁ、でもマズロー様のご病気については、冷凍冬眠から目覚めた直後にクローンから摘出した骨髄をそのまま移植することで治療が出来ましたので、費用はそれほど」
「だから、んなのはどうでもいいから!」
長い口上を遮るように、弱々しい呻き声が足元から聞こえた。
反射的に、俺は後ろを顧みてしまった。
綺麗な黒髪のボブカットは血で真っ赤に染まっていて、その面持ちも血で塗れてこれも真っ赤。だから、表情が見えない。頭蓋骨なんだろうか、白い部分が見えて……おぇ……
は、吐いてる場合じゃねえ。生きているのなら、とにかく、手当てを。
何が出来るのかもわからぬまま、少女に歩み寄り……
「マズロー様、時間が押していますので、急ぎましょう」
肩をつかまれた俺は、情けない事に引き摺られるままで、抗えない。
「ちょ、ちょっと待てよおい!」
冷凍冬眠から目覚めたばかりで、筋力が異様に衰えているからか、俺の身体はナガイさんに抵抗らしい抵抗が何一つ出来ない。
「いえ、ですから、マズロー様……長い眠りにつかれていた貴方には、まだ理解できないかもしれませんが」
俺の青い顔も、死にかけの少女も見えないと言わんばかりに、早口で、しかし一語一語区切りながら彼は言った。
「この世界では、人は、死にませんよ」