なんたる侮辱
シルバーグレーのドレスを身にまとったリリーは、いかにも高飛車そうで、どこからどう見ても勝ち気で取っつきにくそうな娘であった。さぞ隙がなく近寄りがたいことだろう。
わたくし、あなたのような未熟者と(以下略)作戦は成功したかに思われたが、残念なことに誤算があった。
リリーの兄は人当たりがいい。人を警戒させない。
そんな兄にエスコートされていたら、もろもろ相殺されて、結局は普通にダンスに誘われてしまうことになるのだ。
「一曲目は兄妹で踊るって決めててさぁ……」
リリーにダンスを申し込もうとする男たちを、兄はなんとかして追い払おうとしている。しかしリリーたちを取り囲む男たちは、兄が押しに弱いことを知っていた。
「いいじゃん。お前練習で散々一緒に踊っただろ」
「そうだよ。あんまり過保護にするのは良くないぜジェイミー」
「君もお兄さんと踊るのは本当は恥ずかしいよね?」
「え、そうなの?」
兄は愕然とした顔でリリーに視線をよこしてきた。
もう口車に乗せられている。
なんて使えない兄。
「靴のせいで、足が痛くて……」
リリーはなるべく恥じらって見えるように、呟いた。うるうると涙をうっすら浮かべることも忘れない。
すると兄の友人たちは「大丈夫?」「慣れないと大変だよね」と口々にリリーを気遣ってくれた。兄は「何でもっと早く言わないの?」と顔をしかめていた。いちいち説明するのが面倒くさくて、リリーは兄のことはもう大きな飾りだと思うことにした。
なんとか第一波は脱したが、すぐさま次の波がやってくる。小鳥の囀りのような笑い声を上げながらやってきたのは、リリーの友人たちである。ただし、彼女たちの目的はリリーではない。
「ジェイミー様。私、ダンスをたくさん練習したんです」
「一緒に踊ってください」
「私たちと順番に。いいでしょう?」
「あの、そうだね。それは楽しそうだけど……」
兄は少女たちの誘いを無下にすることと、壊滅的にダンスが踊れない妹から目を離すことを天秤にかけて悩んでいた。
今度は背後から、きゃあきゃあとはしゃぐ声が飛んでくる。数人の令嬢たちが遠くで手を振っている。もちろん彼女たちの笑顔はリリーに向けられたものではない。
へらへらと手を振り返す兄をリリーは冷めた目で見やった。それから組んでいる方の、手の甲を思いきりつねってやった。
痛みによって兄は自分が果たすべき使命を思い出したようだ。唇の端をひきつらせながらリリーを見下ろしてくる。
「リリー。少しくらいは愛想よくしないと」
「そうやって誰にでも愛想を振りまいていると愛想の価値が下がって、ここぞってときに後悔することになるわよ」
「そうかなぁ」
「どうしてそんなに簡単に言いくるめられちゃうの? もっと信念を持ってよ兄さん!」
「どうしろっていうんだ……」
口論している間に第三波がやってきた。
真っ先に目に入ったのは、燃えるような真っ赤なドレス。彼女はそのドレスを、自分に一番似合うときちんと分かったうえで身につけているのだろう。
若い娘たちと違って真っ先に獲物に飛びついたりしない彼女は、まずリリーの正面で立ち止まり、膝を曲げてお辞儀した。
「リリー様。今日は一段と美しいのね」
「ローズ様。素敵なドレスですね……」
お手本のような笑顔の裏で、彼女は一体何を考えているのやら。ローズは品定めするようにリリーを頭の先からつま先までじっくりと眺めたあと、ようやく兄の方に視線を向け片手を差し出した。
「ジェイミー様」
「ローズ嬢。やはりあなたには、赤が似合いますね」
手袋ごしに口づけを落として定型通りの誉め言葉を告げた兄に、ローズはわずかに不満げな顔を向けた。
「ドレスの色が似合っていても、ダンスを誘うほどではないのかしら」
「いえ、あの、今日は妹を一人に出来なくて」
兄の取って付けたような愛想笑いは、明らかにローズの気分を害してしまったようだ。リリーは身内の情けで、兄を助けてやることにした。
「私が一緒にいて欲しいとお願いしたんです。こんなに大きな夜会は初めてで、とても緊張してるから……」
「あら、リリー様が極度のお兄ちゃん子だという噂は本当でしたのね。かわいらしいこと」
ローズが嘲笑するように、真っ赤な紅をひいた唇で綺麗な弧を描いた。
お兄ちゃん子!
なんたる侮辱!
リリーは不覚にも、ローズの挑発にまんまと乗せられてしまった。
「……お兄様。ローズ様はこんなに着飾っておいでなのにお一人で、とても可哀想よ。一曲踊って差し上げたら?」
兄は恐らく、今リリーとローズの間で何が起こっているか理解できていないのだろう。戸惑った様子で、妹とローズの顔を交互に見ている。
「え、でも……、え?」
「お兄様。ローズ様と踊って差し上げたら?」
「でも、それは……」
「お兄様。ローズ様と踊って差し上げたら?」
「どうしたんだ急に」
「お兄様。ローズ様と――」
「わかった! わかったから!」
「まぁ嬉しい! では、エスコートして下さいな」
風の早さで兄の腕を掴んだローズは、そのままリリーを置いて歩き始める。いろいろと流れについていけていない兄はまるで、散歩に連れていかれる犬のよう。
あの押しの強さ。きっと兄はイチコロだろう。
もしあの好戦的な女が義姉になったらと思うとゾッとする。しかし流されやすい兄のこと。どうやったってああいう自信家な女としか結婚できないに違いない。夜会に芝居に買い物にとあちこち付き合わされて、げっそりする兄の姿が目に浮かぶようだ。
とりあえず今は兄よりも、自分の心配をしなければならない。
こんなところに一人で突っ立っていたらきっと、初めての夜会でどうしたらいいのか分からない子供のように見えてしまう。そして心優しい紳士が可哀想に思って声をかけてくれて、リリーは彼の優しさを足を踏みつけるという仇で返すことになってしまうのだ。
リリーはざっと周囲を見渡して、歩き出した。
派閥だ。派閥を作ろう。
年頃の娘が十数人集まればそれだけでもうちょっとした反社会勢力である。おいそれとは近づけまい。
リリーはダンスホールに目を凝らした。
目を凝らしすぎて、若干めまいがしてきた。こんなにたくさんの人間がぐるぐる回っている場所なんて、初めてだし、そもそもこんなにたくさんの人間の中をさまよい歩くのも初めてである。
目が回る上に本当に足が痛くなってきて、うんざりしていたとき。
「ウィレット家の、リリー嬢ですか?」
突然声をかけられた。
振り返ると、男が一人立っていた。
「驚いたな。すっかり大人っぽくなってしまって……」
爽やかに笑っている男を見上げたまま、リリーはちょっと胡散臭げに眉をひそめた。この男は知っている。リリーの家、ウィレット家と敵対する、ブルック家の派閥に属する者だ。
子爵位を持つこの男は最近、隠れて違法薬物を栽培していたことが明るみに出て社交界で孤立してしまっていた。本人は領民が勝手にやったことと主張し金の力で事実を揉み消そうとしているが、その行為によってさらなる顰蹙を買っている。
ちなみにこの男の悪事を暴いたのはリリーの父である。決して正義感ゆえの行動ではない。恐らくこの男が、父の気にさわるようなことを何かしてしまったのだろう。
「ジェイミー君は? 一緒じゃないの?」
「はい。兄ももう大人なので、自立させないといけませんから」
「はは。彼ならたとえ地位や金を失ったって、どこかの女に世話してもらえるだろうさ」
笑みを浮かべてはいるが、目が笑っていない。リリーは勘が働いた。今すぐこの子爵の側から離れるべきだと、そう思った。
「私、友人を探しているんです。だからこれで失礼します」
膝を曲げて礼をした瞬間、腕を強く掴まれた。
「せっかくだから、一曲踊ろう」
「いえ、足が痛いので、これで失礼します」
「リリー嬢。社交界のルールでは、目上の人間の申し出を断ってはならないんだ。君は爵位を持っていないだろう。自分の立場をきちんと認識してこそ、立派な淑女と言えるんじゃないかい?」
何か気の利いた皮肉でも返してやりたかったが、恐怖で唇が強ばった。リリーが無抵抗になったことに気をよくしたらしい子爵は、歪んだ笑みを浮かべながらリリーの腕を強引に引っ張って歩き出そうとした。
そのとき。
「おおっと、失礼!」
酔っぱらっているらしい夜会の参加者が突然、ふらりと横から現れて子爵に勢いよくぶつかった。子爵と酔っぱらいは板が倒れるみたいにバタバタと地面に倒れ、リリーはあっさりと自由の身となった。
酔っぱらいは子爵を下敷きにしたまま、陽気な笑い声を上げる。
「あっははは! だから言っただろう、俺は酒に弱いんだって!」
「まぁ、酔ったフリをしているだけではなくて?」
「ニック様は言葉が巧みですもの。油断できませんわ」
「あなた方のように美しい女性を前にしたら、どんな男でも前後不覚になってしまうよ。たとえ俺が口先だけの男だったとしても、その事実だけは変えようがないだろう?」
酔っぱらいのかたわらに立っている二人の令嬢は、まぁ、と口元を押さえて頬を染めた。