俺のつま先を殺す気か
「ダンスの練習? もちろんいいよ、喜んで」
ダンスの練習に付き合ってほしいというリリーの頼みを快く引き受けてくれたのは、口の悪い赤毛こと、ニックである。
六年前、軍学校に編入制度が導入された。もともと王立軍学校には貴族や資産家の子息しか入学できないという暗黙の了解のようなものがあったが、優秀な人材は生まれた家に関係なく全国各地から受け入れるべきという国王の考えに貴族院の大多数が賛同し、入学試験で優秀な成績を収めた者は特例として入学・編入できるという制度が新しく設けられることになったのだ。
ニックは要領のいい男で、金持ちばかりの学校に馴染めず編入生たちが次々と脱落していくなか、それなりの成績で学校を卒業し、難関といわれる騎士隊への入隊を果たした。
かつては口が悪かった彼も軍学校の教師たちの教育的指導により、立派な紳士へと成長を遂げた。それどころか、何をどこで間違えたのか立派な紳士になるだけでは飽きたらず、ろくでもない遊び人と評される男に変貌してしまった。
ときどき、お茶会などで噂を聞くことがある。騎士隊のニック・ボールズには要注意。甘い口説き文句にのぼせ上がっていると、後で痛い目を見ることになるから、というような。
しかしニックは女癖の悪さを除けばなかなか良い人ではある。勘が鋭いので、無意識に人を煩わせることはめったにない。そう、彼が周囲に迷惑を振り撒くとき。それは彼が意図的に迷惑を振り撒こうとしているときと考えてほぼ間違いない。
「ニック……。仕事をサボってお前は何をやってるんだ」
執務室に現れた騎士隊の隊長は、執務室の中心でダンスの練習をしているリリーとニックを見て眉間に深いシワを刻んだ。
「見逃して下さい隊長。他でもないリリーちゃんの頼みなんですから」
「なぜわざわざ今このときにダンスの練習をするんだ。勤務時間外に練習するという発想は無かったのか」
「冷たい人ですね。仕事とリリーちゃんとどっちが大事なんですか?」
仕事だ、と隊長は即答して、不機嫌な顔のまま部屋の中に足を踏み入れた。執務机の前に腰を下ろし、再び口を開く。
「百歩譲ってダンスの練習は見逃すとして、なぜわざわざ執務室で練習するんだ。そんないかにも人の邪魔になりそうなところで」
「仕方ないでしょう。リリーちゃんのためです」
言いながらニックはステップを踏み、書類を作成している同僚が座っている椅子にぶつかった。
「おい、ニック!」
「すみません、リリーちゃんのためなんです」
「そこ邪魔だよニック!」
「許せ、リリーちゃんのためだ」
周囲に迷惑をかけるニックは生き生きとしている。リリーはステップを踏むのに必死で周囲に全く注意をはらえなかったが、騎士隊の隊員たちには大層疎まれていたことだろう。
ニックは最初こそ楽しみながら練習に付き合ってくれていたが、しばらくして突然足を止めた。どうしたの、とリリーが尋ねると、ニックは真剣な顔でこう言った。俺のつま先を殺す気か、と。
「大げさよ。ちょっと踏んだくらいで」
「いや、最初は偶然かと思ったんだけどさ、もう狙ってるとしか思えないんだ。なに、復讐? 昔お気に入りの人形を隠してからかった復讐なの?」
「兄さんは何回足を踏んでも怒ったりしなかったわ」
「当たり前だよ。あいつは滅多に怒らない作りになってるんだから」
そう言うとニックはリリーの手を離してしまった。練習に付き合う気が失せてしまったらしい。
「見捨てるの?」
「今まで内緒にしてたんだけどさ、俺今仕事中なんだよね。サボってると皆に迷惑かかるし」
「なによ、薄情者。クビになっちゃえ」
「いや、本当に。明日から隣町に配属されるんだ。転属のための提出書類が山のようにあってさぁ……」
肩をぺちんと叩いてやると、ニックは「悪いね」と全然悪いと思っていない態度で謝ったあと、転属のための書類とやらを作成する作業に取りかかってしまった。
ぽつんと執務室に立ち尽くしているリリーの元へ、騎士隊の副隊長が歩み寄ってきた。
「少し休憩しては? おいしいお菓子がありますから」
口調は丁寧だが、言葉の内容は完全に小さな子供に向けたものである。リリーは少し恥ずかしくなってしまい、お菓子は結構です、と取り澄まして答えて、部屋のすみにあるソファーに腰かけた。
リリーがダンスの練習をしている間、ソファーに静かに座っていた侍女が、声をかけてきた。
「お嬢様、そろそろお屋敷に戻りませんと」
「でも、まだ踊れるようになってない」
ひと振りするだけでダンスが踊れるようになる杖など存在しないのだから、出来るようになるまで練習するしかない。
高いヒールのせいで痛む足を睨み付けたあと、リリーはしょんぼりと肩を落とした。
突然、侍女が慌てた風に立ち上がった。どうしたのだろうと顔を上げると、リリーのすぐ側に誰かが立っている。
「練習熱心なんだね」
そう言って笑いかけてきたのは、兄とニックと共に、騎士隊に入隊したウィルだった。
リリーは侍女に続いて、慌てて立ち上がった。こういうときはどういう風に振る舞えばいいのか、家庭教師から教わったことを急いで思い出す。
「王弟殿下、ご、ごきげんよう」
膝を小さく曲げてお辞儀すると、ごきげんよう、と柔らかい声が返ってきた。
いつからこの部屋にいたのだろう。ウィルは少々、いや、大分、景色に馴染みやすい性質を持っている。ニック流に言うと、影が薄い。だからいつからここにいたのか、リリーには全く思い出せなかった。
まさかあの下手なダンスを見られていたのだろうか。そんなの、恥ずかしすぎる。
青くなるリリーにウィルが言った。
「もしよかったら、一緒に練習する?」
子供の頃から変わらない、ほがらかな笑顔を見上げながら、リリーは押し黙った。
兄やニックはまぁいいとして、ウィルの足を踏んでしまったら大惨事だ。そんなの、リリーの淑女としてのプライドが許さない。
しかし王族の提案は選択肢があるものではなく、命令だと思えと家庭教師が言っていた。
「殿下が、そう望まれるのであれば……」
まだ流暢とはいえない丁寧な言葉を口にしたリリーに、ウィルは複雑そうな表情を向けた。
「あれ、もうウィルって呼んでくれないんだ」
「……呼んでいいの?」
「いいに決まってるだろ。仲間はずれにしないでよ」
「じゃあ、ウィルと練習する……」
しずしずと片手を差し出すと、ウィルは優しく手を取ってくれた。
「足踏んじゃうかも……」
というか絶対に踏むだろうが、一応忠告しておいた。ウィルは嫌な顔ひとつせずに微笑んだ。
「大丈夫だよ。たくさん練習したんだから、今度は絶対に上手くいくって」