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楽しそうだね

――リリーが今よりずっと幼かったころ、大好きな絵本があった。それはありふれた物語で、お姫さまが運命の相手である王子さまと、結婚するというもの。


 リリーは自分もいつか、王子さまと結婚するものだと当たり前のように思っていた。


 七歳の誕生日を迎えてすぐ、ウィルがこの国の王子さまなのだと知ったリリーは、ウィルこそが自分の運命の相手だと思い込んだ。あの頃はまだ、結婚というものがどういうものなのかよく分かっていなかったから「一緒に遊ぼう」と言うくらいのつもりで、ウィルに「大きくなったら結婚しよう」と顔を合わせる度に言いまくっていた。ウィルの困った顔は今でもよく覚えている。大きくなったらね、という彼の言葉を真に受けて、あと何日で大きくなれるかリリーは毎日指折り数えていた。


 実は今でもまだ、ウィルのことは好きだ。ウィルと一緒にいると、なぜか安心出来る。でもさすがにもう、本人に面と向かって気持ちを伝えるなんてことは出来なくなっていた。何年か前に子供特有の無邪気さを失ってしまったからだ。成長して自分を取り巻く環境が複雑になるにつれ、周囲にウィルのことが好きだと打ち明けることも難しくなった。


 幼い頃の行いを思い返すと、顔から火が出るほど恥ずかしい。だから今はとても昔のようにウィルと面と向かって話をする勇気が出ない。


「こら、リリー。失礼だろう。ちゃんと挨拶しなさい」


 乙女心が壊滅的に理解できない兄は、あろうことか耳まで真っ赤になっているリリーをウィルの眼前にさらそうとした。しかしリリーは兄の背中にぴったり張り付いていたので、二人はまるでしっぽで遊んでいる犬みたいに、渡り廊下でぐるぐると回転することになった。


 その様子を見たウィルは声を上げて笑っていた。リリーはこの笑い声が好きだ。


「楽しそうだね」


 じゃあね、とウィルは控えめにリリーに声をかけたあと、何事もなかったかのように去っていった。


 ウィルが去ったあと、リリーは兄の背中を出来る限りの力で殴り付けた。しかし生意気にも軍人である兄はよろめきすらしなかった。


「どうしてくれるのよ兄さん! ウィルに笑われちゃったじゃない!」

「なんだよ今さら。昔は鼻水たらしたところだって見られて……痛い!」


 いかに軍人といえども、つま先を鍛えることは難しかったらしい。リリーに足を踏まれた兄はしばらくその場で身もだえていた。


◇◇◇


 リリーは十三歳になった。三年後には社交界デビューが待っている。社交界で立派に振る舞える淑女になるため、リリーは幼い頃から専属の家庭教師による教育を受けている。


 挨拶から歩き方から徹底的に叩き込まれるのだが、このマナー教育によって、リリーは己の欠点というものを嫌というほど自覚するはめになった。


 運動神経とリズム感というものが、本当に冗談みたいに、リリーには備わっていなかったのだ。






 美しい音楽によって紳士たちの耳を楽しませることは淑女のたしなみ。貴族の令嬢たちは大抵、幼い頃からピアノの稽古に取り組むものである。ということで、リリーも三歳のころから専属の教師を雇ってピアノの練習に励んでいた。


 小さいころはまだ、子供だから仕方がないだろうと言える程度の下手さであった。しかし十歳くらいになると、周囲との差が否応なく浮き彫りになる。いかに練習嫌いの令嬢であっても、何年も教わっていれば嫌でも一曲くらいは弾けるようになる年ごろに、リリーはまともにひとつの曲を弾くことすら出来なかったのだ。


 どんなに練習しても上手くならないので、リリーは兄に泣きついた。兄は軍学校の音楽室にあるピアノを使って、暇さえあれば練習に付き合ってくれた。兄の献身により、リリーはぐんぐんとピアノが下手になった。そして何故か、兄は難解な課題曲を一曲弾けるようになってしまったのだ。


 父はとうとう、娘をピアノの名手に仕立てあげることを諦めてしまった。ピアノが出来なくても他で補えばいいとあの頃は皆、気楽に考えていた。例えば歌であれば、楽器と違って素質があれば一、二年で習得することが出来る。普通に考えればピアノが弾けないリリーに歌の才能があるわけが無いのだが、大人たちは現実から目を背けていた。


 リリーはピアノを捨て歌の練習に励むことになったわけだが、これにはリリーよりも周囲の人間が苦しんだ。


 十一歳の頃、兄に歌を聞いてもらおうとリリーは軍学校に赴いた。兄の友人たちは皆リリーに対して優しくて、リリーの周りを取り囲んで小さな女の子の独唱会を盛り上げてくれようとした。


 一曲歌い終わったとき、兄を含む男の子たちは皆頭を押さえていた。どうしたの、と聞くと、よくわからないけど何故か頭痛がしてきたという。耳鳴りがするという者もいた。


 ある日、リリーの家庭教師は父にこう告げた。


「リリーお嬢様は、歌うことをお辞めになったほうが良いかと存じます。それだけで間違いなく、未来の紳士たちを救うことになりますわ」


 ピアノと歌が習得出来なくても、まぁ、何とかなる。昔、練習のし過ぎで指を痛めて……とか目に涙を浮かべながら呟けば社交の場はなんとか切り抜けられる。


 しかし、ダンス。これは絶対にはずせない。貴族ならば、絶対に避けて通れない道なのだ。しかし前述した通り、リリーにはもう本当に冗談みたいに運動神経とリズム感が備わっていない。


 あと三年で社交界デビュー。さすがにリリーは焦った。同じ年ごろの友人たちはもういろんな種類のダンスを習得しているのに、リリーは一曲もまともに踊ることが出来ない。


 軍の支部にあちこち飛ばされている兄が、王宮舞踏会に参加するため、数週間王都に滞在することになった。焦っていたリリーは兄に泣きついて、休暇が終わるまで毎日、ダンスの練習に付き合ってもらった。つま先を踏むなんて序の口で、何故か脛を蹴ったり肩に頭突きしたりしてしまって、兄は休暇を機にボロボロになって、配属先に戻っていった。


 手頃な練習相手がいなくなってしまったリリーは絶望した。ただでさえ、我が家は母が病気がちで、上流階級の集まりに全く参加できていないというのに。これでリリーまでうまく社交界に溶け込めなかったら、父はこれまで以上に兄に無理難題を押し付けるようになってしまう。


 追い詰められたリリーは、侍女を伴い、軍の本部にある騎士隊の執務室を訪れた。

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