露でおめかしした葉っぱの匂い
リリーは広い広い建物の中を走り回って、中庭に並んでいる植木鉢の影に隠れた。かくれんぼは得意中の得意だ。兄は見つけるのも隠れるのも下手だから、いつもリリーが手加減してあげている。
でも今日は絶対に自分から見つかってやらない。
「おーい、リリー!」
遠くから兄の声が聞こえてきた。さっき、お菓子を食べるかどうか聞かれたことを思い出して、リリーの固い決意は早くも揺らいでいた。甘いものは好きだ。だから、仕方ないから許してあげようかな。
「おーい、クソガキー!」
リリーの決意は再び元通りカチコチに固まった。あの赤毛はどうしてあんなに口が悪いのだろう。家庭教師の先生に叱られたりしないのだろうか。
リリーが身を隠している植木鉢の影は、柔らかい陽が差してとても暖かかった。ついうとうとしてしまい、体がぐらりと揺れて、慌てて体勢を立て直す。目をこすって、なんとか眠気をどこかへ追いやろうとした。
地面に、リリーのではない影が出来た。
「見つけた」
上から声が降ってきた。空を見上げると、ウィルの笑顔がある。
リリーは思いきり目を真ん丸にして、植木鉢を跨いで自分の隣によいしょと腰を下ろしたウィルを見つめた。
どうしてここにいると分かったのだろう。上手に隠れたつもりだったのに。
ウィルは降り注ぐ陽の光に目を細めている。
「眩しいね。早く中に戻ろうよ」
「だめ。兄さんが見つけてくれるまではここにいるの」
そっかぁ、と呟いて、ウィルはリリーと同じように膝を抱えた。
ウィルは森の匂いがするな、とリリーは思った。雨上がりの、露でおめかしした葉っぱの匂い。ウィルの隣にいると、リリーは母と手を繋いでいるときみたいにとても安心出来た。
「ねぇ、リリー。覚えてる?」
「なにを?」
「リリーさ、今よりももっと小さかったころに、大きくなったらジェイミーと結婚するって言ってたんだよ」
「おええ」
リリーがわざとらしく顔をしかめてみせると、ウィルは声を上げて笑った。
「リリーのお父さんはそれ聞いて、ショック受けてた」
「だからお父さまは兄さんのことが嫌いなの?」
「んー、どうだろうねぇ」
ウィルは曖昧に返事をしたあと、地面に落ちていた木の枝を拾って、木の葉をつつきはじめた。リリーはウィルが退屈しているのかもしれないと思い、何かとっておきの話をしようと思い立った。
「ウィルにだけ、特別に教えてあげる」
「本当? 何を教えてくれるの?」
「リリーはね、大きくなったら王子さまと結婚するの」
ウィルは木の葉をつついていた手を止めて、少し変な顔をした。
「え、どうして?」
「だって、王子さまはリリーの運命の人なんだもん。運命の二人は結婚して、永遠に幸せに暮らすの」
「へぇ、すごいねぇ……」
ウィルの笑顔がひきつっている。リリーはかまわず、会話を続けた。
「すごい?」
「うん」
「どれくらいすごい?」
「それは……まぁ、どの王子様を選ぶかによる、かなぁ」
なぜかウィルが突然、挙動不審になってしまった。その態度を不思議に思いながらも、リリーはウィルの言葉に驚きを隠せなかった。
「王子さまって、一人じゃないの?」
「そりゃあまぁ、いろんな所にいるんだろうけど」
「リリーの近くにもいるかな?」
「そうだねぇ……」
リリーの瞳はキラキラと輝いた。
「どこにいるか知ってる?」
リリーの問いにウィルは苦笑を返す。この顔は知っているという意味に違いない。リリーは思わず立ち上がって、ウィルの腕を掴んだ。
「どこにいるの? 教えて!」
「それは……うーん……」
ウィルは鼻の頭をかいたあと、ぴょんぴょん跳びはねながら催促するリリーに決まり悪そうな顔を向けた。
「……僕だったりして」
リリーはぴたりと動きを止めた。ひゅう、と生ぬるい風が通りすぎる。遠くの方で、「あー、クソガキ発見!」と叫ぶ声が響いた。
◇◇◇
リリーは十二歳になった。
もうお人形を使った幼稚な遊戯で時間を無駄にしたりなどしない。もちろん、ウィルから貰った人形は今でもきちんと部屋の一番目立つところに飾ってあるが。
リリーは七歳の誕生日を迎えてから現在まで、王都に滞在する期間は何度も、兄が通っている軍学校を訪れていた。上流階級の子息たちが多く在籍する軍学校に一人娘であるリリーが顔を出すことは、権力に固執する父にとっては有益なことなのだ。
しかしリリーは軍学校に通うよりどりみどりの子息たちに興味など無かった。結婚というものは家同士のためのもので、リリーの意思など関係ないとすでに知っている。いくら自分が努力したところで結局は父が相手を決めてしまうのだから、わざわざ媚を売る気も失せるというものだ。
最近、兄が軍学校を卒業し、騎士隊に配属された。それと共にリリーも、訪れる場所が軍学校から騎士隊の執務室に変わった。
かといってリリーの交遊関係にほとんど影響はなかった。強いて言うならよりどりみどりの婚約者候補たちの年齢層が、ぐっと広がったことくらいか。
「兄さんの嘘つき」
「だからごめんって……」
軍の本部の渡り廊下を歩きながら、リリーは隣を歩く兄を不機嫌に睨み付けた。兄は真新しい軍服を着て、たくさんの書類を両手に抱えている。
「どうして国境なんかに行っちゃうのよ」
「仕方ないだろ。ジョージにどうしてもって頼まれたんだから」
騎士隊に入隊した者は、三年間の見習い期間を修了するまでは、正式に騎士と名乗ることは許されない。国の各地に配置されている軍の支部をあちこち飛びまわって、経験を積まなければならないのだ。
兄はこれから三ヶ月間、北部にある小さな町に配属される予定だった。ところが王都を出発する一週間前に、軍学校の同期であり騎士隊の同僚でもあるジョージに、配属先を交換して欲しいと頼まれて、あろうことか兄はその頼みを二つ返事で受け入れてしまったのだ。兄の新たな配属先は、数ある軍の支部の中で一番不人気な、敵国との国境である。
本来ならばリリーは来月、兄と共に人生初のオーロラを見に行く予定だった。リリーたちが住む国は非常に気温が低い国だが、オーロラを見るためにはさらに気温の低い北部に移動しなければならない。北部への移動には多少の危険を伴うため、オーロラを見に行きたいというリリーの願いを父はなかなか聞き入れてくれなかった。ところが兄が北部の町に配属されることが決まったため、ついでにリリーも軍の護衛付きで連れていってもらえることになったのだ。
連れていってもらえることになったというのに、突然の配属先変更である。敵国との国境は南部にあるため、オーロラ見物旅行の計画はついえてしまった。
「どうしてもっと上手く立ち回れないの? 北部の支部は人気があるって評判なのに、簡単に人に譲っちゃって、馬鹿みたい」
「だってさぁ、どこに行ったってやることは同じなんだし」
呑気に笑っている兄を見て、リリーは大きなため息をついた。
それから進行方向に顔を向けて、ぎしりと足を止めた。廊下の向こうに、ウィルがいる。こちらに向かって歩を進めている。リリーは慌てて、兄の背中に隠れた。