リリー・ウィレット、十六歳
誘拐されたことをお父様には言わないで、というリリーのお願いをウィルは本当に叶えてくれた。実際に奮闘したのは騎士隊の隊長と副隊長だが、リリーはウィルが自分のために頑張ってくれたということにしておいた。
ウィルを殺そうとした麻薬組織の連中は、軍が一人残らず拘束した。犯罪組織の拘束に貢献したとして、組織に潜入していた諜報員が表彰された。
そして、自身の領地で違法薬物を栽培していたことをリリーの父に摘発された子爵が、この組織に薬を流して金を得ていたという事実が、組織を拘束する過程で偶然明らかになった。
子爵は今、裁判にかけられている。この出来事は思わぬ副産物だったと、ウィルはリリーに説明してくれた。リリーは子爵のことに関して、よく分かっていないフリをした。
リリーが麻薬組織に誘拐された事実を、父と母はまだ知らないし、この先も知ることはないだろう。特に兄は全く少しも微塵もかけらもリリーが危険な目に遭ったことに気づいていない。
ちなみにリリーたちの誘拐の一端を担った御者は、軍がこっそり捕まえて、現在は王都から離れた軍の支部に捕らえられている。父は御者が突然失踪したことを軍に届け出たが、あの御者がリリーたちの前に姿を現すことはきっと、二度とないだろう。
リリーの侍女は、田舎に帰ってしまった。貴族に仕えている限りこの先も誘拐事件などに巻き込まれる可能性はある。もう少し平和な生き方をしたいのだと、彼女はそう言っていた。
新しい侍女はとても無愛想だ。少し残念だったが、冷たい態度にもそのうち慣れるだろう。
ある日ニックが、俺には隠れファンがいるのだとリリーに自慢してきた。上等な手袋とマフラーが突然、兵舎に贈られてきたのだという。リリーは、お詫びの手紙もちゃんと添えるようにとケニーに言っておいたらよかった、と内心ちょっと反省した。でもニックがずいぶんとご機嫌なので、お詫びの言葉がないことは些細な問題かな、と思い直した。
リリーはあの日から何度も、ウィルと顔を合わせるたびに約束をちゃんと覚えているかと確認した。ウィルは毎回「覚えてるよ」と軽い調子で返してきた。
あんなに望んでいたことなのに、ウィルが突然腹をくくってしまったことにリリーはとても戸惑っていた。
あまりにしつこいから、ウィルは仕方なく折れてくれたのだろうか。リリーのことは愛していないけど、情はあるから別にいいかな、と思ったのだろうか。
それよりも自分は王家に嫁いでやっていけるのだろうか。ダンスも踊れないのに。婚約して、結婚して、別の家の人間になっても大丈夫なのだろうか。
リリーは突然現実的なことが心配になった。ニックに悩みを打ち明けたら、そういうことは家族に相談しろと言われた。兄に相談してみれば、そういうことは本人に相談しろと言われた。
ウィルには相談できなかった。迷っていることがバレたら、ウィルは「やっぱりやめよう」と言い出すかもしれない。
リリーの十五歳は、とても長かった。ほぼ毎日、ずっと同じことで悩んでいた。不安と期待が同じくらいであればどちらを優先すべきなのか、誰も教えてくれない。リリーだって誰かに尋ねられても、答えられない。
どうにか今の状態のままウィルを自分だけのものにできないかと知恵を絞ってみたが、そんな方法は見つからなかった。
あと三年ほど待って欲しいとウィルに頼んでみようかと思ったが、八年間変わらなかった恋心がたった三年で変わるとは思えないし、その三年で外国の偉いお年寄りの元に無理やり嫁がされてしまうかもしれない。ウィルがリリー以外の誰かと恋に落ちてしまうかもしれない。
世の中の結婚している人たちは皆、こんな不安を乗り越えたのだろうか。自分にはとても乗り越えられそうにない。そんなことを考えながら、リリーは一日に一回は大きなため息をついていた。
◇◇◇
リリーは十六歳になった。
社交界へ出入りする資格を得る、記念すべき年だ。
しかしそんな記念すべき年の誕生日に、兄もニックもウィルも、リリーに会いにこなかった。
別に三人のリリーへの愛情が薄いからではない。リリーの誕生日は、夏の終わりである。そして夏の終わりはあらゆる物事の節目である。
入学式、卒業式の時期であり、そして卒業生たちが世に解き放たれる時期である。国が各種機関の予算を発表したり、貴族が王家に献上する献金の額を発表したりする時期でもある。この時期、あらゆる場所であらゆる立場の者たちの、立ち位置や力関係が変化する。
当然、国軍も忙しい時期だ。まだ下っ端である兄たちは今、思う存分こき使われているというわけだ。
リリーは今日ほど、世間が忙しい夏の終わりに生まれて良かったと思ったことはなかった。
なぜなら、ウィルと婚約するかどうか、まだ答えを見つけられていないからだ。
多分本人を前にしたら意地になって、気持ちは全く変わっていないと言ってしまうだろう。でも実際は、リリーの気持ちは水面に浮かぶ葉っぱのように心もとなく、何かの拍子にあっさり沈んでいってしまいそうだった。
早く大人になりたいと思っていたのに、今となってはどちらか一方を選ばなくても許された時代に戻りたいと思ってしまう。
婚約や結婚という制約なく、ウィルが好きだというリリーの気持ちだけを、彼が受け入れてくれればいいのに。
子供と大人の間にいるうちは、婚約者と友だちの間でいられたらいいのに。
でもウィルのような立場の人にとって、そんな中途半端な状態は悪い噂や厄介な揉め事を生む火種になってしまうだけだということも、分かっている。
誰かに相談したかったが、侍女とはまだ打ち解けていないし、兄は実家嫌いなので屋敷には滅多に帰ってこない。
かといって軍の本部まで会いに行けば、ウィルと鉢合わせしてしまうかもしれない。迷っていることを知られたら、もう取り返しがつかないような気がする。
リリーは十六歳の誕生日を迎えてからというもの、ウィルのことをずっと避けていた。避けるといってもこちらから会いに行かなければいいだけなのだが。
リリー・ウィレット、十六歳。
悩み多き大人の世界に、とうとう足を踏み入れてしまった。




