やめろよ皆、俺のために争うのは!
波乱に満ちた闘技会は貴人たちが予測した通り、軍学校を首席で卒業したマーク・ノーリッシュが制した。次いで、もう一人の優勝候補であったスティーブ・マリンズが準優勝という形で、幕を下ろした。
闘技会に関することでひとつ、リリーにとって嬉しい出来事があった。
闘技会で、リリーの兄とウィルが落馬するという事故が起こった。上流階級しか参加していないはずの試合で事故が起こったので、ニックが試合に参戦することに反対していた者たちは、少々格好がつかない立場に置かれてしまった。
そこで、普段は議会のすみに追いやられている庶民院がやる気を出した。来年から、闘技会の参加者は階級で選別しないことを貴族院に認めさせたのである。
見習いの肩書きが取れて早々、馬から落ちるという騎士にあるまじき失態を演じた兄とウィルはとりあえず、未来の騎士たちの役には立ったのだった。
リリーはウィルの胃袋を掴むついでに、手のかかる手下二人にも、お祝いとしてリリーの手作りクッキーというありがたいお土産を持っていってやることにした。
リリーは気合いも十分に、器に大量の小麦粉を投入した。
「お嬢様、お願いします。どうかもう諦めてください」
「まだだめ。こんな黒こげな物体をウィルに食べさせるわけにいかないわ」
リリーは肉を焼くのに最適そうな炭の塊を睨み付けながら、首を横に振った。伯爵家の料理人は絶望しきった顔でリリーの説得を続ける。
「では、私が初心者が作ったようなクッキーを焼きますから」
「だめよ。ウィルを騙すようなことはできない」
リリーが作った菓子を食べさせるよりも騙す方がはるかにましなのでは、という言葉を料理人はやっとの思いで飲み込んだ。
料理人に涙目で懇願されてリリーはようやくクッキー作りを諦めた。クッキーがダメならケーキはどうだろう、という提案に料理人はとうとう泣き出してしまった。
「失敗は成功への近道ってよく言うでしょ。それなのにたった二十回失敗したくらいで、泣くことはないと思わない?」
「二十回も貴重な小麦を燃やし尽くしたんならそれは失敗じゃないよ。破壊活動だよ」
剣の刃を研いでいる兄が、片手間に指摘してくる。リリーは執務室の床にずらりと並んでいる剣と槍の数々を見て、首を傾げた。
「全部兄さんのものなの? よくこんなに集めたものね」
「違うよ。全部騎士隊の奴らの。基本からやり直せって隊長に言われたんだ」
「それで武器の手入れから勉強し直してるの? いつまた馬に乗れるようになるの?」
「隊長の機嫌が直ったとき」
兄は円錐形の砥石で丁寧に刃を研ぎながら、時おり肩に手を置いて首を回している。リリーはその様子を眺めながら、ソファーの背もたれに腕を乗せて口を尖らせた。
「最近、お父様が肖像画を何十枚も押し付けてくるの。私、社交界デビューする前に結婚させられちゃうかも」
「嫌なら断ればいいよ。さすがに無理強いはしないんじゃないの」
「分かってないわね。断れない状況を作り上げて強引に事を進めるのがお父様でしょ。そろそろ本気でウィルを攻め落とさなきゃ。兄さんも一緒に作戦考えてよ。どうすればウィルは私と結婚してくれると思う?」
兄は面倒くさそうな顔をしたが、それでも一応、考え込む素振りを見せた。
「……泣き落としとか? 得意だろ、嘘泣き」
「泣き落とし? なにそれ、だっさい。うざ、キモい。やめてよ」
「ニック! リリーがこんなに口汚くなったのは絶対にお前のせいだからな!」
三人がけのソファーを占領してうたた寝していたニックは、顔に被せていた本を持ち上げて寝ぼけ眼で体を起こした。
「え、何? 俺のせいで女たちが口汚く罵り合ってる? やめろよ皆、俺のために争うのは!」
「器用な耳だな! 目を覚ませ。暇ならリリーの相手をしてくれよ」
まるで厄介者のように扱われて少々腹が立ったリリーだったが、兄がどことなく疲れているように見えたので、仕方なく見逃してやることにした。大きなあくびをしながら頭をかいているニックの隣に、リリーは移動した。
「ニック。どうすればウィルと結婚出来ると思う?」
「色仕掛けでもすれば」
「いろじかけってどうやるの?」
「子供向けに説明しようか? それとも大人向けに説明しようか?」
「もちろん、大人向け――」
「リリー! こっちに戻ってきなさい!」
リリーは仕方なく、兄に言われたとおり元の場所に腰を落ち着けた。
「兄さん。いろじかけってどうやるの?」
「やめとけ。そこから始めるとろくなことにならないぞ」
「もういい。二人にはもう頼らない。ウィルに直接聞きにいく」
「……え、色仕掛けの仕方を?」
「結婚の仕方を!」
リリーは勢いよく立ち上がり、勇み足で執務室を出た。勝手知ったる国軍本部である。適当に歩き回っていればいつかウィルとも巡り合えるだろう。
リリーは侍女を伴って、我が物顔で廊下を進んだ。軍人とすれ違う度にいちいち立ち止まってお辞儀しながら、ウィルと巡り合えるそのときを待つ。少しして、リリーは立ち止まった。
そういえば、今は貴族院の議会が開かれているのだった。議事堂と国軍本部は近いところにある。だからリリーは議会に参加する父にひっついてきて、今ここにいるのだ。
ウィルは爵位を持っていないが、議会には参加しなければならないのだと、以前本人から直接教えてもらったことがあったような気がする。
ということは、いくら軍の本部を歩き回っていてもウィルには巡り合えないのではないだろうか。
意気込んでいた気持ちがしゅるしゅると抜けていく。本部をうろつくことが急に面倒くさくなった。
このまま屋敷まで瞬間移動できないかなぁ、などとリリーがものぐさなことを考えていると、廊下の向こうからハデス伯爵家専属の御者が歩いてきた。
「お嬢様、旦那様から伝言です。旦那様は議会のあと貴族院の集まりに参加なさるそうなので、お嬢様は先に屋敷にお戻りになるようにと」
ちょうど帰ろうと思っていたところだったので、リリーは素直に分かったと頷いた。
本部の外に出て、門の前で馬車の準備が整うのを待つ。侍女と二人きり、無言で突っ立っていると、父くらいの年齢の男性に声をかけられた。
「リリー嬢、会うのは闘技会以来ですね。ジェイミー殿の怪我の具合はいかがかな?」
物腰柔らかく話しかけて来たのは、しもべその2、もといその1、もといケニーの、父親であった。
「ごきげんよう。兄はすっかり元気です」
「やっぱり軍で鍛えている人間は違うね。私など狩猟のために馬に乗っただけで腰をやられてしまったよ。参った参った」
明るく笑うケニー父の影から、仏頂面のケニーが現れる。
「父上、まだ帰らないんですか?」
「これから貴族院の集まりがある。お前も来なさい、勉強になるぞ」
「嫌ですよ。大人が昼間っから酒を飲みながら遊んでいるところなんて、見ていてもつまらない」
「まだまだ子供だねぇ、ケニーは」
頭をぐしゃぐしゃと撫でられながら、ケニーは心底うんざりした顔でため息をついている。リリーにはケニーの心境が手に取るように理解できた。
「リリー嬢は屋敷に帰るところなのかな?」
「はい」
「では、ケニーをついでにうちの屋敷まで送っていってくれないかな。これ以上機嫌を損ねると後が怖いのでね」
リリーは「わかりました」と頷いてケニー父と別れた。ケニーはリリーの家の馬車に乗ることを嫌がるかと思ったが、予想に反してどこかホッとした表情をしていた。
「大人って、子供心ってものをはき違えてるよな」
「全くね」
「俺も年取ったらあんな風になるのかなぁ」
「心がけ次第よ。この気持ちを忘れないようにしましょう」
リリーが迷えるケニーを諭してやっていると、準備を整えた馬車が目の前で停車した。
リリーとケニーが並んで座り、向かいにリリーの侍女が座る。
屋敷までは一時間ほどかかるので、リリーはケニーを話し相手にして時間を潰すことにした。
「――というわけ。それで、どうしたらウィルは私と結婚する気になってくれると思う?」
「……本当に殿下と結婚したいの? 陛下じゃなくて?」
ケニーは理解できないという顔をリリーに向けながら言った。リリーがもちろんと頷くと、ケニーは拳で手のひらをポンと叩いた。
「ああ、陛下と少しでもお近づきになりたいから、殿下と結婚したいの? 女って怖!」
「どうして私がウィルのことを好きだって話を信じないのよ」
「どうして完璧な陛下じゃなくてぱっとしない殿下を好きになるんだよ」
「どうしてウィルがぱっとしないって思うのよ」
「どうしてぱっとすると思うんだよ。あの人空気じゃん」
「しもべ! 世の中には言っていいことと悪いことがあるのよ!」
「うわ、やめろ! あんた本当に貴族令嬢か!?」
リリーとケニーが掴みあっている最中、侍女はずっと不安げな顔で窓の外を見つめていた。止めに入ってくれる者がいないため喧嘩の止め時が分からず、リリーは仕方なくケニーを許してやることにした。
「どうしたの?」
リリーが尋ねると、侍女はおもむろに口を開いた。
「馬車が屋敷への道から逸れています」
「え?」
リリーとケニーも急いで窓の外を見る。一応見はしたが、リリーは王都から屋敷までの道順をほとんど覚えていない。だから馬車がどの方向を目指して走っているのかよく分からなかった。人気のない道を走っていることだけは、確かだ。
「ケニー、あなたの屋敷はこっちの方角なの?」
「違う。ていうか、この道王都から外れてるじゃん。おい、道間違えてるぞ!」
ケニーが御者席がある方の窓を叩きながら叫ぶが、返事がない。
「居眠りでもしてんのか?」
「ええ? じゃあ、起こさなきゃだめよね?」
「いけませんお嬢様、危険です」
馬車のドアに手をかけるリリーを、侍女が止める。馬車は速度を落とさず走り続けている。
「こんなことなら父上の遊びに付き合っておくんだった……」
「ちょっと、この世の終わりみたいな顔しないでよ」
「だってこのままじゃどっかの崖から馬車ごと落っこちるかも」
「いやー! 止めてよそんなこと言うの!」
ケニーの言葉で馬車の揺れが急に恐ろしく思えてきた。三人で必死に窓を叩いて御者に呼び掛けるが、依然として返事はない。
馬車に閉じ込められた三人は、王都の喧騒とみるみる引き離されていった。




