世界一運のいい男
試合は滞りなく進んでいた。優勝候補二人は、それぞれが軽々と勝利して明日の第二戦に進むこととなった。
目玉の試合が終わってしまったため客たちは皆、どことなく退屈そうだ。リリーはというと、兄の出番が近づくにつれ、神経をガリガリと削られているような心地がしていた。
永遠とも思える時の後、ようやく兄とウィルの出番がやってきた。
対向した入場口から馬に乗って現れた兄とウィルは、二人とも片手に槍を持っている。馬に乗ったまま手持ちの武器だけで相手の動きを封じることが出来れば勝利、というルールだと、リリーはこれまでの試合を観戦しながらおおまかに理解していた。
二人は互いに槍の先を向け、円を描くように同じ方向にゆっくりと馬を進めている。
観客たちの関心はいっそ潔いほどに、二人には向けられていなかった。さっきの試合はすごかったとか、あの判定は不当だったとか、そんな話で盛り上がっている。
審判が旗を掲げ、人々の意識の外でひっそりと試合が始まった。試合が始まってもなお、観客たちはおしゃべりに夢中だ。
しかし数秒後、人々の視線が一斉に訓練場の中央に移動した。
何が起こったのか、リリーにはよく理解できなかった。馬の鳴き声と、女性たちの悲鳴が勢いよく耳に飛び込んでくる。
二頭の馬の周囲に砂ぼこりが激しく舞っている。主を乗せていない馬が場外へと、別々の方向へ走り去っていった。落馬したぞ、と誰かが叫んだ。
「これ、何かの演出なの?」
ケニーがこっそり尋ねてきたが、リリーは「分からない」と答えることすら出来ず、ただただ目を凝らした。
人影が二人分、だだっ広い訓練場の真ん中に倒れている。慌ただしく現れた軍人たちが、黒い幕のようなものを引いて訓練場の中央を四角に囲み、人々の視線を遮った。
血が見えたとか、殿下は大丈夫かとか、様々な声が客席に飛び交う。リリーは指先から少しずつ血の気が引いていくのを感じた。
しばらくして、喧騒をかき消すような、軽快な楽器の音が響き渡った。軍楽隊が綺麗に整列しながら場内に現れたのだ。
見事な演奏と隊列行進に、ただならぬ空気はじょじょに和らいでいく。
リリーは軍楽隊の影に隠れた黒い幕から、ずっと目を離さずにいた。黒い幕は数人の軍人たちの手によって、こっそりと場外に移動し、やがて見えなくなった。
呆然とするリリーの隣で、父が舌打ちする。
「人並みのことすらこなせんとは。母親似の、役立たずめが」
憎々しげに吐き捨てた父は不機嫌な空気をまとったまま、呆然としているリリーには目もくれずに席を去った。
「お嬢様、行きましょう」
リリーの隣に座っている侍女が、焦ったように声をかけてくる。
「でも、兄さんは? 無事なの?」
「分かりません。さぁ、立って。行きましょう。旦那様に叱られてしまいます」
「兄さんを置いていけない」
「お嬢様、お願いします。クビにされてしまう」
「行けない。二人が戻ってくるまで、ここにいる」
途方に暮れる侍女の顔を見ないようにしながら、リリーはいつまでも、黒い幕が吸い込まれた入場口を見つめていた。
◇◇◇
ウィリアム・ハートは世界一運のいい男だと、一番最初に口にしたのは誰だったか。
どうやら彼には飛び抜けた、圧倒的な、誰もが惚れ惚れするような資質が備わっていない。その事実を最初に見破ったのは、一体誰だったか。
なるほど確かに、ウィルは運がいいと表現するにふさわしい男だった。
優秀という言葉では表現し尽くせない人の、先ではなく、後に生まれたことは、間違いなく運のなせる技で、慈悲深い神の見事な采配だったと言える。
ウィルは兄と比べられることを苦痛だと思ったことは、自分で覚えている限りでは一度もなかった。なぜなら兄と比べられて見劣りしない人間など、ウィルが知る限り一人も存在しないからだ。
ウィルは自分でも自分のことを、運に恵まれていると思っている。
階級や金に恵まれる人間は世界中に山ほどいるだろうが、心から信頼できる友人が二人もいる人間は、そう多くはないだろう。階級や金に恵まれている人間なら、なおのこと。
ときおり、ニックとジェイミーがこの世に生まれてきてくれて本当によかったと、しみじみ思うことがある。
出し抜くとか、利用するとか、踏み台にするとか。あるいは羨むとか、全く関心を向けないとか。二人がウィルに対して、そういう扱いをしないようにしてくれることはとてもありがたかった。
ジェイミーはもしかしたら、そういう発想がないだけかもしれないが。でも多分、ゼロではないのだろう。
ニックは随分と賢くて、階級のせいで不当な扱いを受けたときなど、わざとウィルとジェイミーに対してあからさまな憎まれ口を叩いたりする。それは「気にするな」と言うよりもはるかに効果的な気遣いで、そんなことが出来る人間が、損をしている現状が時々すごく歯がゆい。
ウィルは、もっと強くなりたいと常々思っている。
身分を利用して横暴に振る舞えるだけの度胸があれば、どんなにいいか。
そうすれば二人の役に立つことも出来るだろう。しかし悪人のごとく振る舞って周囲の人間に嫌われることも、嫌だった。
最近ウィルは、自分のふがいなさを実感する出来事に二度も直面した。
ひとつは、ニックが闘技会に参加出来ないことを知ったとき。
何かきっと、ウィルには出来ることがあった。兄に泣きつくとか、誰かを脅すとか。しかしそんなことをしたらニックのプライドを傷つけてしまうのではないかなどと悩んでいるうちに、あっという間に闘技会の開催日が来てしまった。
もうひとつは、ジェイミーの父親であるハデス伯爵が、闘技会を観戦するのだと知ったとき。
ハデス伯爵のジェイミーへの仕打ちは酷いものだ。まるで意思のない道具のように扱うので、はたから見ているこちらまで気が滅入りそうになる。
ハデス伯爵が闘技会を観戦するという知らせを受け取ったとき、ジェイミーはみるからに動揺していた。
わざと負けようか、と、ジェイミーに提案するタイミングを、ウィルは試合が始まるまでになんとか見つけようとしていた。そんな提案をしたら失望されるのではないかと、やはりためらってしまった。もたもたしている間に、ウィルの性格をよく知る騎士隊の隊長に「手を抜いたら承知しない」と釘を刺されてしまった。
結局、何も打開策を見いだせないまま試合が始まった。
ジェイミーはとても緊張していた。そしてジェイミーの馬も、やけに落ち着きがなかった。主の緊張を感じ取ったのか、大勢の人々に囲まれるという常にない環境が、悪い方向に作用したのか。それにしたって、様子がおかしかった。もっと早く気づくべきだったと、ウィルは後になって随分と後悔した。
試合開始の合図の直後、ジェイミーは手綱の操作を誤ってしまった。
普段ならそんなことで馬がパニックになることはないのだが、今は普段通りとは言えない状況だ。
試合が始まる前から気が立っていた馬は、予期していなかった指示に混乱したのか大きく前足を振り上げた。
ジェイミーは頭から、地面に落ちそうになっていた。もしかしたらうまく着地できたのかもしれないが、出来なかったかもしれない。ウィルには未来を見通す力などないのだから、無事に着地できる方にかけるなどという心臓に悪いことは出来なかった。さらに言い訳をするなら、ジェイミーは槍を持ったままだったし、本人がそのことに意識を向けられる心境であるとも思えなかった。
ウィルはとっさに、持っていた槍を放り投げ、馬から落ちかけている体に手を伸ばした。
後ろ首を掴んで引き寄せ、手首を思いきり叩いた。その衝撃でジェイミーの手に握られていた槍は地面に落下した。
ジェイミーはそのときになってようやく、自分が何をすべきか理解したようだ。素早く鐙から足を外した。
さすがに落馬しかけている男一人を抱えあげられるほどの余裕はウィルには無かったが、そこまでする必要はなかった。
ジェイミーは頭から地面に落ちていったが、両手をついて、綺麗に受け身をとっていた。
ホッとしたのもつかの間、ウィルはそのときになって初めて、自分の体が馬上から放り出されていることに気づいた。




