おやめなさいリリーさん
ニックはその後何度か令嬢たちに甘い言葉を振る舞ったあと、子爵の不機嫌な咳払いによってようやく立ち上がった。
「失礼。お怪我は?」
ニックは令嬢たちに向けていた笑顔をものの見事に引っ込めて、子爵に全く心のこもっていない謝罪をした。子爵はかろうじて怒りを静めているといった様子だ。
「ニック・ボールズ……。ここは庶民がたむろするような安い酒場じゃないんだ。公爵夫人の夜会で、下品な振る舞いは控えてくれないかな」
「それは知らなかった。ありがたい忠告通り、せいぜいこの屋敷の庭でヤバい薬を栽培しないよう気を付けるよ。そんなことをしたら庭の土が汚染されて可哀想だしな」
場の空気が凍りついた。しかしニックは全く気にすることなく、リリーの方に顔を向けて大げさに両手を広げた。
「うわ、リリーちゃん!? 驚いたなぁ、まるで月から舞い降りてきた天使のようじゃないか! ダンスを申し込んでいいかな? いいと言ってくれ!」
役者みたいにわざとらしい台詞を放ったあと、ニックは問答無用でリリーの肩を抱いた。それから流れるような仕草で、リリーをテラスの方に誘導した。
子爵が豆粒ほど小さくなってしまってからようやく、リリーは冷ややかな声をニックに向けた。
「酔っぱらいさん。ずいぶんと足元がしっかりしてるじゃない」
「当たり前だろ、お子ちゃま向けの生ぬるいジュースしか飲んでないんだから」
「意外ね。お酒に自信ないの?」
「時と場合による。今日はウィルに恩を売らなきゃならないんで、酔っぱらってられないんだ」
二人で話している間も、ニックは周囲でお喋りしている女性たちに気を取られている。リリーは気もそぞろなニックの眼前に手のひらをかかげて、彼の視界を遮った。
「ウィルに恩を売る? どうやって?」
「あいつが『リリーのことが心配だ』ってぶつぶつうるさいもんだから、それなら俺が子守りをしてやろうかと、まぁそういうわけなのだよお嬢さん」
ウィルはリリーがダンスを習得出来ていないことを知っていた。そしてリリーの兄がどこかの押しの強い令嬢に狩られてしまうだろうということも予測していた。
ウィルは夜会に参加している者たちの中で一番身分が高い。だから最初から最後まで、階級の高い順にダンスの相手が暗黙の了解で決まっている。ダンスの合間には貴族たちが礼儀に則って挨拶に来るため、リリーにかまっていられないのだ。
というわけで、挨拶まわりも階級の縛りもないニックがリリーの子守りをすることになった。恩着せがましく『お前のために仕方なくやってやるんだ』と何度もウィルに釘を刺したあと、いつかこの恩を十倍にして返してもらうつもりで、この華やかな夜会の中にいて酒を飲むことも女をたぶらかすこともせずリリーの側についてやっているのだそうだ。
「私の元に到着するまでに大分間があったような気がするんだけど」
「危ないところはちゃんと助けてやっただろ」
ニックは近くを通りすぎる女性たちを目で追いながら、やる気のない声で言った。この調子ではそのうち「やっぱりやめた」と言い出してどこかの令嬢と共に軽やかなステップを踏みながら消えてしまうかもしれない。
リリーはやれやれといった気持ちで天井に吊るされたシャンデリアを仰いだ。しばらくして、背後からやけによく響く声が聞こえてきた。
「おい、何か臭くないか?」
「ああ、豚小屋の臭いがする」
「どうりで。ほら見ろ、貧乏人がタダ飯食いに来てるぜ」
こちらを見ているのは、さらに詳しく言えばニックを見ているのは、もっと詳しく言えばニックのことを指差しながらクスクス笑っているのは、上等な服をまとった二人の少年たちである。
たしか彼らはリリーと同い年だったはず。リリーはニックの様子をこっそり盗み見た。ニックは目を細めて少年たちを見ている。先程の陰口らしき言葉は彼の耳にもばっちり届いてしまったようだ。
「なぁ、リリーちゃん。もしかしてさっきのは俺に対する嫌味なのかな」
「私に聞かないでよ」
「どうしよう。ショックで胸が張り裂けそうだ」
「思ってもないことを言うのって、疲れない?」
「奴ら階級を嗅ぎ分けられるのかね。というか、豚小屋の臭いを知ってるのか?」
口調は静かだが、ニックは何故か首を回してさりげなく体の筋を伸ばしている。リリーは慌ててニックの腕を掴んだ。
「ちょっと、子供相手に喧嘩なんてやめてよね。公爵夫人に迷惑がかかっちゃう」
「あんなちまっこいのと喧嘩なんかしねぇよ。ちょっと脅かすだけ。だってさぁ、あいつらがあのまま大人になったらどうなる? 俺に迷惑がかかっちゃうだろう」
どいつもこいつも!
リリーは夜会に参加して数時間と経たずすでに疲労困憊であった。体ではなく心が。体は元気なのでとりあえずニックの腕にパンチをお見舞いしてみたが、予想通り全くダメージを与えられなかった。
「ニック、私と取引しましょう」
「やだよ。もっとおしとやかな女の子と取引したい」
「私があいつらを懲らしめてやるわ。だからウィルに売った恩っていうのを、今すぐ返してもらって」
この瞬間初めて、ニックはリリーという存在に関心を示した。
「懲らしめるって、どうやって?」
「これ見て」
リリーはドレスの裾をわずかに持ち上げて、ニックの目に映るように足をかかげて見せた。
「おやめなさいリリーさん。はしたない。先生悲しいですよ」
「この靴で足を踏まれたら、すごく痛いと思うの」
「ああ、それいいね。乗った」
察しのいいニックは呆れるほどにあっさりと、リリーの案に賛同した。
「ごめんなさい。わざとじゃないのよ。本当に、わざとじゃないの」
リリーは冷ややかに、少年を見下ろしながら謝罪した。リリーの視線の先にはニックを侮辱した少年がいる。うずくまって、足の先を押さえて悶えている。彼はダンスを踊っている最中、リリーに何度も足を踏みつけられ、少々元気をなくしているのだ。
「次はあなたね。一緒に踊ってくださる? 踊ってくださるわよね。踊ってくださるでしょう。踊ってくださるに決まってるわ」
呆然としているもう一人の少年の方へ、リリーは片手を差し出した。少年は「ひ……」と小さな悲鳴を上げて後ずさる。
「な、なんなんだよ。足を踏むなんて、マナー違反だぞ」
「私の手下を侮辱したんだから当然の報いよ」
「あいつがお前の手下だって知らなかったんだよ!」
「じゃあ罰としてあんたたちは今日から私のしもべってことにする」
話の流れがどうにも荒っぽいが、リリーはこの少年たちを無理矢理、自分の派閥に加えることにした。
少年たちは少年たちで、リリーの提案にちょっと興味をそそられている。
ここにいる三人だけで社交界の頂点に立つというのは、なんだか力不足のような気もするが、これから勢力を拡大していけばいいのだ。指導者は気を長く持たねば、とリリーは気を引き締めた。
リリーが二人のしもべと盟約を結ぼうとしていたとき、とんとんと誰かに肩を叩かれた。振り向くとそこには、苦笑を浮かべたウィルがいた。
「リリーが大変だって聞いたから、来てみたんだけど……」
まんまとニックに騙されたみたいだ、と言って、ウィルはリリーと少年二人を見ながら頭の後ろをかいた。どこをどう見ても大変という感じではないこの空気と、ニックの日頃の行いを考えてみれば、ウィルが自分は騙されたのだと思ってしまうことは仕方のないことだろう。
リリーはウィルの腕に自分の腕を回し、そう簡単には逃げられないようにした。捕獲成功である。
「騙されてないわ。本当に大変だったの」
「そうなの?」
疑り深い顔で見下ろしてくるウィルに、リリーはもっともらしい顔を向ける。
「そうよ。この二人が意地悪なことを言ってくるんだもの」
そう言ってリリーがしもべどもを指差すと、しもべどもは思いきり表情を歪めた。
「はぁ? あれはあんたに言ったんじゃないし」
「そうだよ。被害はこっちの方が大きいからな!」
しもべその1が己の足を指し示しながら憤慨している。
「嘘よ。私のことを豚小屋の臭いがするって言ったわ」
「あんた俺たちに一体なんの恨みがあるんだよ!」
「恨みなんか無いけど、あんたたちは私のしもべなんだから、しもべらしく私の役に立ちなさいよ」
幼稚な泥仕合が繰り広げられるなか、ウィルは何が何やらという表情で頭をかいていた。




