回想 2
2015年 7月20日
目が覚めると、まず感じたのは痛みだった。
動きを狭められるかのような首筋の痛み。鞭打ちにでもなったかのようなソレが鈍く走る。
「ああ」
周囲を見渡して、気絶する前の状況を思い出す。
いつものじゃれ合い。少しばかり悪ノリが過ぎて、少しばかり調子に乗り過ぎて、勢いのままに明菜の踵落としを喰らってしまった。
普段なら上手く受け流したり、そもそも当たりすらしない攻撃だが、つい他に気を取られて直撃を受けたんだ。
間抜けなものだと自分でも思う。
急所に降りかかる暴力より、一人の少女の言葉の方が、僕にとっては重要だったのだから。
「んぅ……」
呻くような声に釣られて横を見ると、そこには明菜がいた。
よくよく周りを見渡せば、ここが上野家のリビングで、今寝ているのは結構な面積で部屋を占めている、大きなソファーの上であることがわかる。
そのソファーにもたれかかるようにして、明菜は眠っていた。
……こういう奴だ。
勝気で、見栄っ張りで、秀才だけど天才じゃない。
常に真面目で、努力することを忘れない堅物委員長タイプ。
その生真面目さ故に責任感も強く、失敗したことを過剰なほど悔いて、自責する。
素直ではないが、心根の優しい少女。
「そんなに気にするなら、ちったぁ手加減してくれよ」
なまじ気が強い分、後悔するとわかっていても、自らの行動を律する事はない。
息をするように自分を押さえつけていられるからこそ、自分の正しさを疑わない。
社会の常識、倫理、道徳……
コレに適応する、適応出来ることが当然と信じ、反するものを悪だと断じる。
間違いではない。
動物から進化し、群れからコミュニティーへと複雑化した現代では、相応の規制、縛りがなければ個人の自由は成立しない。矛盾しているようだが真実だ。だからこそ、彼女の正義は誰からも共感されやすく、誰からの否定も貰わない。
――だからこうして一人で悔いる。
――あなたは悪くない、間違ってないと言われながら。
「んぅ…………け、い」
寝言だろうか。
瞼を閉じたまま、明菜は僕の名を呟いた。
暗がりで気付くのが遅れたが、涙らしき光が目元に溜まっている。
それをそっと指で拭ぬぐって、そのまま慎重に彼女を抱えた。
部屋は知っている。
一階のリビングから、そう遠くない二人部屋。
この年頃の姉妹なら、互いに同室を嫌がって一人部屋を要求しそうなものだが、明菜と芹菜がそのことについて言い争っているのは見た事がない。
二段ベットの下側、明菜のベットにそっと降ろして、上から薄手のタオルケットを掛ける。
その時一瞬漂ってきた柑橘系の香りが、彼女自身の甘い香りと合わさって……なんだか無性に“女”を匂わせた。
「早めに答え、出してあげてね……か」
あまりに無防備に晒される唇。
間違えることはなくても、その姿はまさしく想い人そのもので……
そんな分かりきった当たり前が、胸の内に巣食う獣慾を駆り立てる。
頬に手を寄せ、髪を梳き、自らの唇をその桜唇に近づけて――やめた。出来なかった。
明菜は明菜。芹菜じゃない。
それが全てだ。
答えなら既に解りきっている。
僕が明菜と芹菜を区別出来る以上、いかな獣慾に駆られても、その唇に触れられなかった以上、彼女の想いに応えることは出来ない。
好感はある。
友人としては出来過ぎているし、姉や妹として見るなら誇らしささえある。
しかし、それだけだ。
それ以上の関係を持ちたいとは、どうしても思えない。
もし仮に、彼女がここまで芹菜と似ていなければ……
もし僕が、芹菜をここまで想わなければ……
……仮定は浮かぶ。想像も出来る。でも心だけが自由にならない。
欲するのはただ一人。
喩え抱きしめる腕がこの腕でなかろうとも、幸福を祈らずにはいられない女。
「ん?」
そこまで考えてから気付いた。
上の段のベッド。芹菜の寝所である筈のそこに、彼女がいなかった。
「あいつ、また……」
傍に置かれた目覚まし時計は午前2時を示している。
起床にしては早すぎるし、寝始めるにしては些か遅い。
焦燥、不安、そして僅かな怒り……
様々な感情が胸中に沸き起こり、自分が感情的になるのが解る。
明菜や、彼女たちの父母が眠っていることも忘れ、廊下を走った。
キッチン、リビング。どこにも居ない彼女の姿を捜して惑う。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「芹菜……」
あっさりと彼女は見つかった。
今夜バーベキューをしたであろう裏庭。その縁側で、芹菜は涼んでいたのだ。
「あ、明菜……起きた? あの娘、ずっと久織君のこと心配……してたんだよ? どうしようどうしようって……」
自分が蹴ったクセに、ね。
なんて冗談を、彼女は微笑みながら言った。
浴衣にしては膝丈の短い、和装パジャマとでも言えばいいのか……
扇情的でいてどこか神秘的なその姿が、月や星、虫の音や夏の夜と相俟って、ひどく浮世離れして見える。
「どうしたんだよ、こんな時間に」
無力を嘆くことがある。
大抵の物事を諦めている僕だが、それでも己の力が届かない事に憤りを覚えることがある。
「眠れなくて……ちょっと涼んでたの」
「そっか」
それは例えば誰かの嘘だったり、
それは例えば誰かの強がりだったり、
それは例えば……誰かの、涙だったり……
「綺麗だね」
「夏は夜って言うしな」
「月が出てればなお良い?」
「闇夜もまたさらに良くて」
「ホタルは……いないよね。流石に」
「平安時代にはいっぱい居たんだろうな」
適当な雑談。
意味などまるでない、親しい間柄なら誰でも行うだろう無意味で非生産的な、しかし安らぎを覚える会話。
そんなことでさえ、僕らは二人の時にしか出来ない。
二人きりでなければ、彼女は彼女を晒してくれない。
本当に子供の頃、芹菜を幽霊の類と疑ったことがある。
自分にしか見えない特別な存在。周りは僕の妄想に付き合ってくれているだけで、実は芹菜なんて女の子は何処にもいないんじゃないのかと。
当然、そんな子供の戯言は母の拳骨と共に否定されたが、芹菜という少女は、そんな空想を抱いてしまうほど、姿を隠すのが上手かった。
「私、蛍の光って好き」
「ぽいね」
「ぽい?」
「うん。電気とか蝋燭とかより、蛍の光の方が好きそう」
散り際の桜。
7日と保たず堕ちる光。
短いからこそ美しく、しかし紛れもなく生を謳う命の煌輝。
そんな刹那的な美しさ……
彼女はホタルを彷彿させる。
電気の光のような図々しさがなく、炎のような苛烈さもない穏やかな光。
「佳人薄命」
「え?」
「芹菜ってさ、なんだか蛍みたいだよね」
命を次に繋ぐための光。
優麗で、儚くて、少し目を離せばなくなってしまう。
全霊を尽くして光を灯しても、果てれば地に落ち、暗闇に紛れ孤独に消える。
……愛されていないわけじゃない。
傍から見ても上野家は仲が良い。どこまで深く踏み込んでもそれは絶対だと断言できる。友人だって少ない訳じゃない。
それでも芹菜は一人だった。
一人ぼっちなんだと、なんとなく……気付いていた。
「私、佳人って感じじゃないと思うけど……」
「謙遜って時に顰蹙を買うから、気をつけたほうが良いよ」
「そうじゃなくて……
その、私……鹿とか解体できるから」
「…………」
確かに。
「それでも明菜に比べれば十分に佳人だよ」
「……もう。そんなこと言うから蹴られちゃうんだよ?」
ズドーンっ! ……ってね。
明るくそんなことを言いながら、彼女は笑った。
くすくすと楽しげに、淑やかに。
上品なその姿は月明かりの下でよく映えて……
その光景は、見る者の目を釘付けにする美しさと、目を背けたくなるような哀しさを同時に孕んでいた。
「いつも……」
「ん?」
「いつも見つけてくれるね。私のこと」
その姿に酔ってしまったからだろうか。
彼女の声が、まるで泣いているように聞こえたのは。
「慣れ……というか、クセみたいなもんだよ」
「あははは。クセって――」
「癖になるぐらい、探させたろ?」
芹菜はよく居なくなる。
遠足の途中、修学旅行の帰り、普通に家で寛いでいる時ですら例外じゃない。
誰に気を留められるでもなく、誰に注意されることなく、唐突に忽然と消えている。
影が薄いなんてものじゃない。
空気のように、靄のように――最初から定形を持たぬ幽体のように認識できなくなる。
まるでいない事が自然であるかのように、彼女の不在は罷り通った。
登下校は五人での集団下校が決まりだったのに。
遠足は二列行進で、奇数だった僕らのクラスは後ろに一人飛び出ている筈なのに。
修学旅行のバスは、席が一人分不自然なほど空いていたのに。
上野家は絶対、四人家族だったのに。
それでも誰も気が付かない。僕以外は、家族である明菜やおじさんたちですら気付けない。
彼女の不在を。
その欠落を。
夕食を摂るのが三人だろうと、二段ベットの上に誰もいなかろうと――その状況は当然のものとして処理される。
「ビックリしたなー」
「何が?」
「最初に、久織くんが探しに来てくれたとき」
「それは僕のセリフだ。びっくりしたよ。お前があんな時間になっても帰ってないなんて」
異常に僕が気付いたのは、今から10年前。
徐々に仕事が忙しくなっていった両親は、僕を上野家に預けて、家を留守にすることが増えていた。(ちなみにこれは今では当たり前のように受け入れられている)
嫌な顔一つせず、快く受け入れてくれた上野家に感謝して玄関をくぐると、何故かそこには芹菜がいない。
付き添いで着いてきた母も、おじさんもおばさんも、半身と言っても過言ではないであろう明菜も、誰もその事について触れず、笑顔で世間話なんぞをしている。
最初は、調子が悪くて部屋にでもいるだろうと思っていた。
皆で気を使って、彼女が無理に出てこなくていいよう配慮しているのだろうと……。
だが彼女はどこにもいなかった。
部屋にも、リビングにも、どこにも彼女は見当たらなかった。
それどころか話に上がることがない。
どれだけ注意深く観察しても、病床の娘を気にかける様子は微塵も見られない。
食卓に着いても、風呂が空いても、ついには就寝するその間際まで……彼らの態度は変わらなかった。
恐ろしくてたまらなかった。
今まで見てきた上野 芹菜という存在が、唐突に実体を持たない虚像のように思えた。
影も形も掴めない、他の誰にも認識できない女の子。
生まれ落ちてからまだ六年しか経っていないあの頃。ロクな知識も常識もないピカピカの小学一年生にこの不思議、この不可解は恐怖過ぎる。
幼いなりに構築してきた僕の世界は、既に様々な支柱が抜かれて崩壊寸前だった。その完全なる崩壊を恐れて、芹菜のことをおばさん達に尋ねることもできなかった。
もし、
『芹菜? 誰それ?』
なんて言われたら?
……間違いなくやばかった。最低でもおねしょは確実だった。
「結局……久織くんはどうやって私を見つけたの?」
「決まってるだろ。走ったんだよ。行ける範囲全部」
そして恐怖と不安で眠れなくなった僕は、彼女が居た確固たる証拠を求めて夜の街を駆けずり回った訳だ。
「あんな夜中に?」
「あんな夜中に」
「……怖くなかった?」
「それはそっくりそのまま返してやる」
学校は施錠済み。他の縁あるものは大体が上野家にある。
結果、見つけたのは物証ではなく本人だった。
あまり遊んだことのない、家から少し離れた場所にある公園……そのブランコの上に探し求めた少女は座っていた。
座って、俯いていた。
よく見る光景。よく見る状況。この年頃の子供なら四六時中目にすると言っても過言ではないあの相好。
彼女は泣いていた。
たった一人、溜まった弱さを吐き出すかのように嗚咽を漏らして泣いていた。
彼女の涙を初めて見た。
見て初めて、彼女が泣いたことがないのに気付いた。
僕らはまだ六歳だ。人として擦れることなく、純真で剥き出しの心を晒している。
繕うことも、守ることも知らない無垢な精神。
そんな穢を知らない幼い心が、涙と無縁でいられる筈がない。
どんなに体格のいいガキ大将も、強者にすり寄るキツネのようなお調子者も、無知を恥とも思わない小生意気なクソガキも、どんな子供でも例外はない。
ペルソナすら知らぬ無防備な心が、痛みを覚えぬ筈がない。
「怖くないよ」
「嘘つけ」
「怖くなんか……なかったもん」
だからこそ憧れた。
幼心に尊敬した。
我儘に、誰の前でも涙を見せる自分が、明菜が、クラスメートがちっぽけに思えた。
皆の前では耐え忍び、常に穏やかな笑みを浮かべるこの少女が、夜の公園で一人流す涙を尊いと感じた。
その強さに惹かれ、恋い焦がれ、いつしか傍に在りたいと思うようになった。
彼女の涙を拭えるような人間になりたいと。
「無理するなよ」
「…………」
「僕の前でまで強がるな」
「…………ッ」
不可思議現象など二の次だ。
彼女は確かにここにいて、孤独に耐える強さを持っている。
それで十分。十全だ。
なんて……
まあ小難しく、綺麗に表すならそういうことなのだろう。しかし当時六歳の子供にそんなことが考えられる訳もなく…………
うん、はっきり俗っぽく言い直そう。
この時初めて、僕は芹菜を強烈に意識した。芹菜は僕の初恋の相手だった。
「どこに居たって見つけてやる。手が足りないなら手伝ってやる。危なかったら助けて……やれるかどうかわかんないけど、取り敢えず一緒に逃げてやる」
「最後……締まらないよ」
穏やかだった表情は消え、優しかった声に湿り気が混じる。
そして堤防が決壊するかのように感情を溢れさせ、芹菜は僕にしがみついた。
「お前が消えるときは、大体爆発寸前なんだよ」
「……んぐっ……ひっぐ……」
彼女は泣かない。
泣かないことにすら気付かれない。
彼女は怒らない。
怒らないことにさえ気付かれない。
それが親であろうと姉であろうと、誰かの前で激情を露にする事ができなかった。
ただ一人、僕を除いて。
顔は僕の胸に押し付けられていて見えないが、服の濡れる感触と漏れる嗚咽から泣いていることが分かる。
嬉しかった。
誰にも見せない感情を晒してくれることが……
涙を見せてくれる事が嬉しかった。
情けなかった。
僕はその涙の理由を、未だ知らなかったから。
いつかそれすら吐き出して、頼って欲しいと願わずに居られなかった。
なあ覚えてるか?
あの日、お前を公園で見つけたあの時……
お前は僕を見て“どうして”って言ったんだよ。
見えてることが、
探せることが、
違和感を感じること自体がおかしいとでも言うように。
「あんまり……優しくしないでよ」
「優しくなんかない」
深い意味なんてないのかもしれない。
今まで探されたことすら無かったから、それで口を吐いただけかもしれない。
「優しいよ」
「下心……あるから」
それでも、聞けなかった。
その“どうして”の理由を、涙の理由を、聞けなかった。
「酷いね」
「明菜曰く、最悪最低のゲス野郎らしいから」
芹菜が僕の気持ちに気付いていることは知っていた。
だからこんな、ともすれば告白にもとれる言葉にもためらいはなかった。
「私は……ダメだよ」
「知ってる」
「嘘つき」
「嘘じゃない」
「嘘だよ。久織くんは……螢は、なんにも知らない。私のこと……全然わかってない」
涙は止まらない。
濡れるシャツの感触が、それを伝える。漏れる嗚咽の激しさが、その悲しみの強さを伝えてくる。
声は静かなのに、篭るのは苛烈なまでの感情で、むやみに触れれば火傷しそうな熱を秘めていた。
「私、ホタルって好き……」
「知ってる」
もがく腕が、爪跡を残す。
「蛍が……好きなんだよ?」
「わかってる」
柔らかな肌が、これ以上無いくらい押し付けられる。
「螢が……好き」
「…………ああ」
知ってたよ。
お前が自分の想いにも僕の想いにも苦しんでいたことくらい。
知ってたよ。
僕が受け入れられない事も、お前が認めない事も。
お前の両手はいつも名前も知らない黒い“ナニカ”で塞がっていて、伸ばすことさえ出来ずに固まっている。
――放り出せばいいのに
ずっと律儀に抱えあげて
――代わってやりたいのに
お前はそれを許してくれない。
だからずっと……
ずっと、
お前に後生大事に抱えてもらってるそれが憎くて仕方なかったよ。