プロローグ・始まり・回想
よろしくお願いします。ぼちぼち書きます。
That’s relieved and the foe man needs around here most.
安心、それが人間の最も近くにいる敵である。
ウィリアム・シェイクスピア
*****
この世の全てが下らないと思った。
どうでもいい。
面倒。
つまらない。
偉い人や偉ぶった人なんかは、よくこんな無気力を自らの怠惰と断じているが、実際人間など“楽”を追求して生きているようなものだ。究極の安楽、完全な自然体が世を儚むような諦観であってもおかしくはない。少なくとも悪くはない。
そう思っていた。
全てが下らない世界なら、惰性で生きるのも仕方がない。
面白くないのも仕方がない。
物足りないのも仕方がない。
己の生き方に言い訳が付くこの屁理屈を、僕は愛していた。
……ただそれだけ。
変わらない退屈が永遠に続く筈だった。なのに――
いったい、どこで間違えたのだろう。
それは茹るような暑さの、ある夏の日の出来事。
いつものように学校に行き、いつものように授業を聞き流し、いつものように帰宅する……そんな、何の変哲もない日常。
「なんだよ……これ」
僕の惰性は唐突に崩れ落ちた。
姦しい女子の駄弁り、体力を持て余した男子のちょっかい、気だるげに下される教師の号令…………平穏の象徴たるそれらが消え、代わりに満ちるのは闘争の悲鳴。
剣戟
銃撃
爆撃
時に劈くように、時に轟くように、それらは世界に満ちている。
周りに居るのはスーツを着込んだ大人ではなく、厳重に武装した男達と異形の怪物。
荒廃という言葉を思い浮かべるに相応しい荒れ地で、彼らは“戦争”をしていた。
戦争。
殺し殺される、生存を賭けた殺戮競争。
大砲は怪物を爆散させ、銃弾はその頭を貫き、細身の剣は巨大な敵をも両断する。
異形の牙は人を喰らい、巨大な体は質量だけでも人を滅ぼす槌となり、鋭い爪は紙を切るより簡単に人を裂く。
「はは……はははっ……」
乾いた笑いが零れる。
理解不能な現状に、脳が理解することを放棄する。
……よし、とりあえず寝よう。
残酷な現実など知ったことではない。
理不尽溢れる世界を置いて、夢の世界へ旅立とう。
夢の内容は……そうだな、とりあえずこんなことになる前の夢。僕の回想からこの物語を始めることになる。
序盤から寝るとかどういう神経してんだとか、ふざけんな、読んでやるからさっさと話を進めろとか、色々と不満が聞こえてきそうだが始めるといったら始めるのだ。
更に注釈として加えておくなら、この回想には何の面白みもない。
主人公のキャラは立っておらず、文学としての魅力も、漫画のように突き抜けた設定もない。そういった読者を引き込む毒なり棘なりを一切持たない、ただの平凡な高校生の日常。
今や失われた、掛け替えのない日常なのだから。
……さしあたって、7月21日。
僕は、密かに憧れていた女の子とキスをした。
~~~~~~
2015年 7月19日
「螢……ケ・イ!」
「んぁ?」
揺れる世界。霞む視界。
覚醒しきっていない頭が光を認識すると、目の前には明菜の顔があった。
「やっと起きたか。もう放課後だよ? いつまで寝てるつもりなのよ、あんたは」
「ふぁぁ~……もうそんな時間か」
外は綺麗な茜色。上の階からは合唱部の歌声と吹奏楽部の楽器の音が聞こえてくる。
その景色は美しく、その音は心地いい。
だが心はどこか落ち着かない。目を閉じ、耳を塞ぎ、永遠に眠っていたいような、望んでもいない願望にとらわれる。
願い、望む。
望まずとも、願う。
願望。
つまるところ本気ではないのだ。適当に、無意味に、なんとなくで、思ってみただけなのだ。
「ほらもうっ……ちったぁシャキッとする!! あんた、最近いつもそうだよね。なんでそんなに眠いの? 思春期? 思春期だから? 溢れ出るリビドーを抑えられないから?」
「……リビドーって、どっちかと言えば眠気とは正反対の所にあると思うんだけど?」
「だってその、ほら、男の子はあれでしょ? 色々その……出すと疲れるんでしょ」
「出すとって……馬鹿っ! 違うよ。そんなんじゃなくて、僕は――」
ランニングしている野球部、短距離全力疾走を何度も繰り返す陸上部、一人静かに本を読む少女、駄弁ってるギャル、ケンカするDQN……
「起きてたところで、やることなんて決まってるしな……」
目を覚ましたところで、結局この中のどれかに加わるだけだ。どれかに加わったところで、そのコミュニティー内で夢を見るだけだ。
いつかきっと四番バッターになる。
いつか100メートルを10秒で走る。
いつか上っ面だけじゃない、本当の友達を作る。
そんな夢を見て……
叶わない夢を見て、追いかける。
起きて見る夢は眠ってみる夢よりもタチが悪い。
なら別に、眠っていたって大差ないんじゃなかろうか? むしろ起きている意味なんてあるのだろうか?
「は?」
「いや、何でもない」
馬鹿な考えだ。分かっている。
きっとこれは僕が幼稚で、他の人と比べてあまりにも子供じみているから……
つらい現実を直視したくないから、不安な今を認識したくないから考えてしまう言い訳なのだろう。
だから明菜には言わない。
彼女は生きている。何ら意識することなく、何も取り繕うことなく、彼女は現実を直視する。
明菜からすれば、こんな考えは取るに足らない、一考する余地すらない、愚かで幼い駄々のようなものなんだろう。
だから言えない。
否定されると分かっているなら、否定される前に心の中だけで封じ込めておいた方が余程いい。
偉そうに何か説教された時、『僕には僕の考えがあるんだ』と、惨めになりながらも自分自身を認められる防波堤が、僕のようなクズには必要だ。
「つか明菜、部活は?」
「……はぁ」
質問に返されるのは重い溜息。
呆れたような、苛立ったようなソレは、誰が聞いても分かるほど不機嫌な様相だった。
「あんたねぇー、そんなに人の傷口抉って楽しい? 普段からやる気ゼロで何に対しても本気で取り組まないのに、どうして人の傷口抉るのだけは天才的にうまいの? 根性曲がりすぎじゃない?」
「抉りたくて抉ったことなんて一度もないよ。というか傷口抉るのだけが天才的って、それかなり最悪な人間じゃない?」
ロクに関わった事のない人間に傷口を抉られるなんて冗談ではない。
励ます為でも、慰めるためでも、発破をかけるためでもなく、純粋にただ傷口を抉ってくる人間なんか嫌悪の対象以外の何物でもない。
「あんたその最悪な人間だって言ってんのよ。人に興味無いくせに、人が気にしてる事には異常な興味をみせる。人格に関心は無くても、人格が向ける関心の矛先には関心がある。……最悪よ」
「最悪か」
「最低ね」
「最悪最低か」
「最悪最低のゲス野郎よ」
「言いすぎだろ泣くぞこら」
悪し様に僕を罵る上野明菜。
陸上部所属で、一年生ながらエースの座を掴みとった期待の新星。新人戦は優勝確実、全国大会も夢じゃないと言われていたが……現在膝を故障中。試験期間が近いことも相まって今は休部している、僕の幼なじみだ。
「ほら、帰るわよ」
「はいはい」
家が隣で親同士の仲がよく、幼い頃から常にこんな関係だ。
世話焼きの幼なじみに尻を叩かれるダメ男……主導権は常に彼女にあり、僕はそれに不平不満を漏らしながらついていく。
煩わしく感じたことは何度もある。
小学校中学年には男女の性差によるアレコレで近すぎる距離を面倒に感じたし、中学に入って成績や運動神経などのスペック差が評価として現れだしてからは、彼女に強いコンプレックスを抱くようになった。
酷く惨めで、恥ずかしくて、傍に彼女が居る事そのものが苦痛になる。
比較されることがストレスになる。
しかし関係は変わらなかった。
彼女からすればそんな卑屈さは取るに足らない、下らないものらしく徹底的に距離を置く僕に無理やり踏み込んできた。
どれだけ避けても、距離を置こうとしても、明菜はずっと傍にいた。
まったく……お前は僕を最悪だと言うが、人の悩みを下らないと一蹴し、鼻で笑い、嘲り、嘲笑までしてみせたお前に比べれば僕は全然マシな方だ。
お前の方が余程最悪で、しかも最高にタチが悪い。
「あ、お母さんが今日ウチ来るかって」
「いっかね~。家で適当にラーメンでも啜ってるって、おばさんに言っといて」
他人に興味がないわけじゃない。興味を持たないようにしているだけだ。
誰かを傷つけない関わり方を知らなかったから。
行動に興味を示すのは、そこには熱意があるからだ。
目的意識、そこに至る理由、情熱をかけてきた歴史……そういうものが分かれば、この無気力な心が救われるような気がしたからだ。
人に関われないのなら、その指針から何かを感じ取るしかない。
興味が有るのは意思の在り処……熱意の源泉。
我が事ながら中々に枯れていて、しかし満ち足りている僕の心。僕自身。
僕は、それが知りたい。
「そんなこと言ったら私があんたの家におかず届けに行くことになるんだから……。二度手間よ、このままウチに来なさい」
「うげ~」
「何ようげ~って」
「だってお前、帰ったらまず宿題して、それから一時間は勉強じゃん」
まあ、身近にこんな熱意あふれる御仁がいるのに何も掴めてない時点で、僕という奴は救いようが無いのかもしれないが。
明菜さんマジ秀才。
日々努力を怠らず、平然とこなせる優等生の極み。吐き気がするほど勤勉だ。
遊びのないその生き方は尊敬するし、憧れることも無いわけではないが、それ以上に嫌悪感を覚える。
何故嫌悪するのかって?
特に理由なんてない。
嫉妬、否定、怒り、嫌悪……それらの暗い感情はもはや僕にとってのデフォルトだ。標準装備だ。
大抵の人間は妬ましいし、羨ましい。同時に、彼らの持つ正義感や努力、愛や優しさなど、その全てを否定したくなる。
……分かってはいたけど、やっぱり正真正銘のクズだな、僕。
「当たり前でしょ、学生なんだから」
「当たり前を当たり前にこなせるのは、実のところ少数派だったりするんだよね~。当たり前、『とうぜん』って書くのに」
「……それ、字違うわよ」
「え?」
「あたりまえは当に前方の前。当然は自然の然よ」
「あ」
「まったく……こんな小学生で習うような漢字でさえ間違えるなんて……」
「う、うるさいなっ。たまたまだよ、偶々」
恥ずかしい。
賢しらに語っておきながら間違えを指摘されるなんて恥ずかしすぎる。
……でもなんで字が違うんだろ? 意味的には同じだろ、多分。これも間違ってたら恥の上塗りになるので聞かないけど。
「あっ……」
「なに? ああ、芹菜じゃない。おーい、芹菜~」
僕は正真正銘のクズだ。
誰かを妬むことしかできない。見下すことでしか自分を保てない。
馬鹿にされてると思うから、周囲全てが僕を嘲笑っているように感じてしまうから……
だから僕も嘲笑う。心の中で、誰かしらを馬鹿にする。下に見る。
そんな最低最悪の僕にだって、想いを寄せる少女くらい居た。思春期なのだ、許して欲しい。
別に好きになりたかった訳じゃない。こんな自分でも持て余してしまう感情、全く欲しくなかった。
でも哀しいかな。
どこぞの頭の悪い恋愛小説の如く、僕は一度彼女を想うと、そこから抜け出せなくなってしまったのだ。
「明菜……それに久織くん」
「よっ」
「芹菜も今帰りー? なら一緒に帰らない?」
慎み深く、大人しく、常に一歩引いた大和撫子のような少女。
いつも寂しそうで、目に入らない所へ行くといつもその姿を探してしまう。
最初はただ心配なだけだった。
このままどこか遠くへ行ってしまいそうな危うさが、儚さが、彼女にはあったから。
ずっと昔、もっと幼い頃から――
「……いいよ、邪魔しちゃ……悪いし」
「ん、邪魔?」
「真っ先に僕の方を向くな。お前じゃあるまいし、芹菜が僕にそんなこと言うわけないだろ」
繰り返し言うが、僕はクズだ。
美人を見れば吸い寄せられるように目が行くし、綺麗な女性からアプローチを受けたりしたら、デートくらいはしてしまうだろう。……そんな可能性ないけれど。皆無だけれど。
まあそんなクズだが…………一つ、誇りをもって言えることがある。
僕は女性を顔“だけ”で好きになったりはしない。
クズではあるが、女の子を顔だけで選んだりするようなクズじゃない。
ちなみにコレは実証済みだ。根拠もある。
「そうだよ明菜……久織君にそんなこと言ったら……駄目だよ?」
「いーのよ、実際邪魔者なんだから」
明菜と芹菜。
長い黒髪に切れ長の眉、白く柔らかそうな頬に薄い唇、大きな瞳は凛としていて、その面立ちは細部に至るまでうり二つだ。髪型を同じにすれば、おそらく教師も友達も、殆どの人間は二人を区別することが出来ない。
確実に見分けられると断言できるのは恐らく僕と、彼女たちの母親くらいだろう。
長年一緒に過ごした経験のおかげで、なんとなく区別が出来るようになった。
……いや、嘘だ。
僕には二人を間違えることができない。
見た瞬間にわかってしまう。
芹菜を……ずっと目で追ってきた彼女を間違うことなんて、ある筈がなかった。
「邪魔邪魔いうな。つかそんなふうに思ってるなら誘わなきゃいいだろ?」
「……うっわー。そりゃ友だちいないわアンタ。あんなの、誰でもわかる冗談でしょ? 誰が聞いたって冗談だってわかる口ぶりでしょ? なに本気で捉えてんのよ」
「本気で捉えちゃいないし、友達はいる。お前こそ何怒ってんだよ。冗談に冗談を返しただけだろ?」
「……笑えないのよ、アンタの冗談は」
「お前の冗談だって、笑えないよ」
「あの……二人とも、落ち着いて……」
恥ずかしかった。
久しぶりに話した芹菜の前で、明菜にいいようにされるのが悔しくて恥ずかしかった。
だからつい、語気を荒げた。
芹菜の前でコイツを相手に引きたくなくて、いつもならサラッと流す所に喰いついた。
それが余計に恥ずかしいことで、しかも余分なトラブルを起こすきっかけになる事など、考えもしないで。
「もういい。帰る」
「あ、ちょっと明菜っ」
言い捨てて、明菜は走り去った。
「なんだよアイツ……意味わかんね」
「あ~、そう……だね」
苦笑いで同意する芹菜。
本心から同意しているわけではないのだろう。その苦しい表情はいつも誰かに優しくて、いつも誰かを遠ざけている。
歪んでいて、間違っている。
「その……一緒に帰る?」
「……うん」
だからこそ、放ってはおけなかった。
「なんか、久しぶり」
「そう……かな? 結構一緒に帰ったりしてると思うけど……」
義務感にも似たそんな想い――
「三人ならともかく、僕と芹菜で下校というのは中々ないだろ」
「……ふふ、そうだね」
それが傍にいたいという願いに変わったのはいつの頃だろう?
…………明菜の冗談に腹を立てる資格なんてない。
本当に邪魔だと思っていたのは、僕の方だ。
明菜を邪魔者だと思っているのは、いつも僕だ。
「…………」
「…………」
お互い、しばし沈黙する。
明菜と居る時では考えられない。常に会話をリードして引っ張ってくれる彼女と過ごす時間は、それだけ無言の間が少ない時間だ。
芹菜の場合はそれがある。
癒やされるような沈黙。緩やかに過ぎる時間。
「……なに?」
「いーや。何でも」
ただ黙って隣を歩き、時折視線を交わし、言いたいことを言い合う。
気まずいものではない、穏やかな沈黙。
無理に話そうとしなくていい、ただ傍に在ればいい。
存在を認められる感覚と、己を必要とされる感覚。
そんな優しい――この二人きりの時間が好きだった。
「女の子ってさ、どういう時に怒るの?」
「え?」
唐突に、思ったことを聞いてみる。
「分かり辛いんだよ、アイツの逆鱗。
あんなの怒る程のものなの?
前に、あいつが週に一度何よりも楽しみしていた木梨屋のプリン食った時だって、あんな怒り方しなかった。いったいどこが琴線に触れたのやら――」
沈黙は金、雄弁は銀というべきか……
実のところ、明菜は芹菜よりも分かりづらい。
芹菜は普段無口だが感情的な部分も多く、行動や表情で機嫌を察するのも難しくない。
明菜はコレが全く分からない。
口調だけならいつも怒っているし、態度や行動を鑑みても本気で怒る瞬間を判断できないのだ。
明菜からすれば、僕は確かに「傷口を抉る天才」なのだろう。
何気なく発した言葉が無意識に傷口を掘り当て、無神経な態度がそこを逆撫でていく。
「本当に……何も心当たり……ない?」
「ない」
即答すると溜息をつかれた。
なんでだ?
「本当……に?」
「ない」
確認するように、もう一度訊ねられた。
即答した。
長い溜息をつかれた。「はぁ~」だったのが「はぁぁぁ~~~」ぐらいになった。
……なんでだ。
「久織くん」
ヘアゴムを外しながら、彼女は僕を見つめた。
絹のようなクセ一つなく流れ落ちる黒い髪。それを再び束ね直し、現れた彼女はいつものサイドテールからポニーテールになっていた。
現れた……という表記は決して間違えていない。
全く同じ造りの顔。同一の卵子から分裂した、同じ塩基配列を持つたった二つの個体……姿だけなら、完全な明菜がそこにいた。
そして――――
「……ん」
「っんう!?」
唇を、寄せられた。
唇を寄せられて、奪われた。
「これでも覚え……ない?」
「っ……え、いや……」
……ちょ、何が起こった? どうして? え、何で!? はあ!!?
と、九割九分九厘の脳細胞が混乱していたが、その隅で僅かに冷静さを心得ている一厘が芹菜の問いの答えを出していた。
覚えはある。
この尻尾のように揺れる髪の光景を、瞼を閉じて寄せて来る綺麗な相貌を、花のように可憐な香りに至るまで全てに覚えがあった。
「結構……焦れてるみたいだからさ……早めに答え、出してあげてね?」
*****
「ただいま」
「お、おじゅ…………おじゃまします」
「あら、螢くん。いらっしゃい……おじゅ?」
「おーう螢坊。丁度いいとこに来たな。お前もこっち来て手伝え……おじゅ?」
なんでそんな喰いつくんだよ!! ちょっと噛んだだけだろ。さらっと流せよ!!
「ふふっ、おじゅ……だって」
「お前なぁ」
誰のせいでこんな動揺してると思っているんだ。
――そんな内心を知ってか知らずか、楽しそうに芹菜は笑う。
あの行為の意味をなんとなく聞けないまま帰路についた僕たちは、そのまま芹菜の家へと直行した。
家の中ではおばさんがせっせとおにぎりを握っており、庭の方ではおじさんがバーベキューセットに炭を入れて火をおこしている。そして――
「……おかえり」
明菜が、キャンプなどで使っていたアウトドア用の椅子を庭に運び出していた。
「うん。ただいま、明菜」
「お邪魔してる」
適当に声をかけながら、彼女が抱えていたイスを横から掻っ攫う。
そこまで重量があるものではないが、おそらくこのまま御馳走になる身分としては、このぐらいはしないと居心地が悪い。
「ありがと」
「いえいえ。にしてもどうしたんだ、急にバーベキューなんて……何かいいことでもあった?」
「違うわよ。お父さんがまた妙なお店に行って、料理が美味しくなる炭だか何だかを買ってきたから急遽夕飯のメニューが変わっただけ」
「へー。すごい炭だな」
「お父さん……そういうの、大好き……だから」
二人の父は豪気な人で、うちの親父の親友でもある。
人間大好きでアウトドア好き。
食事は大人数で――というのが主義らしく、隣に住んでいた僕たち久織家は頻繁に上野家と食事を共にした。幼い頃から現在に至るまで、登山から渓流釣り、キャンプやハイキングなど、様々な思い出を共有した。
僕にとってももう一人の父のような存在である。
「今日は肉も珍しいわよ」
「へー、何?」
「イノシシ」
「……食えんの?」
「さあ?」
「雌の脳の部分が美味しい……よ?」
「「…………」」
数えきれない程の恩もあり、誰よりも親しみ易い彼女たちの父であるが、僕は彼と違い根っからのインドア派だった。アウトドアが楽しくないとは言わないが、せっかくの休日に体を休めず、苦行のように酷使する意味が分からない。
特に登山は最悪だ。
全く、何一つとして、楽しみがない。いやあるのかもしれないが、少なくともわからない。
山に登る理由を「そこに山があったから」……みたいにのたまっていた(らしい)登山家がいたが、とりあえずもう少し理解できるように言って欲しいと切に願う。
これに関しては珍しく明菜の同意も得られ、(意義が分からない。トレーニングなら平地でいいし、高低差のある場所を延々と歩き続ける理由がどこにあるの? だそうだ)登山計画が持ち上がった際だけは彼女が味方になったのだが、普段僕の味方である芹菜がこの時ばかりは敵となって立ち塞がった。
普段の温厚で儚げな印象とは裏腹に、彼女はアウトドア大好きだ。折れそうなほど細い手足からは想像もできないが、獣の解体もできるらしい。
怖い。
「脳?」
「うん」
グロい。グロいよ芹菜。それでも可愛いけど。めっちゃ好きだけど。
というかどうしよう?
もしこの金網にこれから乗せられるのが脳みそだったりしたら、僕は軽く二週間は生ものを食べられなくなる自信がある。
「あ、私ちょっとシャワー浴びて来る」
「ちょっと待てふざけんな。死なば諸共だ、絶対逃がさん」
「何よ。乙女の入浴を覗こうっての?」
「ああ覗くね。むしろ一緒に浴室に避難するまであるね。心配するな、見慣れたお前の裸なんざまるで興味無い」
「はあっ!? 見慣れたって…………この変態っ!!」
姉弟同然に育ったのだ。中学一年くらいまで、奴は平然と下着姿で居間を闊歩している(久織家、上野家問わず)。
馬鹿め知らなんだか。
性欲が目覚めたてのあの時期は、どんな小さな色気でも逃さずガン見してしまうものなのだ。
「とにかくっ……シャワーは僕が浴びる。自分を乙女というのなら、お前は浴室の外で頬でも染めながら恥じらっているがいい!!」
「なんでそうなるのよ!!」
「当たり前だ。僕はお前と一緒に風呂に入れるが、お前は僕と一緒に風呂に入れない。ならどっちにしろ浴室を使える僕がシャワーを浴びる権利がある」
「この変態っ!! 死ね!!!」
何の正当性もない論理だが、恥ずかしがっている明菜には有効なようだ。
いつものように正論で論破するでもなく、陸上で鍛えた美脚を振り上げて踵を勢いよく振りおろしてくる。
「って危な!!」
「避けるなっ!」
いや避けるわっ。
「ふふっ……仲良し……だね」
「ええ、そうね。あなた達二人のどちらかが螢くんのお嫁さんに――なーんて話を久織さんとしたことがあったけど、この様子じゃどっちを選んでくれても上手くいきそうだわ」
「……私も?」
「な~に? 嫌なの?」
「嫌じゃ……ないけど」
すごく聞き逃してはならない単語が聞こえた気がするが、それよりも今は目前に迫る危機を回避する方が優先だ。すごく聞き逃してはいけない気がするけど――
「もらったぁーー!!」
「ヘブッ!!」
脳天に落とされる尋常ではない衝撃。
首とか脳とか、人体にとって重要な部分がかなりやられたっぽい洒落にならない暴力。
どうやら僕は危機を回避するつもりで、二人の会話に全神経を集中させてしまっていたようだ。
地面に倒れ込みながら思った。
…………マジいらねえ、恋愛感情。