私の幼馴染は、今日も冷たい
「暑い…」
私は眉を顰めながら、炎天下の原因を睨みつけた。蒸し暑さと眩しさに、私のイライラが募っていくのがわかる。どうして毎年、夏はやってくるのか。冬も冬で辛い場面はあるが、どうも子どもの頃から暑さは苦手だ。東北生まれの雪国育ちな私だから、きっと夏が好きになれないのだろう。夏だけでも、田舎に帰りたい。
しかし、そこは悲しき社会人。休みに限りがある。田舎で職を探すなど無謀なことはできなかったし、何より私は便利な都会が好きなのだ。好きな本が入荷しても、毎回一時間かけて自転車で本屋に走る必要がない。コンビニがある。ナメクジにも悩まされない。田舎は好きだが、それはそれ、これはこれだ。社会人二年目だが、都会生活に私は満足している。ただ、この暑さが嫌いなだけなのだ。
汗が染みついた服を手に持ち、ぱたぱたと身体の中に風を送る。頭もくらくらしてきたかもしれない。今年は去年よりも、全体的に猛暑日が続くとテレビで言っていたが、やってらんねぇー、な気持ちになる。このままだと、熱中症になるかもしれないなー、と冗談まじりでぼんやり考えた。
私は人一倍暑さに弱い、と自他ともに無駄に自信満々に言える。家族や近所の人たちには、都会に行く私にそれはもう心配されまくった。本当に生きていけるの? と幼馴染には真顔で言われたぐらいである。
それでも、ニートになるぐらいならば! と頑張って田舎から出た私を、褒めてくれてもいいだろう。夏になると、毎回生存報告の連絡が来るのはなんとかしたい。去年一度報告を忘れた時は、母にマジ泣きされた。生きていてくれてよかった! って嬉しいけど、ものすごく複雑だった。父の無言の圧力も怖かった。私が悪いのか、こんにゃろう。
今年の七夕の願いにも書いたが、地球温暖化よ改善されろ。それか、夏よ滅べ。もうちょっと気温よ下がれ。せめて家族に、毎日生存報告をする現状をなんとかしたかった。24歳の一人暮らしをしていても、未だに親に毎日連絡って……、なんか考えたら無性に悲しくなった。理由はわかるので、強く出られないのが余計に辛かった。
「……頑張れ私、家までもう少しよ」
ふらふらしないように気を付けながら、私は真っ直ぐに帰宅をしていた。早くエアコンと言う素晴らしい科学技術を使って、この窮地を脱したかった。冷たいものが無性に欲しい。おかげで道端の自販機に何度も目が行くが、財布の中身を思い出せば、誘惑には勝てる。
寄り道など論外。去年は近くの喫茶店やコンビニに入り、涼んでは進むを繰り返していたが、あれをすると漱石様の消費量が半端ない。涼みに来た客への店員さんの無言の圧力が、私の胃に直撃するのだ。去年はそれで、週に二回ほど水かけごはんで過ごした。涙が出た。
というより、私がこれほどまでに暑さに弱くなってしまったのには、ちゃんと理由がある。その原因は、間違いなく私の幼馴染にあった。自業自得も入っているが、あんな重宝するものを使わないなんて勿体無い。あいつは、……とにかく冷たい男であったのだから。
「ただいま……」
「あっ、おかえり」
だから、家に帰ったと同時に感じた冷気と声に、私が我を忘れて跳び付いたのは仕方がないことだろう。もはや習慣である。正常な判断力など、冷たさの前では無意味。私の中では、冷たいものは正義なのだ。噂をすれば影、という言葉も馬鹿にできないと思った。
びくぅッ! と私の突撃に硬直する幼馴染など気にしない。なんでいるのか、とか今は気にしない。それより、グッジョブと言いたい。不法侵入だが、この冷たさに免じて許してやろう。私はそんじょそこらの女子とは、色々格が違うのだ。
4つ年下の幼馴染は、赤ん坊の頃から知っている間柄である。いつの間にか姉弟みたいに過ごしていた人物だ。恥ずかしさなど今更。むしろ、さっさとこの暑さからおさらばしたかった。悪いのは、この暑さだ。科学技術は電気代がかかるというのに、彼は相変わらずエコな冷たさだった。まさに至福の一時であった。
――おかげで、私のテンションも体力も回復した。さすがである。
「……で、なんでいるの?」
「さ、散々好き勝手やっておいて、今更そのセリフ…」
「幼馴染とはいえ、勝手に女性の部屋で寛いでいたやつが何を言っている」
「幼馴染とはいえ、男にいきなり抱きついてくるやつが何を言っている。あと、そろそろ離れろ。すりすり辞めろ」
「こんなに暑さで弱りきっている私から、冷たさを奪う気かっ!?」
「お前、女! 俺、男! 俺の尊厳を奪う気かっ!?」
社会的に考えろ! と、社会から確実にはみ出しているであろう相手に社会的とか言われた。ちょっと傷ついた。だからおいおいと泣き真似をしてみたのだが、身体と同じぐらい冷めた目で見られる。昔は慌てて慰めようとしてくれて、かわいかったのに。
「あぁ、昔の冷たくてかわいくって、そして冷たかったいっくんはどこへ…」
「……とりあえず、泣き真似をするなら俺の腕を離してからにしろよ」
「泣き真似を見抜くとは成長したのね。私は嬉しいわ」
「白状したら、腕を掴んでいていい理由にはならないからな」
幼馴染は遠い目をしながら、諦めたように溜息を吐いた。吐いた息が白く輝き、扇風機のように涼しかったので、もう二、三回と真剣にお願いした。聞き入れてくれなかった。
「都会に行って、常識を学んでくるかと思っていたのに、変わらないよな夏奈は」
「常識って、確かに田舎で暮らしていたから、ちょっと都会っ子とズレがあるかもしれないけど…」
「そこじゃないから。俺が思う常識の着眼点は、そこじゃないから」
充分冷却補給ができたので、私はコップを二つ用意し、冷蔵庫から取り出した麦茶を注ぐ。幼馴染はエアコンの設定温度をいじっている。健康に良くない、とか言いながらいつも使っている温度より、四、五度上げて、満足そうにうなずいていた。お前は私の母親か。
その後、麦茶を運び終わった私に、呆れたように言われた言葉。その意味を考えてみるが、やはりわからない。言葉のイントネーションは少々違うかもしれないが、標準語を話すことができるので大丈夫だろう。ファッションとか、都会ルールのような暗黙の了解は、まだまだ拙いができているはずだ。
暑さに弱い以外は、普通の女子だと思う。だいたい常識がない人間が、二年間も都会という荒波に揉まれ続ける場所に住めるはずがない。友人だって、そこそこできているのだ。家族仲だって、良い方だろう。
夏に生まれたからって、暑そうな名前をつけられたことには少し異議を唱えたくなったことはあるが、家族愛の前では我慢できる。一応気に入ってもいる。何より私は、キラキラネームの苦労を知っている。同僚の友人から、その苦難の道を酒の力で三時間力説されたのだから。
「そう考えると、いっくんの雪吹って名前は涼しそうだけど、じゃっかんキラキラネーム組に入っていそうだね」
「……常識を説いたら、なんで俺の名前がいじられる流れになるんだ。おふくろがそれを聞いたら……、あぁーあんまり気にしないな。うん」
「いっくんのお母さん、むしろキラキラという言葉はかわいいな! って言って喜びそう」
「それ、おふくろに絶対言うなよ。あの人のことだから、山で見つけたものにキラキラネームをつけて回りそうだから」
彼のお母さんは『力』が強いらしいので、言霊と呼ばれるものが宿るらしい。名前を付けるなんて、まさに強い力が働く、のだそうだ。キラキラな名前をつけたくなって、山が魔境になったら大変だろう。私は正直よくわからんが。
私が四歳の時に生まれた彼は、名前の通り豪雪吹きすさぶ冬の日に生まれた男である。と言っても、もし夏に生まれたのだとしても涼しそうな名前になっていたのだろうが。そこのところは、少々羨ましいのかもしれない。
「あー、去年実家に帰って来た時から拍子抜けだったけど、二年も経ったらさすがに変わるかもしれないと思っていた、俺のこの不安とやるせなさと嬉しさはいったい…」
「何よ、はっきり言いなさい」
「……じゃあ、聞く。夏奈はさ、その、俺のこと怖くないわけ?」
――怖くないか、ね。珍しい幼馴染の真剣な表情に、一応私も姿勢を正しておく。思えば、都会に行く私を一番気にしていたのは彼だっただろう。去年の夏に田舎へ帰った私と会った時なんて、かなり挙動不審だったような気がする。記憶が曖昧なのは、出会ってすぐに冷却材にしてしまったので、そこまで考えが回っていなかったのだ。その後は、いつも通りだったし。
怖くないのか、と聞かれても正直に言えば全くと言うしかない。二十代の男と女なのだから、貞操の危機みたいな感じで言われたのなら、確かに危ないかもしれない。しかし、この雪吹という幼馴染は――どうもヘタレなのだ。私を襲うぐらいの気概を見せたら、恐怖よりもまず私は感動を覚えてしまうかもしれない。お赤飯を炊くだろう。私の家族や彼のお母さんも、目に涙を浮かべるはずだ。
何より、こんな(物理的に)冷たいやつをこの私が嫌えるはずがない。だいたい赤ん坊の頃から知っていて、彼の成長を見守ってきた立場なのだ。今更この幼馴染に取り繕っても仕方がないので、私は正直に告白した。
「全然怖くない。むしろ、ホラー映画で泣きべそかきまくった男をどう恐がれと」
「さらっと傷口を抉ってきた。……餓鬼の頃の話だからな」
「あっ、もう大丈夫なんだ。それだったら、今日友達から借りた評判のホラー映画でも…………、私が悪かったから、そんなこの世の終わりみたいな顔は辞めなさい」
女の私が嫉妬してしまいたくなるぐらい、真っ白できめ細やかな肌を、更に青白くさせるとは、本当に男かと問い詰めたくなる。女の敵め。日焼けとも無縁らしいし。その代わり炎天下に居続けると、低温火傷になるそうなので一概に羨んでいいのかはわからない。地味に辛いからね、あれ。
黒髪黒目にラフな服に身を包んだ幼馴染は、傍から見たら私と変わらない人間だ。食事も取れるし、寝ることもできるし、漫画も読むし、おねしょだってした。笑うし、怒るし、悲しんだりもする。贔屓目も入っているかもしれないが、性格もいいやつだ。
だけど、彼は人の輪に入ることができないのだ。
「なんでオカルト的な存在が、オカルトを怖がるのよ」
「う、うっさい。俺たちの場合は、相手の気配とかがだいたい感じ取れるんだよ。性質の悪い霊が出てきたって、適当にあしらえる。だけど、ホラーは気配もなく、突然出てくるじゃねぇか。倒せねぇし、音響だって変に力が入っていやがるし。心臓に悪いし…」
「完全にホラーの術中にはまっとる」
彼らには、彼らなりの恐怖ポイントがあるらしい。だいたいホラー好きの私に、もし怖がって欲しいのなら、そのあたりを克服してきて欲しいものである。思わずくすくすと笑ってしまった私に、気まずそうに目を逸らしながらふて腐れる姿は、二十歳になっても昔と変わらない。
成長して身長も伸び、顔立ちも男らしくかっこよくなっただろう。生意気になったところもある。それでも、いっくんはいっくんだった。私のかわいい幼馴染。そのことに安心しているのは、むしろ私の方かもしれない。私と彼の世界は、本当なら交わることはなかった。彼が私から離れていっても、何もおかしなことはなかったのだから。
昔と変わらず――人とは思えないほど冷たい手を、暑いからと私は握りしめた。私の体温を渡しても、その手が温かくなることは決してなかった。
******
「この子を抱いていただけませんか?」
私が初めていっくんに会ったのは、四歳の頃だった。お母さんと買い物に出かけた帰りに、運悪く吹雪に会ってしまった夜。まるで雪と同化しているかのように佇む黒髪の女性に、私は驚きに目を見開いたと思う。今でも覚えているのだから、なかなか衝撃的な出会いだったのだろう。
この吹雪の中、薄い着物を着た真っ白な肌をした女性と、その女性に抱えられている赤子。田舎の町に、あまり子どもはいない。そのため私は、この時初めて赤ちゃんを見たのだ。赤ちゃんに興味を持ったことや、二人とも寒くないのかな、とまず考えた私は、まだ正常な思考の範囲内だったと思う。
「あらぁー、可愛い子。これは将来、有望なアイドル顔ね。ねぇー、夏奈ちゃん」
「うん!」
母はその上をいっていたが。今思うと、おばあちゃんが話してくれた昔話のシチュエーションそのまんまだった。しかし残念ながらこの場にいたのは、よくわかっていない四歳児と天然だった母のみである。
この地方に伝わる昔話――『雪女』。吹雪の夜に現れ、子を抱いてほしいと言うのだ。その子を抱いてしまうと、だんだん大きくなっていき、最後には抱いた人間を雪の中に埋もれさせてしまう。だけど抱かなかった場合、雪深い谷の底に突き落とされるのだ。まさにデッドオアデッド。選択肢よ、仕事をしろ。
この雪女の対処方法は、短刀を口に咥えながら子を抱くか、重くなる赤子の体重を乗り越えるかという方法しか未だに解明されていないらしい。買い物帰りの母娘が短刀なんて持っている訳もなく、持っていたらそっちの方が危ない人だ。母は昔から大量買いをする人なので、結構力はあるのだが、果たして怪異に勝てるのか。
そんな怪奇現象を目のあたりにしていた私だったが、もう一度言う。この時の私は、四歳児であった。
「お母さん! 私が赤ちゃんをだっこしてみたい!」
「えっ?」
「あら、夏奈ちゃんたら。でもね、赤ちゃんって意外に重いから、夏奈ちゃんだと落としちゃうかもしれないわ。首がぽとって取れちゃうかも」
「――とれッ!?」
「私この前、すいか持てたよ! ……じゅーびょうぐらいしか持てなかったから、落としてちょっとつぶしちゃったけど…」
「――つぶッ!?」
「それに、赤ちゃんの抱き方を夏奈ちゃんは知らないでしょ? この前ベビー人形を買ってあげたけど、二日で腕を千切っちゃったじゃない」
「――ちぎッ!?」
「だいじょうぶ! 今の私なら、なんだかできそうな気がするのぉー!」
人はそれを、勢いという。この時の会話を聞いていた雪女さんが、赤子を守るように抱きしめていた。ちょーだぁーい、と笑う幼子に涙目でぶんぶんと首を横に振り、結局赤子を持たせてはくれなかった。うん、ナイス判断。
「あなたが持って! あなたが持ってください!」
「それがねー、今買い物帰りだから両手が塞がっちゃっているのよ。雪の上に置くと濡らしちゃうから、……そうだわ。ちょっとの間、私の荷物を持って下さらないかしら」
「そ、それなら」
ほっとしたように、雪女さんは赤子を片腕で抱きかかえながら、母から大量買い物用として購入した、買い物バックを受け取った。もう一度私の母について、回想させてもらう。私の母の力は、怪異にもしかしたら勝てるかもしれない、と娘に思わせるだけの人物であったことだ。
「ぐふっ!!」
故に、雪女さんが荷物の重さに耐えきれず、前のめりにずっこけて、雪の中に埋もれてしまったのは必然だったのであろう。雪の中から片手だけあげて、赤子だけは死守したところは、素晴らしき母性。今までやっていたことを考えると、称賛していいのかはわからない。
「私のお洋服ゥーー!!」という母の絶叫が響き渡ったことで、仲のいい近所のおじさんが気づいてくれて、掘り起こした雪女さんと泣きじゃくる赤ちゃんを家に連れ帰ることになってしまった。あの厳格な父が目をひん剥いたのは、後にも先にもこの時だけだろう。
それから、おばあちゃんにこってり母娘揃って怒られた。雪女の伝統を聞いて、つい出来心だったんです…、と初犯だった雪女さんと何故か母は仲良くなった。近所付き合いができた時は、今更ながらどこをツッコめばいいのか本当にわからない。すごいのは母の大らかさか、服を濡らしたお詫びに、(雪女式)菓子折りを持って来るような雪女さんなのか。
実は母親初心者だった彼女に、母がアドバイスをし、それを真剣な表情で聞く雪女さん。その息子が人間に近い思考回路になってしまったのは、仕方がないことだったのだろう。赤ちゃんは男の子だったようで、私のおさがりのベビーベッドでよく寝ていた。抱っこしたい、と言っても雪女さんに涙目で拒否され続ける日々だった気がする。
「えっ、この子には名前がないの?」
「名前……、人間は名前を付けるのだったな」
「うん、私は夏奈って言う名前なんだよー。夏に生まれたから、夏奈なの」
「そうか。私たちに、名をつける慣習はなかった。私は雪女で、この子は雪ん子だ」
私の家はちょっと古いが、雪に強い作りの一戸建ての家だ。四歳児だった私は、彼女の存在をちょっと変わった近所のお姉さんぐらいにしか認識していなかった。おばあちゃんも、私に妖怪だって言ってもわからないと思ったのか、その認識を正そうとはしなかった。
縁側に赤子を抱いて座る雪女さんに、私はよくくっ付いていた。彼女は冷たく、冬が終わった頃には近くにいると、非常に気持ちがよかったのだ。何より、彼女が抱いている間は、赤子を触ることができた。それが楽しみだったことを、なんとなく覚えている。
赤子の手も、彼女と同じでやっぱり冷たかった。最初は驚いてしまったが、次第に慣れていったのだと思う。そして、この子の名前を呼ぼうとして気づいたのだ。この子が名前で呼ばれているところを、聞いたことがなかったことを。
「えー、雪ん子ってなんか名前って感じじゃないよ」
「名前ではないからな」
「うーん、そーじゃなくてー。……あっ、そうだ! だったら、せっかくだからこの子の名前を一緒に付けてあげようよ!」
「この子の名を?」
「うん、絶対によろこんでくれるよ!」
「喜ぶ……、そうか」
妖怪である雪女さんにとって、私の提案は突拍子もないことだっただろう。それでも彼女は、優しげに微笑んでくれた。春の息吹が空に舞う、そんな季節だった。
******
「それじゃあ、お母さんたちは海外旅行に行っちゃったんだ」
「あぁ、おふくろが一度も日本から出たことがないって言っていたから、パスポートを妖怪経由で発行してもらって、ようやく行けることになったらしい」
「雪女さんがついに海外デビュー」
目をきらきらさせながら、飛行機を楽しんでいるであろう雪女さんに、心の中でいってらっしゃいと伝える。残念ながら私は、仕事の都合で抜けられなかったため、不参加になってしまった。両親といっくんのお母さんの三人旅。父よ、帰ってきたら酒ぐらい注ごう。
「いっくんは行かなくてよかったの?」
「ん、あぁ。夏奈のおふくろさんから、海外だと電波が届かないかもしれないから、娘の安否を頼むって言われて――」
「そこは、断ろうよ! そして私はどれだけ、周りからの信頼がないの!」
幼馴染である彼が私の家にいたのは、そういう理由らしい。母からこの家の鍵を預かったため、どうせ安否を確認するなら、と家族旅行の間の一週間は遊びにきたようだ。というのは口実で、都会に遊びに来たかったのだろう。去年の夏は、私の都会生活に少し羨ましそうにしていたから。本屋まで五分の道のりは、やっぱり魅力的だ。
「なんか、悪かったわね。お母さんのわがままに付き合わせちゃったみたいで」
「別に。どうせ行くなら、夏奈も揃って一緒に行った方が楽しいと思っただけ」
私の部屋にある本を手に取り、パラパラと眺めながら何でもない様に彼は言う。こういうことをさらっと言ってしまうあたりが、いっくんである。私は少し照れてしまった頬を隠す様に、本を顔の前に持って行った。
現在の彼の家は、雪女さんの眷属さんたちが守ってくれているらしい。自由気ままな主人たちに、健気な子たちである。他の雪ん子くんたちには、今度帰ったらお土産にお菓子でも買ってきてあげよう。
「……雪男が堂々と都会に出没って、今思うとかなりシュールだよね」
「俺だって、都会がこんなに暑い所だなんて思わなかったよ。小旅行ぐらいならいいが、やっぱりこっちに住むのは辛いかなぁ…」
「何? いっくん、こっちに住むつもりだったの」
「俺だって、もう二十歳だぞ。通信教育だけど、来年度には一応大卒は取れそうだしな」
当たり前のようにいっくんといるが、私は彼ら以外の妖怪と会ったことがない。私が暮らしていた地方は、雪女さんの領域であったため、他の妖怪は入って来られなかったらしい。意外にすごい人だった。だから、妖怪にとっての普通というものが私にはわからない。他の妖怪と多少関わりがあるいっくんも、たぶんあんまりわかっていないのだと思う。
彼はある意味、人間と似た思考を持つ妖怪だ。雪女さんは、生まれた山以外を出たことがない、文字通りの箱入り娘。そのため彼女は、妖怪社会にあまり深い交流関係を持っていないのだ。そんな母を持ち、人間の家庭で育った彼に、妖怪らしさを求める方が酷なのかもしれない。
「まぁ、雪男だって見た目ではばれないだろうから大丈夫か。もさもさしていないし」
「……イエティとは、俺は根本的に違うからな。毛むくじゃらはあれだが、筋肉はついて欲しい」
「無理じゃない、いっくんのお母さん的に」
「くっ……!」
『名前』という言霊をもらった雪ん子は、雪女である彼女の素質を受け継いだ。強い願いを込められてつけられた言霊は、彼を一人の自我を持つ青年へとしっかり成長させたのだ。名前がなければ、男の雪ん子は幼い姿のままだっただろう。考えるだけの、知恵を持たなかっただろう。
雪女さんも、さすがに何度も名づけをするだけの力はない。そのため他の雪ん子たち、いっくんの弟妹たちは、私たちで名前をつけてあげた。本当に無邪気で、私が大人になっても純粋さが変わらない子どもたち。私が妖怪と人間の違いを明確に感じたのは、この時だったのかもしれない。
「……いっくんは、まだ成長ってするの?」
「どうだろう。俺としてはまだまだ身長は伸びてほしいけど、こればっかりはわからない。人間的に、二十歳が一番の肉体のピークなんだろ。そろそろ止まっちまうのかな」
なんでもないように告げるいっくんを見ると、やっぱり人間ではないんだなって感じる。寿命だって、私よりもずっと長い。容姿もほとんど変わらなくなるらしい。それを怖いとは思わない。だけどそれが少し寂しくて、なんだか冷たいなって思う。同時に勝手だな、って自分自身に思った。
彼はデザイン画やIT関係の勉強をしていて、将来は自宅で仕事ができるような職を探すつもりらしい。妖怪であるいっくんは、本来働く必要なんてない。お金なんてなくても、生きていける。どれだけ彼が頑張ったって、人の中で生きていくことは難しいのに。それでも人間と一緒に育った価値観が、働いた方がいいかもしれない、という思いを生んだのだろう。人間とほぼそっくりの容姿も、原因の一つかもしれない。
本当にこのままでいいのだろうか。今更かもしれないのはわかっているが、人間の社会で暮らすことがいっくんにとって、幸せなのかがわからなかった。
「どうした、夏奈?」
「ううん、なんでも。そうだ、今日はもう遅いから、外で何か食べに行かない? 割り勘で」
「……社会人のくせに」
「一週間、水かけごはんでもいいわよ」
「よし、財布はちゃんと持ったから大丈夫だ。自分の分ぐらい、当然払うさ」
きりっ、と真面目な顔を作る幼馴染に、私は呆れたように笑った。ここで、私の分は俺が払うよ、と言えればかっこいいのだが。まだまだ子どもである。金欠なのは知っているので、触れないでおいてあげた。
******
「どうして、赤ちゃんが温かいの?」
「何言っているの、夏奈ちゃん? 赤ちゃんが温かいのは、当然でしょ」
小学校に通うようになった私は、いっくんと遊ぶのはいつも放課後か休日になっていた。彼と遊ぶときは、いつも二人きりの時だけだった。不思議に思ったことはあったが、おばあちゃんからも言われていたので、その約束を守るようにしていた。
夏の日差しが眩しかったあの日。その日は友達の家にお邪魔をしていた私は、茫然と目の前の赤子を見ていたことだろう。新しく弟ができたから、見に来ない? そんな風に誘ってくれた友達に、私は喜んでついて行ったのだ。
雪女さん監視の下だったが、いっくんを抱っこさせてもらった経験がある私は、赤ちゃんの抱っこの仕方を知っていると自信満々だった。みんなもそれを褒めてくれて、有頂天になっていた。かっこよく抱いている姿を見せてあげよう、と張り切って触れた赤ちゃんの手に――私はひどく動揺してしまった。
「だって、赤ちゃんは冷たかったよ。すごく」
「どこが冷たいんだよ。人間が、冷たい訳ないだろ」
「冷たく、ない?」
「あぁー! 夏奈さー、もしかして赤ちゃんを抱っこしたことがあるって嘘だろ。見栄を張っちまったんだろ」
「なっ!?」
一緒に来ていた男子から言われた言葉に、私はカチンと頭にきた。おそらくすごいと言われていた私に、彼は嫉妬していたのだろう。だけど私は、それを真に受けて反論してしまった。嘘なんてついていなかったし、お母さんからも上手だとお墨付きをもらえるぐらいだったのだから。
「嘘じゃない! 私はいっくんをちゃんと抱っこしたもん!」
「だったら、なんで赤ちゃんがあったかいって知らなかったんだよ。常識だろ」
「そんなの常識じゃないよ! だって、いっくんはすごく冷たくて、ひんやりしてて――」
「何それ? お前、死んだ赤ちゃんでも抱いていたの?」
売り言葉に買い言葉になった、子ども同士の口喧嘩。お互いに頭に血がのぼっていたのは確かだ。だけどその男子が言い放った言葉に、私の口は止まった。何を言っているんだ、と理解できなかったのだ。いっくんは、ちゃんと生きているのに。
私が黙ったことに気分を良くしたらしいそいつは、決定的な言葉を私に告げた。
「だいたい本当にそんなに冷たいんだったら、そのいっくんってやつ……気持ち悪ぃ」
それに私は――涙と手が、同時に出た。
「かなちゃん、大丈夫?」
「……いっくん」
家の隅っこで体育座りをして俯いていた私に声をかけたのは、四つ年下の幼馴染。雪女さんの子どもバージョン、と言われても納得できるぐらいそっくりな彼は、傍から見たらかわいい女の子だったと思う。7歳になった彼は母親に似て、どこか現実離れした容姿を持った子どもだった。
心配そうに眉を下げる彼に、私はまた緩みそうになった涙腺を服で拭って誤魔化す。そんな私の頭に、突然冷たいものが置かれた。それに驚いて顔をあげると、いっくんの手だったことに気づく。ぎこちなさそうに私の頭を撫でるその手は、やっぱり冷たかった。
「えっと、かなちゃんのお父さんがね。僕の元気がない時に、頭を撫でてくれるんだ。だから、かなちゃんも撫でたら、元気になるかなーって」
「……私の元気がない理由って、いっくんは知っているの?」
「うーん。おばあちゃんから、友達と喧嘩しちゃったってだけ」
いいかい、夏奈。どんな理由があろうと、手を出してはいけないよ。それが本当に大切な理由だと言うのなら、なおさら暴力で訴えてはならない。そんなものは、守ったって言わないよ。
おばあちゃんから言われた言葉は、もっともだった。男子からのからかいなんて、気にしなければよかった。いっくんの話をしてしまったのは私だったし、意地になっていたのも私だった。
今日の喧嘩の内容を聞いたおばあちゃんから、私は改めていっくんたちのことを聞かされた。わかっていたつもりになっていたことを、認識させられた。彼らと私たちは違うんだって、生きている世界の違いに気づかされた。
いつか、彼らとわかれる日だって来るかもしれない。そう告げたおばあちゃんの言葉は、私の心に深く根付いた。彼の温度のない冷たい手が、そんな現実を教えてくれた。
「……いっくんは」
「うん」
「人間じゃ、ないんだよね」
「……うん」
私の頭を撫でていた手が、一瞬止まる。だけど、また恐る恐る彼は、私の髪を撫でてくれた。……冷たい手なのに、優しかった。
「かなちゃんは、僕のこと怖い?」
「どうして?」
「だって、僕はかなちゃんたちみたいに温かくないし、冷たいよ」
いっくんが他の子どもと遊ばないのは、学校に通わないのは、彼が自分のことをちゃんとわかっていたからだろう。学校や友達の話をする私に、彼はいつも笑顔で聞いてくれた。だけど、彼の口から一度も、行ってみたいや会ってみたいって言葉を聞いたことがなかった。
そういえば、いつからだろう。彼が私に触れる時、どこか強張るようになったのは。触れ合うことに、怖がり始めたのは。お父さんが頭を撫でる時は、もっと力いっぱい髪をくしゃくしゃにしてくるのに。それなのに、それを真似しているはずのいっくんの撫で方は、全然違った。
彼を怖いだなんて、思ったことはない。だけどもし怖いと言ったら、いっくんはもう私に触れて来ないという確信があった。あの時、気持ち悪いと言い放った友達と、同じ扱いになってしまうのだろうか。私の世界から、彼はいなくなってしまうのだろうか。
汗が、頬を伝った。その想像に、私は心から恐怖した。
「怖くなんてないよ」
「かなちゃん?」
「私、すっごく暑がりだもん。だから、温かくなんてなくていいの。いっくんの冷たさってね、すごく気持ちがいいんだから。私は、いっくんの冷たい手が大好きだよ」
目を見開くいっくんを真っ直ぐに見て、私の頭に置かれていた手をしっかりと掴んだ。それに震えた彼を、私は知らないふりをする。手から感じる冷たさに、私の体温だけがどんどん奪われていくのがわかる。寒さに震えそうになったことを気づかれないように、次に私は身体全体でいっくんに抱きついた。
「うわぁッ! かなちゃんっ!?」
「あははは、今びくぅッ、ってなった! いっくんこそ、怖がりだぁー!」
「ち、違うよ! 僕はちょっと驚いちゃっただけで、だから今のはその…」
慌てふためくいっくんに、私は心の中で安堵する。彼の冷たさに、安心感を覚えた。いっくんと、離れたくない。そう根付いたこの思いは、果たしてどういう気持ちだったのだろう。幼さゆえの、独占欲だったのかもしれない。それでも、この素直で不思議で優しい幼馴染と、ずっと一緒にいたかった。
幼馴染として? 弟として? 友人として? それとも――。答えがわからない思いに、私はそっと蓋をする。身体は冷たいけれど、心はぽかぽかと温かい。それだけが、わかっていればいいと思った。
そうだ。きっとこの時から私は、――暑さが苦手になったんだ。
******
「なるほど、私のこの体質は……完全な自業自得か」
「夏奈?」
夏の夜道を歩いていた私は、足を止める。私の手を掴んで移動していた、目の前の人物が不思議そうな顔で見てくる。夜闇でも見える、白く透き通る肌と少し長い黒髪と黒い目。服装も、表情も、声も、いっくんそのものだった。だけど、たった一つだけ違うものがあった。
彼の手を掴んだ時、起こるはずがない違和感が、不快感が私の中で起こったのだ。目の前の彼の手は、人とは思えないほど冷たい。この夏の夜の蒸し暑さ用の冷却材として、これほど最適なものはないだろう。それでも、この寒さに身を任せたいとは微塵も思わなかった。私がよく知る冷たさじゃない。大好きな冷たさじゃないと気づいた。心が、温かくならなかった。
それが、蓋をしていたはずの幼かったあの日の記憶を、思い出させたのだろう。
「手、離してくれない? いっくん、たぶん本屋で私のことを探し回っていると思うから」
「何を言っているんだ? 俺が雪吹だよ」
「私、妖怪とかよくわからないんだけど、ドッペルゲンガー的な人? 狐さんとか狸さんだったりする? 実はいっくんと同じで雪男さん?」
矢継ぎ早に話す私に、男は口を閉じ無言になる。掴まれている手は、未だに冷気を放っている。気がつくと、周りから人気が全く感じられない。震えそうになる身体に力を入れ、視線は逸らさなかった。吸い込まれそうな、飲み込まれそうな深い黒だった。
これでもか、と低温火傷をしないために、日焼け止めクリームなどの日焼け対策をする幼馴染に呆れながら家を出て、もう結構経つ。お互いのことを話しながら晩御飯を食べ、せっかくだからと本屋に向かうことにしたのだ。地元の本屋では新作が遅かったり、売られていない雑誌があるのだが、さすがは都会の本屋さん。あんなに目を輝かせて、都会凄い! と素直に喜ぶ二十歳の男に噴き出した私は悪くない。
所持金に気をつけなさいよ、と必死に財布と相談するいっくんと別れ、私は女性雑誌の方を回っていた。数分後、目についた雑誌をなんとなく読んでいた私の隣に、気配を感じて振り返った先に、彼がいたのだ。
「どうしたの? 手ぶらだけど、本は買わなかったの。お金が足りないんだったら、貸してあげるよ」
「いや、本はまた今度でいいよ。夏奈、もう外に出よう」
「え、まぁいっくんがいいなら」
手に持っていたものを棚に直し、私は出口に向かう青年に当たり前のようについて行った。見失うことはなかったが、初めて都会に来たはずの彼に、先を歩かせるのは迷子のもとだ。どんどん先に進む彼の背中に、歩幅の違いを思い知らされる。無駄に身長が伸びやがって。
「ちょっと、いっくん。帰り道はちゃんとわかっているの」
「あぁ」
「あぁ、って。もうちょっと待ちなさいよ」
そう言って、ようやく追いついた彼の腕を私は掴んだ。血の通っていないような、冷たい腕。温かい人間の腕とは違う、生気の感じられない冷たさを感じた。そんなことはわかっていたはずなのに、私はその冷たさに驚いた。言い知れぬ不安が胸に巻き起こり、私は咄嗟に手を離してしまった。
「あっ……」
私は今、何を考えた。何故、彼の腕を離した。その腕の冷たさに……怖いと思った。そんなことを、いっくんに思うはずがないのに、と混乱していた私の手を掴んだのは、今度は彼の方だった。握られた手の冷たさに、私の心は冷え切るばかりだった。呆然とする私は、どんどん引っ張って行かれた。
ただ――違う、と思った。理由なんてわからない。理屈なんてもっとわからない。彼の手は確かに冷たい。いつもなら冷たいもの好きな私は、喜んでいただろう。だけどこれは、私が大好きな冷たさじゃない。冷たいはずなのに、ドキドキして、身体の奥が温かくなるような……あの優しい冷たさじゃなかった。
私との無言の睨みあいから数秒経ち、目の前の幼馴染によく似た青年は、私の腕を静かに離した。だけど逸らされることのない漆黒の目に、冷や汗が流れる。じっとりとした湿り気に、肌が泡立つ。漂う冷気に、本当の寒さを教えられたようだった。
「……残念」
「えっ?」
「何が残念だ。俺に忠告をしたかったのなら、直接俺に言いに来い。夏奈を巻き込むな」
ぐいっ、と後ろから手を引かれ、私はそのまま倒れ込みそうになった。だけど、すぐに誰かに抱きとめられた。背中から感じる冷たい体温に、強張っていた身体の力が抜けていく。あぁ、これはいっくんだ。それだけで、私は安心してしまった。冷たいものに関しては、私はソムリエ級になれるかもしれない。
「強い力を持った領域持ちが来たら、様子ぐらい見に来る」
「安心しろ。俺は一週間したら、元の領域に帰る。たとえこっちに引っ越したとしても、あんたらの島は荒らさない。興味がないからな」
「……本当に?」
今まで優しげに笑っていた男の表情が、口調が、まるで人形のように感じられた。温度のない、昔話に出てくるような、本物の雪女みたいな凍てつく相貌。同時に、これが妖怪なんだと思った。おばあちゃんが私に言っていた、世界が違うという言葉が甦った。
恐る恐る顔を上げた私の目に映ったのは、見慣れた幼馴染の顔。自分と同じ顔の相手を睨み付ける目は、氷のように冷たい。だけど向こうと違い、感情がある。こんな表情もできたんだ、とぼんやり思ってしまった。だけど、相対する相手は彼を不思議そうに見ていた。
「変だね、君。人間の真似事の何が面白い?」
「……あんたに関係あるのか」
「ないよ。ただ、僕は色々と見えるんだ。生き辛いだろうなぁって」
心底わからない、というような感じだった。私には、この妖怪がいっくんの何を見たのかはわからない。何を思ってそんなことを言ったのかもわからない。だけど、彼が生き辛いだろう、と言った言葉は真実だと思った。
きっと彼らの世界で生きることが、本来の彼の姿。人間と同じように生活し、人間と――私と関わる今が、本来はおかしいのかもしれない。それでも、行ってほしくなかった。気づけば、私はいっくんの服を強く握り締めていた。
そんな私の頭に、そっと冷たいものが置かれる。驚く私と、目が合った。相変わらず、どこかぎこちない撫で方だった。
「……生き辛いっていうのは、否定しない」
「やっぱり?」
「だけど、すごく楽しいよ。漫画は面白いし、週刊雑誌は毎週買っている。猫舌だから熱いものは食べられないけど、みんなで食べる食事はおいしい。勉強は大変だけど、テストでいい点が取れると嬉しい。お金を稼ぐのは面倒だけど、達成感がある。俺を見てくれる、温かい人たちがちゃんといる。これからも、……一緒に遊んだり、笑ったり、悲しませたくない、そんな人だっている。抱きつかれるのは、恥ずかしいからほどほどにしてほしいけど…」
いっくんは、本当に楽しそうに笑った。そして、少し困ったような笑みを浮かべながら――
「俺は、この生き辛い今が好きなんだよ。出来るなら、ずっと続いてほしいぐらいに。幸せなんだから、邪魔すんな。……次に夏奈にちょっかい出したら、本気で怒るからな」
そう、真っ直ぐに胸を張って告げた。
******
「いっくん、よく私のいた場所がわかったね」
「だから言ったじゃん。俺たちは相手の気配ぐらいなら、なんとなくわかるって。妖怪レーダーみたいな感じだな」
「妖怪として、その例えはどうよ」
妖怪漫画を実家に全巻揃える妖怪は、おそらくこの幼馴染ぐらいだろう。時々腹を抱えて、笑っている時があった。何がそんなに面白いのかと昔聞いたら、『ぬりかべ』という妖怪の描写に笑っていたらしい。なんでも、実際に会ったぬりかべさんの容姿は超絶美形だったそうだ。身体はそっくりだったようだが。
「夏奈もよくわかったよな、俺じゃないって」
「なんとなく…。都会の妖怪って初めて会ったけど、あんな感じなんだね。そのまま何もせずに、帰っていっちゃったけど」
「俺も、実はちょっと緊張していた。あれは、人間に普通は接触なんてしてこないタイプの妖怪だから。本当に様子を見に来ただけだったんだろう。悪かったな、巻き込んで。……ついでに、腰を抜けさせて」
「うっさい」
すぐ近くにあった頭に軽くチョップを食らわせると、恨めしそうに見られた。実はかなり緊張をしていたらしい私は、あの妖怪が去った後、腰が抜けてしまったのだ。おかげで現在は、幼馴染の背中に負ぶわれて運ばれている状態だ。家までそんなに離れていなくてよかった。
ひんやりとした身体は、少し火照っていた私にとって、いい冷却材だった。つい気持ちよさとイタズラ心で、ぎゅっと抱きつくと、いっくんは面白いように固まった。そして、白いはずの頬に薄い赤みを作りながら、おどおどしていた。さっきはかっこよかったけど、これぞいっくん。
「いっくんさ、来年大卒を取ったら、都会に本当に住む?」
「えっ、あー、どうするか。今日みたいなことがまたあったら、迷惑をかけるし」
「その時は、また妖怪レーダーで来てくれるんでしょ。私も涼しそうな部屋探しを手伝ってあげるから、その時はいつでも連絡しなさい。都会や物件見学をしたい時は、私の部屋を貸してあげる」
「……ありがたいけど、大丈夫か?」
「いっくんだから、いいよ」
私の答えに、ちょっと戸惑う彼がやっぱり面白かった。
「……私さ、四つも年上だし、いっくんよりもどんどん年をとっちゃう。こんな今は、いっくんにとっては本当に一瞬のことなのかもしれない。確実に置いて行っちゃう。それでも、これからも一緒に遊んだり、笑ったりしてもいいかな。雪女さんと料理を作ったり、雪ん子たちと雪合戦をしたり、いっくんと好きな本の話をしたりさ」
「……もちろん」
「仕事の愚痴とか、聞いてくれる?」
「うん」
「ホラーも一緒に見てくれる?」
「善処します」
「即答かい」
思わず笑ってしまった私に、背中から感じる揺れから、彼も笑っているんだとわかった。ずっと一緒にいたいと思うこの気持ちの答えは、大人になった私にはなんとなくわかる。いつからだったなんて、もうわからない。
家族のように、姉弟のように、友人のように、共に過ごしてきた存在。過ごす時間が少なくなっても、住んでいる場所が変わって会えなくなっても、一番に会いたいと思う人。これからも、隣にいたいと思う人。
今はそれがわかっただけで、私も幸せだった。
「明日もすごく暑いらしいから。よろしくね、いっくん」
「何がよろしくだ。その暑さに弱いところ、治さないといつか倒れるぞ」
「こればっかりは、私にはどうしようもない。暑さは私の天敵なんだよ。だからいっくんの冷たさは、私の希望なんだからね!」
「……そして、冬になったらお払い箱っと」
「その時は、サウナ感覚で風呂あがりとかにお世話になれば……。いっくん、もしかして今想像した?」
「――うっさいッ!」
どうやらからかい過ぎて、拗ねられてしまったらしい。淡い赤みを帯びた耳を見ながら、私は家に着くまでに機嫌を直してもらえるよう、必死に謝罪したのであった。
私の幼馴染は、今日も冷たい。だけど、誰よりも温かい。