ゆびさきに三日月。
さん、に、いち。
学校から帰宅すれば、家の中が静まり返っていた。
帰宅を小声で口にすれば、反響して夕焼け色の壁に溶けていく。
ローファーを脱ぎ捨てて玄関につま先をのせると、床がわずかに軋んだ。
いつもはそんなことを気にしたことはないのに、やたらと音が耳につく。
時計の針が鋭いトゲであたしの不安を突き刺した。
どうせ両親はまだ会社から戻ってきていないのだろう。
あの彼もきっとどこかへ出かけているにちがいない。
常々、あたしは一人暮らしがしてみたいと思っていたのだ。
ちょうどいい機会だと喜ぶべきであって、何も不安になることなんてない。
それに高校生にもなってひとりが心細いなんて痛すぎる。
不安をかき消すように勢いよくリビングに乗り込んで、鞄をソファへと放り投げた。
乱暴な行動が乱暴な音を立てて、くたびれた綿に消えていく。
なぜか無性に腹が立って、こみ上げてくるものに苛立ちが募った。
ただ立ち尽くしているのも馬鹿みたいだと、歩き出した方向はキッチンだった。
誰もいないなら、何かいいものでも食べてやろう。
そんな考えを持って、足を踏み入れた先。
西日の差す、オレンジのキッチン。
伸びる影は、ふたつ。
ひとつはあたしもので間違いはないけれど、あと、ひとつ。
足音を立てないように、中へ進み入れば。
影の正体は、テーブルに突っ伏した彼のものだった。
状態を確認しようとさらに踏み出せば、床が小さく軋んで、臆病な胸を飛び上がらせる。
何も悪いことなんてしていない。もちろんするつもりもない。
なのに、なぜか緊張した。
呼吸を止めてのぞき込んだその顔は目が伏せられていて、彼の特徴であるあの金色の瞳が見えない。
規則的な呼吸音と、それに揺れる色素の薄い髪の毛。
黙っていれば、こんなに絵になるひとなのだ。
ただし、黙っていれば。
さっきまでのあの不安と心細さはどこへ行ってしまったのやら。
起こすわけにもいかず、しかたなしに対面のイスへ静かに腰を下ろすことにした。
頬杖をついて、小さなタメイキをつく。
静か過ぎる夕方はちょっとメランコリックだ。
――そう。
魔が差したのは、黄昏のせいなのだ。
そろそろと指が、正面の眠る彼のもとへ向かう。
細くて、やわらかそうな髪。
さわりたくてたまらなくなったのは、夕方のオレンジのせいだ。
(あと三センチ)
西日はあたしの体をほてらせて、指先をも熱でおかす。
(あと二センチ)
せりあがってくるものはいったいなんなのか。
分からないけれど、この高ぶりを抑えるにはあまりにも静かすぎた。
(あと、一センチ)
夕方に染まる指先が、目標に到達する寸前。
「……いたずらかい?」
伏せられていたはずの顔が、あの金色の目が、あたしに向けられた。
「なっ、」
指をひっこめようとしても、時すでに遅し。
手首は彼に捕らえられていて、そのまま引き寄せられた。
「どこに触りたかったのかな。いつでも触らせてあげるのに」
「ちが、」
言い訳は自分の鼓動にかき消されて。
頭が真っ白から真っ赤に色をかえて。
焦りと戸惑いは、じっとりとあたしを濡らす。
掴まれたままの手首に力は入らなくて、なすがまま。
自由を奪われた指先は、彼の顔に近づいていく。
「このいたずらな指には、おしおきをしなくてはいけないな」
吐息が指をとおって、背筋までをもふるわせた。
あまりのくすぐったさに声が出そうになって、くちびるをかみしめた。
「まったく、きみのかわいらしさに、僕は惑わされてばかりだよ」
音を立てて、指先に落ちた熱。
全身に火がつくのはあっというまだった。
「つぎは、この指先の持ち主におしおきをしないとね」
「っ、うそ、」
指先で細くなっていく三日月の瞳。
火がついた体を引き寄せられて、逃げるすべがない。
メランコリックで黄昏なオレンジの夕方は、遠くに行ってしまったのに。
彼のおしおきは、星が散る藍色の夜まで続けられたのだった。
******** **
「くちびるに三日月」の続編です。
単独でもお楽しみいただけると思います。
それにしても私は眠っているひとがすきなようです。
ひとこといただければ幸いです。
読んでくださって、ありがとうございました!
(追記 2008.11.13)
修正しました。
******** **