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序 数学教師 京香

終業のチャイムが鳴った。まだ授業は終わりではないが、生徒たちは教科書をまとめ始めている。奇麗な黒髪を肩甲骨まで伸ばした身長145センチ程の女性が、黒板に向かって数式を書いている。「nが5以上の自然数のとき、次の不等式・・・」京香はここまでを黒板に書き、チョークを置いてしまう。もうこれ以上すすめても、生徒たちは集中できないだろう、本来ならここでちょうどきりがよくなる、次回からはベクトルに入りたいのだが・・・。

「ええ、じゃあこれは次回までの宿題とします。休み明けにはベクトルに入りますので、しっかり予習をしておいて下さい。」

今日は4月30日、明日からゴールデンウィークに入ってしまう。きっと休み中には学生たちは勉強などしないだろう。これは仕方のないことだ。京香は自身が高校生だった10年前の事を思い出しながら、苦笑をした。

ここ私立田嶋高校は地方にあるごく普通の高校である。県内では中の上といった学力の高校ではあるが、学区内では一番の進学校というあつかいである。この高校の特徴は学力と部活の両方に力を入れている事。力を入れていると言っても特別な支援体制があるわけではなく、実際には「適度な文武両道」といった普通の指針でしかない。ひとつあるとすれば、全員が何かしらの部活に所属しなければならないということぐらいだろう。

10年前、京香はこの学校にいた。そうして適度に勉強をがんばり、同じ県内の国立大学へと進学し、大学院を出て教師になった。その後、幸いにして母校に勤務することになり3年目、ようやく非常勤から常勤へと昇格し、今年はこの二年A組の副担任という地位をえる事ができた。昇格が決まった時の両親の嬉しそうな顔は今でも忘れる事は出来ない。


 「ええ、それでは続けてホームルームを始めますね。まだ黒沢先生はいらっしゃってませんが・・・、まあ、いつもの事ですので始めてしまいましょうか。」

 京香はチョークがつく事も気にせずに、眉間を指で押さえて困った顔をした。

 担任の黒沢はぼさぼさの髪の毛を肩まで伸ばし、白衣の肩にたまったフケをもきにしない、いかにもマッドサイエンティストといった風体の生物の教師である。この37歳のさえない男は陰で生徒たちに嫌悪と侮蔑をこめて「ファウスト」というあだ名でよばれている。本人は其の事を知ってか知らずが、まさに「ファウスト」のように生物準備室に閉じこもる様にしてえたいのしれない研究に没頭している。今もきっと時間をわすれて研究をしているのだろう。

 生徒達は黒沢を嫌っているようだが、京香はこの男を嫌うどころか親しみやすさを感じていた。それはこの男が見た目とは違い話してみると意外にきさくな人間である事と、彼がこの高校の出身者であり、京香の今は亡き兄と友人であったことが関係している。20年前、兄正武まさたけが突然行方不明になった。それまで黒沢はよく正武を訪ねて、京香の家に遊びに来ていた。その頃はまだ、今のように指紋で汚れた眼鏡も欠けておらず、もともとの整った顔と病弱そうな細い体躯から「王子様」というあだ名で呼ばれていた。祖父の道場で古武術をおしえ込まれた引きしまった顔立ちの正武と共に、学校では女性人気が高かった事を耳にした程であった。7歳の頃の記憶にある「王子」と今の「ファウスト」を身比べるとどうしても京香は苦笑をせずにはいられない。


 「みなさんも、そろそろ進路を考えなければならない時期にきました。進路調査票を渡しますので、親御さんの署名をもらって休み明けに提出してくださいね。」

 そういうと、教室中から、めんどくせえ、だの、だりい、だのといった声がもれる。それらの声をきにせずに、京香は手元の調査票を机にポンと軽くたたき紙の束を整えてから、それらを配るために、教壇を降りた。其の時である。教室をつきあげる様な激しい揺れが起こった。

 「キャーーーー。」

 教室の何処からか女性との悲鳴が上がった。それを始めとして生徒達があわて始める。京香もいきなりの地震に思考がかたまり、手に持っていた紙の束を落としてしまう。離された紙が床に落ちて散乱する。今にも泣きそうな顔で叫ぶ女生徒、おろおろする男子生徒らをみながら、しばらくフリーズしていた京香は思考を回復させ、今自分が行わなければならない事を考え実行する。

 「皆さん、机の下に隠れてください。慌てずに!落ち着いて下さい!」

 京香の声に生徒たちはガタガタと机に身を隠し始める。全員が机に隠れたのを見届けると自身も教壇の机へと移動し身を隠す。

 揺れはなかなかおさまれない。かなりの長い間揺れ続けている。いったい何がおきたのだろう。どうなってしまうのだろうか。もし大災害だった場合私はどうすればいいのか、親は大丈夫だろうか、黒沢先生がいない中で生徒たちをきちんと誘導できるのだろうか・・・。

 そんな事を頭のなかで激しく揺れる教室のドアが開いた。そこに黒沢がたているのを見て、京香は責任の重さが自身の肩から降りた安堵感を感じた。よかった・・・、これで何とかなるかもしれない。

 そう考えた時、京香は見てしまった、黒沢が満面の笑みを浮かべているのを。この人はなぜ笑っているのだろうか?そうして笑顔の黒沢が嬉々として叫ぶ声が耳に入った。

「やったぞ!ついに僕はやってのけた!マサ、今迎えにいくぞ!」

 この人は何をいっているのだろうか?京香は彼の言葉が理解できなかった。そうして

間もなく揺れがおさまった。

「なんだよ・・・これ」

男子生徒の声が聞こえる。京香は教壇に据え付けられた机の下からはい出すと生徒たちを見る。生徒たちものそのそと机からはい出してきた。皆どうやら無事のようだ。よかった。

ただ、皆は窓の外を見て茫然としている。いったいどうしたのだろうか?京香も生徒たちの視線の先へと眼を向けた。

 そこには見たこともない風景が広がっていた。そこには校庭があったはずだ。校庭の向こうには生徒たちの住む街並みが広がっていたはずだ。

 しかし、そこに会ったのは視線を覆い尽くす木々だった。それらは見たこともない木である。幹の太さ、生い茂った枝葉。それらは 有に樹齢百年をこえているだろう。いったい何が起きているのであろうか。

 呆然とする生徒と京香を余所に、ファウストが叫び声をあげた。

「ははははは!やったついに成功だ!見たまえ、諸君!ここは異世界だ。私たちは世紀の出来事の目撃者となったのだ!ははは・・・アブっ!?


 感きわまり喜ぶファウストを京香は渾身の力で殴り飛ばしていた。

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