なんでかな
まだ祖父が生きていたころ。
お庭の椅子に並んで座り、のんびりと空を眺めるのが、日菜と祖父のお気に入りの時間だった。
ぽかぽか陽気で気持ちのよい日。祖父はお茶を飲んで、日菜は編み物をしていた。
高梨さんに教わって、今制作中のそれは祖父のマフラーになる予定だった。
「日菜よう。この世界には、美しいものがたくさんあるよな」
祖父は日菜に言った。
「うん。たくさんあります」
お空はきれい。お日さまも、お月さまも、みんなきれいだ。
祖父は笑って、ぽんぽんと日菜の頭を叩いた。
「美しいものはたくさんある。しかしな、日菜。この世界には、恐ろしいものも汚れたものもたくさんあるんだ。それを忘れちゃいかん」
そう言った祖父の顔は、穏やかだったけれど、なんだか悲しそうに見えた。祖父は時折こんな顔をしては、なんだかお説教みたいな話をする。
「悪い人もいるし、怖い人もいる。嫌なことだが、人間というのはそういうものなんだ」
おいで、と腕を広げて、祖父は日菜を膝の上に乗せる。もう十歳になったというのに、いつまでも日菜を子ども扱いだ。
「恭介が式神だと、お祖父ちゃん日菜に言ったろう?」
「うん」
「式神は、この世界のものではない。どこまでも優しくて、純粋な世界の生き物だ。だから、悪い人間は利用したがる」
祖父は、日菜を抱き締めた。
「恭介は、たくさん嫌な思いをしてきた。だからなあ、お祖父ちゃん言ったんだ。お前は、辛い目に遭った分、幸せにならなくちゃあいけないってな」
祖父の声は優しく、力強かった。
「日菜。お前はいい子だ。ひとの痛みをわかってやれる子だ。いつまでも、灯と恭介を守ってやってくれよ」
「守る?」
なんだか変だな、と思った。守るだなんて。誰が襲ってくるわけでもないのに。
でも、力になれるなら喜んでそうしたい。日菜は笑って頷いた。
祖父は満足そうに日菜の頭を撫でた。
「このあかり荘はな、困った者のためのアパートだ。帰る場所をなくした者、訳あって家に帰れない者、そういうやつらのために、お祖父ちゃんが用意した。あったかくて、いいアパートでなきゃならん」
「おじいちゃん、大丈夫ですよ。あかり荘はあったかいし、いいアパートです」
にこにこしながら日菜がそう言うと、祖父は嬉しそうだった。
「アパートを見ると、大家の人柄がわかるだろう。灯はきっと、優しくて愛らしい娘になるだろうなあ」
愉快そうに言って、祖父はお茶を飲み干した。
背後の部屋でゆりかごに揺られている灯が、かわいらしい声をあげた。
「あかり荘はいいアパートですけど、おじいちゃん。誰も住んでくれませんね」
日菜がここに来てから、ひとりだって入居希望者はいなかった。
祖父は豪快に笑って、日菜の髪の毛をくしゃくしゃにかきまぜた。
「はっはっは。あかり荘を必要なやつがいないなら、結構じゃないか。誰も困っちゃいない証さ」
「でもおじいちゃん。わたしは困っていないですけど、あかり荘が必要ですよ」
「そりゃあそうだ。日菜にとっちゃここが家だからな」
祖父は笑うのをやめて、穏やかに空を見上げた。日菜もつられるように空を見る。
「よかったなあ。わしらには家があって、家族がいるんだから」
そのときの祖父の言葉は、やわらかく地面に降る牡丹雪のように、日菜の心に染み渡った。
今も、忘れてはいない。
でも、なんでかな。
家族がいて、日菜はとっても幸せなのに。
おじいちゃんはどうして、この世には嫌なものもたくさんあるなんて話をしたのだろう。