迷い子
商店街は賑わっていた。
この町は海が近い。魚は美味しいし夏には海水浴ができる。本当にいいところだ。
日菜の祖父は顔が広い人だったし、日菜自身も長く暮らしているので、この町の人はみんな知り合いだ。
今日も、商店街では世間話に花が咲く。
「日菜ちゃん、今日はお魚?」
「高梨さん」
馴染みの顔に声をかけられ、日菜は足を止める。
「はい。かれいの煮付けにしようかなって思いまして」
「あら、いいわねー」
高梨さんは日菜の買い物かごをのぞきこむ。お財布の他に、お醤油の瓶とかれいのトレイが入っている。
「もうお買い物はおしまい?」
「いえ、これからスーパーに」
そこで日菜は灯が飴玉を貰ったことを思いだし、
「高梨さん。飴、ありがとうございました」
笑顔でお礼を言う。
高梨さんは人のよい微笑みを浮かべたまま、
「いやねえ日菜ちゃんは。お礼なんていいのよ。灯ちゃん、喜んだ?」
「はい、とっても」
灯は甘いものが好きだ。高梨さんは本当に、あかり荘の住人のことをわかってくれている。
「スーパーに行くんなら、気をつけるのよ」
スーパーは商店街を抜けて少し歩いた先にある。遠いので普段はあまり行かないけれど、キャットフードを買うならスーパーまで行かなければ。
高梨さんは心配そうに、
「日菜ちゃんも年頃なんだから。いくら此処が田舎でも、油断しちゃだめよ。なるべくなら恭ちゃんと一緒に出掛けなさいね」
日菜は頬を膨らませる。
年頃だなんて。日菜はまだまだ子どもだ。年頃、なんて言われると、お腹がふわふわしちゃう。なんだか無性に喉が乾いた。
「恭介さんはあたしじゃなくて灯ちゃんの保護者ですからね」
「何言ってるの。いいわ、それなら三人で出掛けなさいな」
「あたしはひとりで大丈夫ですよ」
三人でお出掛けなんて、滅多にない。ことに灯があかり荘の敷地内から出ることなど、年に一度あるかないかだ。それも、日菜が外に出ないと健康に悪いと愚図って、無理に連れ出すのだ。
恭介は、灯がアパートから離れるのを嫌がる。
直接聞いた訳ではない。出掛けようと日菜が言えば、断ることもない。
けれど灯があかり荘に居ることが、恭介の安心に繋がっているのは間違いない。
日菜はずっとそれを当たり前に見てきた。だから普段は灯を外に出そうなんて思わない。
ただ、灯が外の世界に憧れているのも事実だから。
たまには遊園地にだって行かせてやりたいのだ。
高梨さんと別れ、スーパーにやって来た日菜は、ペットフードコーナーで慎重に品定めをしていた。
せっかくだし高級鳥ささみの缶詰めにしてみようか?
でも高級な味に慣れてしまうのもこわい。
弱っているかもしれないし、液体タイプにしてみようか?
でもお腹がすいているのに液体ではあんまりじゃないか?
ドライフーズでもよいのだろうか?
でも子猫だし、やっぱり離乳食らしくやわらかい缶詰めがいいのでは……。
こんなことをしているうちに子猫はどんどんお腹を空かせていってしまう。日菜は焦ってペットフードコーナーを睨み付け、うんうん悩み続ける。
結局日菜の買い物かごの中には、思い付く限りのキャットフードが詰まることになった。
重くなったかごを両手で持ち上げ、日菜は身体を傾けながらスーパーを出る。
少し遅くなってしまった。子猫だけでなく、灯もお腹を空かせているだろう。恭介もきっと帰っている。もしかしたら山路さんたちを連れてきているかもしれない。
だとしたら今日はちょっとした宴会だ。お酒は余っていたかしら。
急いで帰らないと。
こんなときは抜け道を使おう。建物と建物の間の、雑草に挟まれた細い道。虫が多くて嫌なのだけれど、仕方ない。
スーパーを使うことも珍しいので、この道も久しぶりだ。小さなアブが膝にぶつかった。あわてて払う。草が足をくすぐって、虫なのか草なのか判断できない。
こんな道は早く抜けてしまおう。
日菜は買い物かごをなるべく高く持ち上げて、早足で歩く。
空が暗くなっていく。
おかしい。いくら夕方でも、こんなに早く日が沈むなんて、あり得ない。それに、今日はあんなによい天気だったのに。
不安な気持ちを抑えながら急ぐ。いつしか駆け足になっていた。
空は暗く、不気味に赤い。
雲がくっきりと黒く、手のひらのように世界を握りしめようとしている。
こわい。
雲の手は完全に東の空を覆ってしまった。西の空は
不安そうな赤色。それも、黒く染まりつつある。
日菜は走った。
あの雲から逃げなければ。知らずのうちにそう悟っていた。
けれど、気持ちが焦るほど身体は動かなくなる。
夢の中で、何か恐ろしいものから逃げているときの、あの、水の中を走っているような感じ。もどかしいくらい、足がゆっくりと運ばれる。
もしかしたら、これも夢の中なのかもしれない。
夢だったら、いい。
でも、こんなにも怖い。とにかく、逃げたい。
「……助けて」
かすかな声が漏れる。
「助けて、助けて……」
恭介さん。灯ちゃん。
「誰か……!!」
涙のにじむ目を閉じた、その瞬間。
誰かに買い物かごを奪われ、ついで手をとられた。
「来て。隠れなきゃ」
男の子の声。
驚いて目を開いた日菜が見たのは、同い年くらいの少年の姿だった。ぐんぐん日菜の手を引いて、駆けていく。
不思議なことに、さっきまで思うように動かなかった足が、とても軽くなっていた。
この男の子は誰なのか。そんなことを気にする前に、繋がれた手のあたたかさが、日菜をたいそう慰めてくれた。
いつしか恐怖も薄れ、日菜は少年の走るままに身を任せていた。
空が明るくなっていく。不気味だった赤色はきれいな夕焼け空に変わり、雲はやわらかなピンク色。
それを見た日菜は、安心してへたりこんでしまった。
少年が振り返り、
「大丈夫?」
とのぞきこんでくる。
日菜はぎこちなく笑い、頷いた。
その時初めて、少年の顔をきちんと見た。
誰だろう、見ない顔だ。どことなく雰囲気がおかしい。なんだか身体を光が包んでいるみたい。世界に溶け込んでいないような、不思議な感じがする。
この子は、この世界の子なのだろうか。
そんな言葉がふと頭に浮かび、日菜はあれ、と思う。
ばかばかしいことを考えてしまった。
男の子は滑らかな髪の毛と、透き通った目を持っている。どこからどうみても、日菜と同じような人間だ。
ただ、着ている服はぼろぼろで、よく見れば身体中傷だらけだ。これはどういったことだろう。
「あの、助けてくれてありがとう。あなた、その傷……」
「……お礼なんていらない。僕が悪いんだから」
「え……?」
突然少年の身体が崩れ、日菜にもたれかかった。あわてて受け止めるが、支えきれずにしりもちをついてしまう。
「いたぁい……」
少年の顔を覗けば、すやすやと寝息を立てているところだった。
日菜は一瞬面食らい、それから安心して息をつく。
さてこれからどうしよう。
日菜は買い物かごを探り、携帯電話を手にした。
恭介が使い方を覚えているといいのだけれど。そう思いながら唯一登録してある番号にコールする。




