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都会のすずめ  作者: わた
少女と少年のお話
15/64

日菜のいないアパート

いつも、明るくなる前には目が覚めてしまう。

怪物に追われ、怯えながら夜を明かしてきた日々。目を閉じることが恐ろしくて、夢を夢と認識できるほど深く眠ったことなどない。


屋根も壁も、布団まである今でさえ、熟睡とは程遠い仮眠しかとれなかった。意識を手放しかけては起き、手放しかけては起きを繰り返す。

それでも、家がある安心感は心を随分休めてくれた。


少年は窓を開けた。

藍色の空を、もうすぐ黄金の光が彩るのだろう。こうして安らかな気持ちで空を見たことなんかなかったから、朝日が射し込むまで待ってみようか。


日菜と一緒に見るのもいいかもしれない。彼女の朝は忙しそうだから、美しいものを見れば心に余裕も生まれるだろう。一日の始まりにぴったりだ。


そのとき、弱々しく部屋の扉がノックされた。


「……薄井さん、いらっしゃいますか……?」


か細い灯の声が聞こえる。

何事かと扉を開けると、きっちりと着物を纏った灯がそこに立っていた。


「よかったぁ……あの、薄井さん。日菜さんをご存じありませんか?」


恥ずかしそうに視線を泳がせながら、灯は尋ねる。


少年は嫌な予感がじんわりと心に広がるのを感じた。


「知らないよ。……日菜、いないの?」

「はい。あのぅ……おトイレに一緒に行ってほしくて、呼びに行ったのですけれど、いらっしゃらなくて……」


このアパートには共用トイレがひとつだけ。暗い廊下をひとりで歩くのが怖かったのだろう。

言わなければ聞かないのに、戸惑っている灯は細かく事情を話してくれた。


「わたし、いつもならひとりでおトイレに行けるのですよ、本当です。でも、たまたま怖い夢を見てしまって……恭介に言うと、またわたしを子ども扱いするでしょうから、日菜さんを呼びに行ったのです。でも、いないのです。お部屋は空っぽでした」


そのとき、灯はお化けに日菜がさらわれたとでも思ったのだろう。見れば、今にも泣きそうだった。


「……僕も日菜がどこにいるか知らない」


そう言ったとき、灯は今度こそ泣き出してしまった。もう少し安心させるように言えばよかった、と後悔しながら、少年は灯の肩を叩いて、


「ほら、泣かないで。恭介にも聞いてみよう」

「ヒグッ……はい……」


思えばなぜ灯は真っ先に恭介の部屋へ行かなかったのだろう。彼の方が親しみ深いだろうし、頼りにもなるはずだ。


灯を促しながら、少年も不安を膨らませていく。

もし恭介も日菜の居場所を知らなかったら?彼女は一体どこに消えたのだろう。


ドアをノックすると、恭介はすぐに出てきた。灯同様、朝一番だというのに隙のない正装で。


「おはようございます。どうなさいました?」

「……うぇえーん」


恭介の顔を見た途端、灯が抱きつく。ぎゅっと足を抱えられた恭介は、あわてて壁に手をつき、よろめく体を支えた。

恭介までいなくなっていたらどうしよう、と思っていたのだろう。灯はしばらくは抱きついたまま離れそうになかった。


「お嬢……?薄井さん、一体どうなさったんですか」


少年は、日菜がいない、と呟くように伝えた。はっきり言葉にするのが、怖かったのだ。


「日菜さんが……?」


恭介は訝しげな顔をした。それから泣きじゃくる灯を安心させるように微笑み、


「とにかく落ち着きましょう。ココアなど、どうですか?」


灯は恭介の足に顔をうずめたまま、こくこくと頷く。ココアの魅力には不安な心も安らぐようだ。


三人は日菜の部屋のキッチンに移動した。部屋の主が居ないというのにおかしな話だが、冷蔵庫がここにしかないので仕方がない。


恭介はエプロンを着けると、牛乳とココアパウダーを鍋に入れてコンロにかけた。泡立て器でガシャガシャかき混ぜ、三人分のココアを用意する。


各々マグカップを目の前に置き、テーブルに着く。ただ灯は自力で椅子に乗れなかったため、恭介が抱えあげてやっていた。

うさぎさんのマグカップを両手に取って、灯はココアを一口飲む。


「……美味しいです」


青ざめていた頬がいつもの通り、薔薇色に染まる。それを見た恭介は、にっこり笑った。


「それはよかった」


少年はココアに口をつける気は起きなかった。日菜がどこに行ったのか気が気でなく、吐き気さえ催していたのだ。

そんな少年を落ち着かせるように、恭介はゆったりとした口調で切り出す。


「日菜さんがどこへ消えたのか、俺は知りません。お嬢も、薄井さんも、知らないんですね?」


灯と少年は、同時に頷く。恭介は焦る様子もなかった。


「もしかして、という俺の推測ですが。日菜さんは、別の世界に行っているのかもしれません」

「別の世界……?」


灯がまた泣きそうになる。恭介はそんな灯の頭を優しく撫で、


「別に黄泉の国と言っているわけではありませんよ。ただ、こちら側にいる俺たちには見えない世界というだけです」


その言葉の意味を、灯はよく理解していないようだった。それでも日菜が死んでいるわけではないとわかったらしく、さっきまでよりよほど安心した表情になる。


少年は、嫌な予感に囚われていた。


まさか日菜は、怪物に捕まってしまったのでは?


「世界と世界の隔たりは、かなり曖昧ですから」


恭介は穏やかにココアに口をつける。


「俺は、もしかすると、日菜さんは薄井さんのために、旅に出たのではないかと思いますね」

「え……?」


驚いて立ち上がりかける少年に、恭介は微笑んでみせる。


「あなたのいた世界に、日菜さんはいるのではないでしょうか」


その言葉を耳にした瞬間、少年の頭に衝撃が走った。

見覚えのない風景が、次々と浮かび上がる。見たこともないのに、どことなく懐かしい景色の数々。そして、そのひとつ、世界を見渡せる草原に、日菜の姿があった。


「…………!!」


少年の額から、ぶわりと汗が吹き出す。玉のような汗をびっしりと浮かべた少年を見て、灯が目を丸くした。


「日菜は……日菜は、あそこにいる」


うわ言のように呟く。


見覚えのない風景。あの世界が自分のもといた世界なら、失われた記憶もそこにある。


怪物に追われる理由も、見つかるはずなのだ。


「……僕も行かなければ。あちらの世界へ」


日菜はあちらにいてはいけない。日菜は、このアパートの住人じゃないか。


灯が、ぎゅっと恭介のスーツの袖を掴む。


「……薄井さんも、行ってしまわれるのですか」

「行かなきゃ。僕が、日菜をこのアパートに返すから」


不安そうな灯に笑いかける。


「気づいたんだ。僕は、元々違う世界の人間なんだって」


日菜は冗談まじりに、少年のことを王子様なのではないかと言っていた。それはたぶん検討外れだけれど。


「僕がこっちにいたら、怪物もこっちに居座る。元々違う世界にいたんだから、帰さないと」

「……怪物とは、とても危険な存在なのでしょう。薄井さん、あなたの身一つで、大丈夫なのですか?」


恭介は、真剣な顔をしていた。このアパートにいれば、自分が守ってやれる、ということだろう。

けれど、少年の思いは揺るぎなかった。


「きっと、大丈夫。どうせこのままじゃいけないんだ。僕は帰らなきゃ」

「……俺も正直、状況をもて余していました。あなたがそう言うなら、止めません」


恭介は依然袖を掴んだままの灯に目を移し、


「お嬢。大家はあなたです……住人の決断を、許して差し上げますか?」


灯は唇をきつく結ぶ。それからくしゃっと泣きそうに顔を歪め、ゆっくりと口を開いた。


「……わたし、わたしは、日菜さんに会いたいです。でも、薄井さんが行ってしまうのもいやです。……薄井さん」


灯はまっすぐに少年を見つめ、


「約束してください。違う世界に行っても、お別れではないと。また会えると……」


そろそろと、小さな小指が差し出される。

少年は、しっかりと小指と小指をからませ、きつく指切りをした。


「約束するよ。日菜をこのアパートに返すし、僕もまた灯に会える」


灯は、嬉しそうに笑った。ぽわりと火が灯るような、明るい笑顔だった。


次の瞬間には、少年の姿は灯と恭介の前から消えていた。


空中に取り残された小指をゆっくり下ろし、灯は俯く。それから耐えきれなくなったように、恭介に抱きついた。


「恭介は……」


腰に抱きつきながら、灯は恭介の顔を見あげる。


「恭介は、わたしのそばを離れませんよね……?」


恭介は微笑み、灯の髪を撫で付ける。


「俺はいつでもお嬢のそばにいますよ」


その言葉の節々に込められたあたたかさに、灯は安心したように笑って、恭介のスーツに顔をうずめた。

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