おはなし
日菜と薄井さんは、テーブルに向かい合って座っていた。
傍らではねこ子さんがふわりとあくびをする。
灯と恭介は連れ立って銭湯に行っている。銭湯は数少ない灯の外出機会であり、商店街の人びととの大切な社交の場だ。
「薄井さん、お団子まだ残ってますけど、食べちゃいましょうか。灯ちゃんと恭介さんには内緒で」
日菜はにこやかにパックを取り出す。
「お茶、飲みますか?」
返事を待たずに立ち上がり、やかんを火にかける。お茶っ葉を急須に移したところで、薄井さんは堪えきれなくなったように、
「……日菜、やめて」
まるで懇願するような、震えた声。
その声に驚いて、日菜はぴたりと動きを止めた。
薄井さんは、ほとんど泣きそうな顔をしていた。透き通るような色素の薄い肌が、今は少し紅潮している。
「お願いだから、僕を追い出して欲しい」
日菜は落ち着いてテーブルに戻り、まっすぐ薄井さんを見つめた。
「あたしはあなたを追い出したくありません。それに、あかり荘の大家は灯ちゃんです。灯ちゃんだって、困った人を追い出すようなことはしません」
「……僕だって、このアパートに居たい」
薄井さんは目を伏せ、声を低めた。
「だけど、今日、怪物が来て、これまでよりずっと恐ろしく見えた。僕だけじゃなく、君たちを巻き込んでしまうのが、恐ろしかったんだ」
日菜は微笑んだ。
あぁ、このひとは優しいんだなあ、と思う。凄く怪物に怯えていながら、こうやって他人を思いやってくれる。
「大丈夫。あかり荘に居れば、大丈夫だったじゃないですか」
薄井さんは怪訝な顔をする。
あの時、怪物を消し去ってしまった恭介が、「あかり荘から出るな」といったことを思い返しているのだろう。
「……恭介は、怪物を倒した」
ぽつり、と漏らす。
「僕は、怪物の目から逃れるように、逃げることしかできない。だけど、恭介は怪物を消した」
薄い瞳。だけど強い光を持った瞳。その瞳をきらりと輝かせて、薄井さんは日菜をまっすぐ見る。
「なぜ?どうしてそんなことが出来るんだ。恭介は何者?日菜は知っているの?」
困ったような、泣きそうな顔になって、薄井さんは首をかしげる。
しばらく、ふたりは黙っていた。
やかんがカタカタと揺れ、せわしなく湯気を吹き出す。耳を貫き通すようなあの鳴き声の予兆だ。
日菜はコンロの火を止めた。お茶を淹れようかと少し考えて、結局は椅子に座り直す。
「……恭介さんは、式神なのだと、あたしのおじいちゃんが言っていました」
日菜は小さな声で言う。
恭介が、式神だということ。日菜はそれを、ぼんやりとしか理解していなかった。
ただ何となく、同じ人間ではないのかな、と思っただけ。
日菜にとって、恭介が何者なのかなんてどうでもよかった。ただ、彼は灯と同じ、家族であればそれでよかったのだ。
恭介のことを知りたいとも思わない。灯のことも。彼らの正装の理由を、日菜はただ自分に対するいたずら程度に思っていた。すなわち、彼らは日菜の洗濯を面倒にしたいのだと。
「式神……」
薄井さんが口に出す。
「あたしはそれしか知りません」
本当に、日菜は何も知らなかった。知ろうともしていなかった。
ただ、ふと頭によぎる。
恭介は灯をアパートの外に出すのを嫌がる。それは、アパートの、あかり荘の敷地内なら、力を使えるからなのではないか。
だから、薄井さんにもあかり荘の敷地から出るなと言ったのだ。
あかり荘の中なら、自分が守ってやれる。そういう思いで、彼は灯を閉じ込めてきたのだ。
それとも、灯が閉じ込められているから、の方が先だろうか。
日菜は首をふった。
「あたしはどうでもいい。恭介さんが何者でも、変わりません。薄井さんだって、何者だろうとあたしにはどうでもいいことです」
「……僕にはどうでもよくない」
薄井さんは悲痛な顔をしていた。日菜ははっとする。
薄井さん自身が一番、自分のことを恐れているのだ。どうでもいいだなんて、失礼なことを言ってしまった。
「……ごめんなさい」
彼は知りたいのだ。自分が何故怪物に追われるのか。漠然とした恐怖だけを残して、彼の記憶は姿を消してしまったから。
日菜は微笑んで、なんてことはないという口調で言った。
「薄井さんはもしかしたら、違う世界の住人なのかもしれません」
「違う世界……?」
「きっとそうですよ!! あ、もしかして王子様だったのかも!! だから、家来の皆さんが怪物に化けて捕まえに来るんです」
これはなかなか有力な説ではないだろうか、とほくほく顔の日菜を、薄井さんはじっと見つめてきた。
まっすぐ、真剣な顔でこちらを見る薄井さんに、日菜は頬を赤らめる。
「……あの、薄井さん?」
薄井さんは目をそらさず、ただ少し微笑んだ。
「日菜って変な子。君といると、あんなに怖かった怪物も、何だか滑稽に思える」
薄井さんはテーブルに手を置いて、身を乗り出す。ギシ、とテーブルの足がきしむ。徐々に近づいてくる薄井さんの顔に、日菜は動くことができなかった。
透き通るような瞳に、吸い込まれそうになる。
するり、と頬に指がすべる。
日菜はますます頬が熱くなるのを感じ、恨めしく薄井さんを見た。
臆病で意地悪なくせに、どうしてこんなことができるのだろう。
なんだか悔しくて、日菜はお返しに薄井さんの頬に手を伸ばし、ぐいっと引っ張ってやった。
「いひゃっ!?」
突然の反撃に、薄井さんは飛び退く。
「いったいなあ。爪立てないでよ」
「わっ、それは、ごめんなさい」
日菜は激しい動悸を抑えながら謝る。
男の子と、あんなに顔を近づけたのは初めてだ。大体日菜は男の子自体にあまり耐性がない。
「……薄井さん、記憶がなくなる前に恋人でもいたんじゃないですか?」
真っ赤な顔で皮肉っぽく言ってやれば、薄井さんは声をあげて笑った。
「まさか、いないよ」
「わかんないじゃないですか。案外モテモテだったかもしれませんよ」
「そうかな。だとしたら僕はかなり恋人に悪いことをしてるね」
薄井さんがようやく楽しげになったので、日菜も機嫌を直す。
「ねえ薄井さん。記憶を戻すために、あたしも何かしたいです」
「何かって……何を?」
「う、それはわかりませんけど……」
言葉に詰まる日菜に、薄井さんは優しく微笑んだ。
こういう風にいきなり優しい態度をとられると、どぎまぎしてしまう。
「ありがとう。でも、本当に。僕は君を巻き込みたくないんだよ」
「ならばあたしは巻き込まれたいです」
薄井さんはたちまち不機嫌そうに眉をひそめる。
「危ないよ」
「薄井さんひとりでも危ないです」
「……怪物を見ただろ」
「薄井さんの方が怯えている気がします」
変わらない笑顔で平然と言い返す日菜に、薄井さんは目をつり上げた。それでも返す言葉はないらしく、ただ深いため息をつく。
日菜はもう、記憶を戻すための作戦に思考を移動させていた。
「記憶が戻るためには、きっかけが必要ですよね。何か、思い出深い物とか、印象深い言葉とか、わかればいいんですけど」
「……いいよ、無理しなくて。ただ、本当に……気をつけてほしい」
心配そうな薄井さんに、日菜はにっこり笑ってみせる。
「大丈夫です。何が起きても、あたしは不幸だなんて思いませんから」