悪くない
不思議、だった。
窓辺に腰掛け庭に足を出し。
雨の降り注ぐ庭を見つめながら、少年はみたらし団子をかじっていた。
隣には、おやつの途中で眠くなり、猫を抱えたまま寝入ってしまったアパートの主。猫は身動きが取れないが、文句もないらしくじっとその腕に包まれている。
そっと小さな体に座布団を掛けてやる。
このアパートの住人は、不思議だ。
この小さな大家も、スーツの青年も、洗濯物をあわてて部屋干しに切り替えに行った少女も。
大家という身分の灯はどう見たって十歳に遠く及ばない。何故こんなに幼い少女が大家を務めているのだろう。その上恭介と合わせて、いつでも正装を崩さない。このふたりが不可解なのは、誰の目から見ても明らかだ。
日菜は……。
少年の瞳が揺らぐ。
はっきり言って、日菜が一番不思議だ。
自分のような得体の知れない者を家に引き入れたりして。その上薄井さん、なんて、呼びにくくておかしな名前をつけたりして。
怪物に怯える自分に向けた、あの笑顔が忘れられない。
本当に、このアパートに居れば、大丈夫な気がした。ここに、居さえすれば。
……彼女がそばに居てさえくれれば。
ばかみたいだ、と口が動く。
会ったばかりの少女に頼ってしまうほど、弱っていたのか。巻き込まないように、すぐにもここから離れなければならない。
……なのに。
このアパートは、本当に安心できて、居心地が良いのだ。
手離したくない。失いたくない。ずっとここに居たい。心からそう願ってしまうほど。
でも、だめだ。
すぐに怪物はやって来る。明日にでも。いや、今日中にでも。
もしかしたら、今、まさに。
目の前に降り注いでいた雨が、水溜まりをつくる。次々と雨が取り込まれ、徐々に水溜まりではなく塊を形成していく。
それはやがて大きな人の形になった。
雨を取り込んで、人形はどんどん巨大になっていく。
目も、鼻も、口もない。それらがすべて水の凹凸で形作られている、異様な姿。
怪物だ。
恐怖が少年の心を支配する。
すぐそばで眠る灯を思うと、逃げ出すこともできない。
雨はすべて怪物に降り注ぎ、どんどん巨大にしていく。やがて人の形にもとどまらなくなり、怪物はひとつの巨大な口になって、少年に噛みつこうとした。
「薄井さん!!」
日菜の声が飛んでくる。
彼女は少年に駆け寄ると、頭を抱きかかえてきた。襲いかかる怪物を目前にしても、そのあたたかさに恐怖から解放され、少年の目から陰が晴れる。
日菜を押し退けて、庭へ飛び出す。
怪物の狙いは自分だ。このアパートの住人を巻き込むわけにはいかない。
「薄井さん、待ってください!!」
少年は駆け出した。
怪物は不気味に歯を鳴らしながら追いかけてくる。
「薄井さん、あかり荘の敷地から出ないでください」
鋭く、けれど涼しい声が放たれた。
驚いて見れば、折り畳み傘をさした恭介が、門のところに立っていた。
恭介は腕を伸ばし、怪物に手をかざす。
途端に、怪物は水の塊に戻り、大きく弾けて少年の頭上から地面に降り注いだ。
「…………」
ずぶ濡れになって言葉を失う少年に、日菜が駆け寄ってくる。
「薄井さん、あかり荘に居てください」
雨が日菜の頬を濡らす。
少年は悲しくて、彼女の顔をまっすぐ見ることができなかった。
「……怪物は、日常を恐怖に変える。僕は、君を、君たちを、怖い目に逢わせたくないんだ」
少年は泣いていた。雨に濡れた頬を更に涙が濡らしていく。
日菜も、泣いていた。
「例え怖い目に逢っても、あたしはそれを悪いことだと思ったりしません。薄井さんがいなくなってしまうことの方が、もうとっくに、辛いんですよ」
雨の中、向かい合って泣きじゃくる。
涙を止めることができない。ふたりは、声をあげてわんわん泣いた。
ねこ子さんが身動きし、灯が目を覚ました。
寝ぼけまなこで、庭で大泣きするふたりを見て、
「日菜さんも薄井さんも、転んでしまったのですか?わたしが痛いの痛いのとんでけをしてあげます」
可愛らしく微笑んで、灯はおいでおいでと手招きをする。
恭介がくすりと笑い、ふたりに傘を差し出した。
「風邪をひいてしまいますよ。部屋に入りましょう?」
思いやりに満ちたその目を見て、少年はなおも泣き止むことができなくなってしまった。