鏡合わせの心臓
「以上、この方針で行きます。委員長は各委員会に通達お願いします」
耳に気持ちいい余韻を残す声。
強い日射しに白く染められた生徒会室で会長が告げた。今は、生徒会と委員長の定例会議中だ。
「他に何か議題のある人は?」
会長の、黒曜石のような瞳がさっと見渡す。陽光を吸った瞳は透けるような白肌に映え、ぞっとさせる艶やかさを放っていた。そして私は、もうずっと会長――三木茜先輩から目を離せないでいた。
「……ないようですね。では本日は解散とします。お疲れ様でした」
委員長たちがぱらぱらと退室していく。ドアが開くたびに夏の熱気が侵入してきた。それに合わせて、運動部の掛け声とセミの鳴き声がボリュームを上げたり下げたりする。私は片付けをする生徒会メンバーの邪魔にならないよう隅っこの机で、議事録をまとめていた。
「矢野さん。私が見てあげるから丁寧な仕事をしなさい」
「ひゃぁ!」
すぐ横からの声に私は飛び上がっていた。比喩じゃなくてリアルに飛び上がったので、膝を思いっきり机にぶつけてしまう。
「ふぐぐぐ」
「……大丈夫?」
「平気です。へいき、あははは」
恥ずかしすぎる。冷房の効いた生徒会をサーモグラフすれば私の顔だけ赤く浮かび上がるに違いない。でも、会長の驚いた顔はレアなのである意味ラッキーだ。
「仕事、ちゃんとしてますよ」
「でもここ。変更が、恋更になってるわ」
「あっ」
「それとここ。百回記念が、百合記念になってる」
「ああああ」
顔面温度、さらに上昇。もう爆発しそうです。
「やっぱり私が見てるから」
会長がすっと身を寄せるくる。甘い、上品なミルクティーのような香りが私の脳を優しく侵す。会長が長く真っ直ぐな髪をかき上げ、あらわになった形の良い耳、細い首筋、柔らかなあごのライン――完璧。私は完璧な横顔に呼吸を奪われたまま見入っていた。
伸ばされたたおやかな指が私の手に触れた途端、電流に打たれたように我に返る。
「いいですって! これくらい一人で出来ますから!」
引っ込めた手で、少し乱暴に会長を押しのける。
「……そう。ならいいのだけれど。終わったら声をかけて」
完璧な横顔が一瞬、くもったのは気のせいに違いない。三木茜先輩は、すぐにいつもの「会長」の表情になって顔を上げる。
「みんなもごくろうさま。戸締まりは私がしておくからもうあがってちょうだい」
片付けを終えた生徒会のメンバーがドアに向かう。私以外のメンバーは全員先輩だ。私は立ち上がって、礼と挨拶をした。
みんなが出ていくと、途端、生徒会室は静まり返った。冷房の低いうなりと、会長のノートをめくるような音、それと私の書き物の音だけ。
暑い外と涼しい中、騒がしい外と静かな中、この部屋だけ世界から切り離されたようだ。そこで会長と二人きり。二人きり。二人きり。
あ、間違えた。
イラッときた。そうじゃないだろ自分。これくらい一人で出来なくてどうする。わざと書き間違えて二人きりの時間を引き延ばそうとしてるのか。なんて卑劣なんだ。愚かなんだ。
緊張と苛立ちで何度もしくじりながら仕事を進める。こんなんじゃ駄目だ。いつまでたっても会長に追いつけない。並べない。
ちらと視線を上げる。会長はノートを読んでいた。会長は三年生で受験生、私は一年生。今は七月。会長の卒業までまだ時間はある。それまでに私は、会長に認めてもらえる人間になる。
「終わりました」
会長に議事録を手渡す。会長は目を細め、長い睫毛が白い肌に影を作った。
「うん、いいわ。最近がんばってくれてるわね」
私は首を振る。
「まだまだダメダメです。今日だってミスばっかりで」
「そう思うのは強い向上心があるからよ」
会長は優しい言葉をかけてくれる。でも、フォローさせるような弱音をはいたのは私だ。嫌になる。
「ねえ矢野さん、あなたよく私を見ているようだけど……なにか言いたいことがあるのかしら?」
「えっ」
完全な不意打ち。……気づかれてた。気づかれてた! さぁっと血の気が引いていく。
言いたいことはいっぱいある。たった一言で済むこの想いにために、言葉が胸に溢れそうなほどある。そしてきっと、言葉では伝え切れないものもたくさんある。でも今はその時じゃない。
「なんにも、ありませんよ」
「本当に?」
会長が首をかしげて覗き込んでくる。その目はなにか切羽詰まったものを感じさせて怖かった。
「んっと……会長の肌、全然焼けてないし日焼け止めなに使ってるのかなー、なんて。あははは」
「そんなこと? それなら今度持ってくるわ。使い方も教えてあげる」
「いや! そんなつもりじゃないんで! じゃ私はこれで」
「ねえ本当は別の話が――」
「失礼しまーす!」
逃げるように生徒会室を出る。あのままいれば会長の声と視線に絡め取られて、なにを言ってしまうかわからなかった。会長は優しいから、きっと私がバカなことを言っても微笑んで許して……そして、これからもいいお友達でいてね、と言われるのだ。絶対に嫌だ。私が会長にふさわしい女だって証明しなくちゃいけない。
朝のホームルーム前、にぎやかな教室の中、私は一人机にかじりついていた。
「ぐぬぬぬ」
「うわーなんか変な生き物が」
「変な生き物言うな!」
私は隣の席の麻美に叫ぶ。麻美は机にカバンをかけながら、ふふんと笑う。
「いやだって、顔真っ赤にして涙目で参考書睨んでる奴は変な生き物以外の何者でもないよ」
「違うね……私は! 期末テストで学年一位を取る女だ!」
麻美は黙ってカバンからペンケースを取り出し、あまつさえシャーペンの芯の残りを数え始めた。
「ちょちょちょ、なにその反応!」
「反応しないという反応」
「なんかあるでしょー! がんばって♪ とか応援してる♪ とか」
「がんばっても応援しても無理でしょ」
「やってみなきゃわからないじゃん」
「私がいる限り無理」
「ぐっ」
しれっと言うこの麻美は、前回の中間テストでぶっちぎりの一位だった。ついでに背も高いに胸も大きいし、なんなんだコイツという感じである。
「て、手を抜いて……ごめん嘘。本気で軽蔑した目はヤメテ」
生ぬるくゴミを見る視線から顔をそらす。
「はぁ~~。でも私、やらなくちゃ」
「なんでまた急にやる気になったわけ?」
「急にじゃないし。前からちゃんとやってるし」
「それは認めるけど、昨日とは明らかにギアの入り方が違う」
「……会長は私が見てることに気づいてた。昨日はごまかして逃げたけど、次も上手くいくかわからない。早く自信が欲しい」
「なーるほど」
麻美には私の想いを話してある。やたら頭はいいしなんだか黒い奴だが、やっぱり信頼できる大事な友だちには違いない。
「それならもっとはっきり言ってあげよう。矢野っちに必要なのは自信じゃない、勇気がないだけでしょ」
「勇気……」
「期末で一位を取れたとしよう。会長には少し近づけるかもしれない。でもそれで――」
ここで始業のチャイムが鳴った。
「ちょ、続きは!?」
「ん~? あとは自分で考えな」
「なにそれぇ」
「ほら、勉強勉強」
先生が教室に入ってくる。私は麻美をジト目で睨んでから、授業の準備をする。まずは勉強、集中だ。
それからの私はがんばった。超がんばった。
「矢野っち、カラオケ行かな~い」
「ごめんパスで」
「また勉強?」
「う~ん、自分磨き、みたいな?」
「あはっカッコイイじゃん。がんばってね」
「ごめんね。また誘って」
「去年の文化祭のデータは――」
「先輩、こちらに」
「備品のチェックリストはどこに入れたっけ?」
「あっちのファイルに。それと、陸部連長が夏休み中の校庭の利用スケジュールの確認をしたいと言ってましたよ」
「しまった、そうだった! ありがとう矢野さん」
「いえいえ」
「順調かね、矢野くん」
「うっさい。麻美は敵、ライバル、親の仇」
「なにもそこまで。敵に塩を送るのも王者の務めなのだよ」
「うわー余計ムカつく」
「マジな話、体調管理も仕事の内だよ。昨日何時に寝た?」
「平気だってば」
「クマができてる」
「うそ!?」
慌ててミラーで確認。目の下にどよんとした染み。自分の顔にやや引いてしまった。
「そんな顔じゃ、憧れの会長も逃げ出すんじゃないかなあ」
「……いい。ファンデで隠す」
「問題解決になってない」
「そんなのいい。私の一番の問題は、問題は――」
なんだっけ? 頭が回らなくなってきていた。
「もう帰るね。教えてくれてありがと」
私はメイクの時間分、早く起きるようにした。栄養ドリンクだって、なんかオッサン臭いし高いし味は変だけど、我慢して飲んだ。ミラーで確認、私はとても元気そうに見えた。
授業を終え生徒会室に向かう途中、会長に出くわしてしまった。すっと背筋の伸びた会長は、日舞の演者みたいに優雅に歩く。
「あら矢野さん。これから生徒会? 一緒に行きましょう」
「えっ……はい」
会長は微笑みかけてくれるけど、私は曖昧な返事になってしまう。
私はあの日から、会長を避けるようになっていた。本当は少しでも同じ時間を過ごしたい。でもそれと同じくらい怖れていた。自分を、自分の中の抑え切れない心を。会長を、私の知らない会長を。
「すいません。忘れ物したんで、先に行っててください」
言い捨てるようにしてきびすを返す。
「待って!」
ぱしっと腕を掴まれる。会長の手。こんなにはっきり接触したのは初めてだ。ひんやりしてて、しっとり柔らかい感触。かっと顔が熱くなる。
「最近、元気がないんじゃない?」
「そんなはずないですよ。今日も私は、元気ハツラツ~、なんちゃって」
腕を引っ張られ振り向いてしまう。
「顔が赤いわ」
「やっ、これは違うくて」
腕を振りほどいて顔を隠す。会長に見つめられてますます顔が赤くなる。
「本当になんでもないですから! 仕事もちゃんとしますから。失礼します!」
その後も、なにか言いたげな会長をやり過ごしテキパキと仕事をこなした。これでいい。こうしなくちゃいけない。自分でもなにをしてるのかわからなくなっていたが、私はもう止まれなかった。
うちの学校は、月曜から金曜にかけてテストし週末を挟んで、次の月曜の朝には成績が貼り出される仕組みだ。テストは最高の出来だったと思う。今までの人生で一番いい結果が出る確信があった。週末は生徒会の仕事で過ごした。夏休みが明ければすぐに、文化祭に体育祭と大きなイベントが続く。生徒会は今からその仕込みをしなければいけなかった。
そして月曜日。
私はいつもよりずっと早く学校に着いていた。今学校にいる生徒は、朝練中の運動部員と私ぐらいだろう。と、もう一人、見知った影がいた。昇降口の柱に背をもたせた彼女は、軽く手をあげた。
「よ。お早いですな」
「おはよう。麻美こそ早いじゃない」
「待ってたんだよ」
「私を? なんで?」
「敬意、かな。最近のあんたは鬼気迫るものがあったからね。この佐々木麻美様が認めた敵として、共に結果を見届けようと思ったわけ」
「そっか……」
麻美には認められたんだ。自然と頬が緩む。いけない、そうじゃなかった。首を振って不敵な表情を作り、ビシッと麻美に指を突きつける。
「親友と書いてライバルと読む、ってやつだ」
「少年漫画のノリはついてけないわー」
「言い出したのそっちじゃん! せっかく空気読んだのに」
言い合いながら歩を進める。掲示板に近づくにつれ、言葉数は減っていき着いた時には無言になっていた。
「せーので見よう」
「わかった」
目を合わせて、小さくうなずき合った。
「「せーのっ」」
ずらりと並ぶ名前。その中に私の名前はあった。端から二番目に。
「おめでと麻美」
思ったよりずっと素直な声が出た。自分ではわからないけど、たぶんいい具合に微笑んでいたと思う。
「うん。ありがとう」
麻美は勝ったのに、逆に悔しそうな顔をしていた。
「あたしはあたしでやりたいことがあって、それが矢野っちの邪魔になるとしてもこの結果には謝れない。だから謝れないことに謝る。ごめん」
「いいって、ていうかやめて。ここで謝るのがおかしいってくらい、麻美ならわかってるはず」
力の抜けた自嘲のような軽い笑いが麻美の口から漏れる。
「……そうだね。どうかしてた」
麻美は、にやりと悪役っぽく笑う。
「いつでも挑戦を受けるぞ、矢野くんよ。がっはっはー」
「そのテンションついてけないわー」
「ぷっ」
「あはっ」
そのまま二人してバカみたいに笑い続けた。ひとしきり笑って、緊張の糸が切れた私は壊れた人形のように、がくんと膝を落としていた。
「あ、れ?」
頭の中ですごい音がした。痛い。冷たい。頬に廊下が当たっていた。なんでだろう。
「おい! しっかりしろ! くっ保健室に――」
見たことないくらい焦った麻美は少し面白かった。私はいつ以来か覚えていない、深い眠りを予感していた。
天井……白い。私の部屋の天井じゃない。
「矢野さん!」
気持ちのいい声。横に目を向ける。会長の泣きそうな顔があった。
「なんだ夢か」
妙にのっぺりした声になってしまった。夢にしては喉の渇きがリアルだった。
「寝ぼけているのね。それとも記憶が混乱している……? 大丈夫? 頭とか痛むところはない?」
会長がなにを言っているのか理解が追いつかない。私はもごもごと無意味に口を動かし、なんとか一言だけ搾り出した。
「……水」
「水! 水ね。えっと……」
会長はどこかへ行こうとした。けどちらっと私の顔を見て怯えたような表情になる。まるでここを離れたら、私が死ぬか消えるかと思っているようだった。会長は結局、椅子に座り直した。
ここで気づいたが私はベッドで寝ているようだった。夢の中とはいえ寝たまま会長と話すのは失礼だ。私はのろのろと身を起こし、ベッドに腰掛ける。会長は屈んで足元をごそごそしている。落ちかかる長い髪を押さえる仕草が艶かしい。姿勢を直した会長の手には、水の入ったペットボトルがあった。
「これ。飲みかけで悪いのだけど」
会長はペットボトルを差し出す。
会長の飲みかけ + 私が飲む = ???
まどろんでいた私の意識は急速に浮上。第三宇宙速度でぶっ飛んでった。
「矢野さん!? やっぱり寝てないと」
「いえ、ちょっとふらついただけですから」
復活して即昇天するところだった。私はなんとか意識と魂を地上に戻して、息を吐く。覚醒してみると、喉の渇きは痛いほどだった。
「み、水、いいですか?」
「はい。どうぞ」
伸ばした私の手が会長の手に触れてしまう。二人同時にびくっと手を引っ込め、危うくペットボトルを落とすところだった。
フタを開け、飲み口を見る。かすかに付いた水滴が光を反射している。ここに会長の唇が触れたのだ。そこに私が、私が! それはいわゆるアレではないでしょうか!? さっきまでろくに働いていなかったであろう心臓は今や500bpmは突破しているに違いない。がんばって心臓さん! ありがとう神様! 私は今から会長と時空を超えて唇を――
「あっ」
べちゃ。こぼした。一応、口の中に水は入ったがありがたみが猛烈に薄れる。
「大変。すぐ拭くからじっとしてて」
言うか早いか、会長はハンカチを取り出している。
「平気ですから! 自分でします!」
水に濡れたブラウスに、インナーが透けていた。恥ずかしいなんてレベルじゃない。恥ずか死だ。死んでしまう。ここで会長に触れられたら私の心臓は爆発する。
私は素早くペットボトルをサイドテーブルに置いて、会長に背を向けた。自分のハンカチを出して水分を移し取っていく。手を動かしながら、私はようやく状況を理解し始めていた。
「ここ……保健室だ」
「そうよ。矢野さんは今朝倒れてずっと眠っていたの」
倒れて……そうか。ずっと? 時計に目をやる。
「二時か。って二時!?」
寝過ぎだろう私。
「先生は貧血と過労だって言っていたけれど、これ以上起きないようなら病院に搬送しようかと考えていたの。親御さんに電話は繋がらないし……目を覚ましてくれて本当によかったわ」
後ろからかかる会長の声は、こちらの胸が痛くなるくらい心底心配したものだった。
「あの、会長。授業は?」
「テストの返却は始まってしまっているわね。もし後でわからない所があれば、私が教えるわ」
「いえそうじゃなくて、会長はどうしてここにいるのかなって」
「もちろん矢野さんを看病するためよ」
なんだか微妙に答えになってない気がする。
「保険の先生は……?」
「今は他の仕事があるみたいね。ここにはいないわ」
「そ、そうですか」
保険医が部屋を空けていいのか疑問だったけど、詳しく訊くのもなんだか怖い気がした。スルー決定。
拭き終えた私は、会長に向き直って頭を下げる。
「すいませんでした。心配かけちゃったみたいで」
会長は泣き笑いみたいな表情で声を詰まらせる。少し頬を上気させたその顔は、失礼だけどとても可愛いかった。
「……本当に、本当に心配したのよ」
会長は辛そうに目を伏せる。
「でも私にそんなこと言う資格はないわね。矢野さんをここまで追い込んでしまったのは私なのだから。謝って許されることではないけれど、ごめんなさい」
深く腰を折る会長に、私はきょとんとするしかなかった。
「意味がわからないんですけど……」
上げられた会長の顔には、参ったとでも言いたそうな微苦笑が刻まれていた。
「佐々木麻美さん。彼女はとてもいい子ね。私ってほら……こんなでしょう? 怒ってくれる人、しかも年下の子なんていなかった。でも佐々木さんはあなたのために本気で怒ってくれたわ」
「はぁぁぁ? 麻美が会長にって、ええー!? いやもうほんっとーにすいません! 麻美はあとでキツく叱っておきますんで! あいつも悪気があったわけではないと思うんですがちょっとハッキリしすぎてるというか、とにかく会長は全然気にしなくていいですから!」
「そうはいかないわ。明らかに原因は私にあるのだから」
「いやだからそれは違いますって。倒れたのは単に私に体力がなかっただけで」
自分の中でなにか引っかかる。なんだっけ? 麻美は私に、なにがないって言ってたんだっけ?
「いいえ。倒れたことも、それ以前から矢野さんをずっと苦しめていたことも、全て私の勇気のなさが招いた結果なの」
「勇気……」
そうだ、勇気だ。私は確かにテストでいい成績を取った。でも倒れてしまって結局、会長を傷つけた。これじゃ意味がない。勇気があれば倒れなかった? 勇気があれば会長に認められる? 違う気がした。
「定例会議の日、私がきちんと伝えていればこんなことにはならなかった。いえ、もっと早くそうするべきだった。でも、卑怯で臆病な私は誘導じみた真似までして、矢野さんの口から言わせようとした」
「ちょちょっと待ってください。話がさっぱり見えないんですけど、とにかく自分を責めるのはよくないですよ」
「矢野さんは優しいのね」
会長は、ふわっと花が風にそよぐように微笑んだ。やばい! 可愛い!
会長はいつも「会長」という役割の中で表情をその都度、選択してきただけなのかもしれないと気づく。私は会長をほとんど完璧に近い人物だと思っていた。でもそんなのは人間じゃない。偶像だ。
一人の人間としての三木茜先輩はこんなにも可愛らしく笑う人なのだと、そしてその微笑みは私に向けられているのだと思うとなんだか胸がいっぱいになって上手く言葉が出てこなくなってしまった。
「ええっと……優しいとかそんなんじゃないんですけど、会長は別腹みたいな? あああなに言ってんのかわかんないですね私」
私のメチャクチャな発言に、会長は鋭く息を呑み身をすくめた。そのまま沈黙が落ちる。なにか相当マズイことを言ったのだろうか。ヘラヘラしたまま固まった私の頬にひとすじ冷や汗が落ちる。
やがて会長は大きく息を吸って、息を止めて目を閉じた。沈黙を作った唇をほころばせ、静かに言葉を紡ぎ出す。
「私のひどい勘違いでなければ、矢野さんの私への想いにはずっと前から気づいていたわ。そして、同じ想いを私もまた矢野さんに持っている」
私の顔は一瞬の内に青くなったり赤くなったりしたことだろう。そして頭の中は真っ白だった。
「今こそ言うわ。私は矢野さんのことが――」
「ちょ待って」
「好――」
「待って!!」
声を振り絞って叫んだ。うつむいたので会長がどんな顔をしているのかわからなかった。
「だってそんなの……おかしいじゃないですか」
ベッドのシーツに涙滴がぽたりと落ちた。
「おかしいですよ、ありえないですよ。ふざけてるんですか? からかってるんですか? だったら会長でも許せませんよ。こんな私のことを会長が認めてくれてるわけないじゃないですか。いい加減にしてくださいよ。だいたい会長が私のなにを知ってるんですか? 適当なこと言って」
「自分を傷つけるのはやめなさい」
ぴしゃりと遮られ、私の呼吸も言葉も止まる。
「ごめんなさいね。私も矢野さんのように優しい言い方が出来ればよかったのだけれど。ねえ矢野さん。私を見て。顔を上げて」
うなだれたまま私はもうなにもする気力がなくなっていた。抜け殻のようになった私の肩を、ぐっと掴まれる。会長の細腕のどこにそんな力があるのか、驚くほどの力で無理矢理体を引き起こされる。
跳ね上がった私の視線は、差し出された会長の手に釘付けになる。たおやかな手は寒空の下の小鳥のように震えていた。
「みっともないでしょう? 本当は今も逃げ出したいくらい怖いのよ。でももっと怖いのは矢野さんをこれ以上傷つけること、苦しめること。……私は卑怯だからただ気持ちを吐き出して楽になりたいだけなのかもしれない。けれどどうか信じて」
会長は震える手を私の手に重ねた。それだけで私の心臓は口から飛び出そうになったのに、あまつさえ会長は私の手を自らの胸の膨らみへと導いた。
「なっななななななにを」
「伝わるかしら。私の燃えるような熱が。破裂しそうな心臓の鼓動が。偽らざる心が」
伝わってくる。会長の燃えるような熱が。破裂しそうな心臓の鼓動が。真っ直ぐが心が。
私の手の甲に熱い涙が落ちて弾けた。その時、私はとんでもないことを口走ってしまったと気づいた。ひどいやり方で会長を傷つけた。
堰を切ったように私の両目から涙があふれる。
「ごめっ、ごめんな、さい、ごめんなさい。会長! ごめ、」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を会長の指がそっと撫でて、頭を抱き寄せてくれた。私はたまらず会長の胸に飛び込む。大声を上げて泣き続ける間、会長はずっと頭を撫でていてくれた。震えるその手つきは不器用で、でもなにより優しく私の心を受け止めてくれた。
「ぐす……」
落ち着いてくると大変な状況になっていることを理解せざるを得なかった。会長に抱きついている! 会長の背中は思っていたよりずっと細く、胸をずっと大きかった。上品なミルクティーのような香も昇り、最高の抱き心地だ。いつまでも甘えていたい誘惑にかられるが、そうはいかない。
私は体を離して、鼻と目をごしごしと拭う。それから、がばっと頭を下げた。
「とてもひどいことを言ってしまって……なんて謝ったらいいのか、本当にごめんなさい」
「いいのよ。私もずっと矢野さんを苦しめてきたのだもの。おあいこにはならないけれど、責を受ける義務があるわ」
「でもっ」
会長は小さく首を振る。
「いいの」
会長の目は強く、穏やかで、私はまた涙を流しながら何度もうなずくことしか出来なかった。
「矢野さん。さっきの続き、話してもいいかしら」
「はい……やっぱりちょっと待って! ……ください」
考える。私が今すべきことは――
私に必要なのはテストの点数じゃなかった。そんなものなくたって会長は私を見ていてくれた。私にすべきは、三木茜先輩は完璧な人間ではなく、臆病ででもとても優しくて可愛い一人の女の子だと認めること。そして、その女の子が一歩踏み込んだ勇気に応える勇気を持つこと。
よし!
私は左手で会長の右手を取り、自分の胸にぎゅっと押し当てた。
「きゃっ」
会長は驚いた声まで可愛いかった。
「私ってすぐ調子に乗って周りが見えなくなったり、余計なこと言ってしまったりするんです。今もとてもひどいことを……さっきこうしてくれた時、会長の気持ちすごく伝わってきました。だから今度は私の番です」
「……ええ。ええ。矢野さんの想いが直接染みこんでくるようだわ」
そう言って会長は再び私の手を、自らの胸に導く。鏡合わせのように互いの胸に手を当て合う姿勢になる。
「矢野さんの心臓の音すごいわ」
「会長のだって」
会長がくすりと微笑む。私もきっと同じように微笑んだに違いない。
不思議だった。今も心臓はうるさいほどに鳴っているのに、それがだんだん自分の音なのか会長の音なのか区別がつかなくなってくる。会長を通して自分の鼓動を聞いているような、自分を通して会長の鼓動を聞いているような感覚。それはだんだん、混じり合って溶け合って、二人で一つの心臓になったようだった。
私たちは自然と同時に口を開いていた。
「会長、好きです」
「矢野さん、好きよ」
そして引き寄せられ合うようにして唇を重ねた。