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星降る夜、君の足音がとおざかる

作者: 月天
掲載日:2026/07/30

街は「星まつり」の灯火ともしびと、遠くの祭り囃子ばやしに浮き立っていた。


天のミルキーウェイを渡って、亡き人が帰ってくる夜——。


街の賑わいとは裏腹に、築四十年の我が家は、底の抜けた井戸のように冷たく静まり返っていた。

暗がりの中、俺は、仏壇の横に飾られた小さな写真立てを眺めている。


微笑む彼女の写真は、六年前のままだ。

末っ子の長男を産み落とし、そのまま還らぬ人となった愛しい妻。

大恋愛の末に結ばれた彼女の命と引き換えに生まれた息子を、俺は心の底から愛したかった。

だが、その顔を見るたびに妻の最期がフラッシュバックし、胸が掻きむしられる。


喪失感という名の泥沼に沈み込んでから、俺の時間はずっと止まったままだ。

無職のまま部屋に閉じこもる俺に代わり、十六歳の長女がバイトに出て、家計と幼い弟妹の世話を引き受けてくれていた。


障子の向こうから、そっと足音が聞こえる。

バイトを終えて帰ってきた長女が、靴を脱ぎ、疲れた足取りで台所へ向かう音だ。

続いて、小さな長男と次女を起こさないよう、慎重に布団をかけなおす気配。


(……情けない父親だ)


罪悪感が胸を締め付ける。生きているのが申し訳なかった。

俺など、妻の死んだあの日に一緒に死んでいればよかったのだ。


深夜二時。

街の喧騒もすっかり途絶え、世界から音が消えた頃。


——トントン、トントン。


暗闇の台所から、軽やかな音が響いた。

まな板の上で、包丁が野菜を刻む音だ。

瑞々しく、どこか楽しげな規則正しいリズム。


(……え?)


長女はもう休んでいるはずだ。


それに、あの独特の包丁の鳴らし方は——。


——ペタ、ペタ、ペタ。


続いて聞こえてきたのは、やわらかな足音だった。

妻が家の中で好んで履いていた、あの薄いスリッパが廊下を擦る音。


胸が跳ね上がった。息が止まる。


「星まつりの夜、ミルキーウェイを通って帰ってくる」という言葉が、

激しい鼓動とともに脳裏を駆け巡る。


「……あ……あ……」


声にならない掠れた息を漏らしながら、俺は引き寄せられるように部屋の引き戸を開けた。


廊下の先、月明かりが青く差し込む台所の前に、人影が立っていた。

薄闇の中に浮かび上がる、懐かしい輪郭。

妻だった。


「……あなた」


耳元で、あの柔らかい声が聞こえた。

気のせいなどではない。


間違いなく、俺を呼ぶ妻の声だった。


「帰って……きてくれたのか……?」

「ええ。あなたに会いたくて。……とても寂しかったでしょう? もう、頑張らなくてもいいのよ」


妻がそっと手を差し伸べる。


その指先からは、星の降る夜空のような、甘く冷たい匂いがした。


「私と一緒に来ない? ミルキーウェイを渡って、ずっと二人で暮らしましょう」


甘美な誘惑が、俺の死にたいの心に染み渡っていく。


そうだ。

俺がここにいても、子供たちに苦労をかけるだけだ。

情けない父親など消えてしまった方が、あの子たちのためにもなる。

妻の元へ逝けるなら、俺の人生なんてどうなったっていい。


「行くよ……俺も、お前のところへ……」


俺は差し出された手を取ろうと、一歩を踏み出した。


——ズルリ。


踏み出した瞬間、違和感が鼓膜を刺した。

妻の足音が、変質したのだ。


——ヒタ……ズルリ、ヒタ……。


それはスリッパの音ではない。

湿った肉塊が、床を這いずるような不気味な異音。


見上げれば、月光に照らされた妻の顔が、のっぺりと平らに変形していた。

妻の姿を借りた「別の何か」が、歪んだ口元を吊り上げて笑っている。


(あちらの世界に、連れていかれる——)


恐怖で身体がすくみ、動かない。

異形の冷たい手が、俺の首元にゆっくりと絡みついてくる。


だが、心の片隅で「これでいい」と思っている自分がいた。

騙されて殺されるなら、それも俺の運命だ、と。


その時だった。


——スースー……、スースー……。


障子一枚隔てた奥の部屋から、かすかな音が届いた。

小さく、重く、確かな生命の鼓動。

幼い長男と次女の、すやすやとした寝息だった。


「……ん……おとうさん……」


夢にうなされたのか、長男の小さな寝言が静寂を揺らす。


ふと視線を落とすと、柱の陰の小さな机の上に、長女の書きつけが見えた。

使い古された大学ノートに、鉛筆でびっしりと書かれた家計簿。


『妹の夏服』

『弟の新しい靴』


そして、一番端に小さく書かれた『お父さんの病院代』。


冷水ひやみずをあびせられたようだった。


(俺は……俺は何をしようとしていたんだ?)


妻が命と引き換えにこの世に遺した、愛おしい宝物たち。


十六歳の若さで自分の青春を捨て、必死で家を守ろうとしてくれている長女。

俺はそんなあの子たちを捨て、自分だけ楽な死へと逃げ込もうとしていたのか。


妻が命をかけて守った子供たちを、俺が見捨てるような真似をしてどうする!


「お父さん」と、俺を頼る声が、頭の中で雷鳴のように響き渡った。


凍りついていた血が、一気に熱を帯びて駆け巡る。

俺の中で、押し殺していた「親としての感情」が爆発した。


「……離れろ!」


俺は叫びとともに、首元に伸びていた異形の手を力任せに振り払った。

床を強く踏み鳴らし、異形を睨みつける。


「俺は行かない! あいつらを……あの子たちを一人にして、そっちには行かない!」


——キィィィィィン……!


耳鳴りのような不快な金属音が響き、異形は悔しげに歪んだ。


やがて、その影は星明かりの粒子となって弾け、開け放たれた窓の外、天の川の光の中へと吸い込まれていく。


後には、ただ静かな夜風の音だけが残されていた。

風の中に微かに混ざっていたのは、異形の恐怖ではなく、本物の妻が遺していったような、やさしい温もりだった。


「……すまなかった」


俺は暗闇の中で膝をつき、絞り出すように呟いた。

涙が溢れて止まらなかった。




東の空が白み始め、鳥たちのさえずりが朝の訪れを告げていた。


俺は六年ぶりに、自分の意思で台所に立っていた。

包丁を握り、ちょっと不器用な音を立てて、朝食のみそ汁の具を刻む。


バタバタと足音がして、障子が開いた。

起きてきた長女が、パジャマ姿のまま、信じられないものを見る目で立ち尽くしている。


「お父さん……? どうしたの、こんな朝早くから……」


俺は包丁を置き、娘の顔を真っ直ぐに見つめた。

目の下にクマを作りながらも、健気に俺を気遣う大切な娘。


「今まで……苦労をかけて、本当にごめんな。」


声が震えたが、しっかりと伝えた。


「今日から、俺がやる。ちゃんと仕事も探す。お前はもう、自分のために時間を使ってくれ」


長女は一瞬呆然とし、それからぽろぽろと大粒の涙をこぼした。

「お父さん……お父さん……」と何度も呼びながら、すがりついてくる娘を、俺は強く抱きしめた。


窓の外では、朝顔が揺れ、夏の日差しが街を照らし始めていた。


もう、妻の足音は聞こえない。


遠ざかっていくその音を見送りながら、俺は胸の中に消えない愛を抱き、

子どもたちの待つ「今日」へ一歩を踏み出す。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


実は、この物語を最初に思いついたとき、頭の中にあったのはまったく違う、中堅とは名ばかりの没落寸前な男爵家を支えるため、王宮で侍女として働くエルザの物語の登場人物のアナザーストーリーでした。主人公の父親の気持ちを深めていくうちに、今の物語へと少しずつ姿を変えていきました。


最初から計画していたわけではなく、まるで物語のキャラクターたちが導いてくれたような、不思議で愛おしい執筆の時間でした。


このお話が、みなさまの心に小さく温かい灯をともすことができたなら、これ以上に嬉しいことはありません。

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