星降る夜、君の足音がとおざかる
街は「星まつり」の灯火と、遠くの祭り囃子に浮き立っていた。
天の川を渡って、亡き人が帰ってくる夜——。
街の賑わいとは裏腹に、築四十年の我が家は、底の抜けた井戸のように冷たく静まり返っていた。
暗がりの中、俺は、仏壇の横に飾られた小さな写真立てを眺めている。
微笑む彼女の写真は、六年前のままだ。
末っ子の長男を産み落とし、そのまま還らぬ人となった愛しい妻。
大恋愛の末に結ばれた彼女の命と引き換えに生まれた息子を、俺は心の底から愛したかった。
だが、その顔を見るたびに妻の最期がフラッシュバックし、胸が掻きむしられる。
喪失感という名の泥沼に沈み込んでから、俺の時間はずっと止まったままだ。
無職のまま部屋に閉じこもる俺に代わり、十六歳の長女がバイトに出て、家計と幼い弟妹の世話を引き受けてくれていた。
障子の向こうから、そっと足音が聞こえる。
バイトを終えて帰ってきた長女が、靴を脱ぎ、疲れた足取りで台所へ向かう音だ。
続いて、小さな長男と次女を起こさないよう、慎重に布団をかけなおす気配。
(……情けない父親だ)
罪悪感が胸を締め付ける。生きているのが申し訳なかった。
俺など、妻の死んだあの日に一緒に死んでいればよかったのだ。
深夜二時。
街の喧騒もすっかり途絶え、世界から音が消えた頃。
——トントン、トントン。
暗闇の台所から、軽やかな音が響いた。
まな板の上で、包丁が野菜を刻む音だ。
瑞々しく、どこか楽しげな規則正しいリズム。
(……え?)
長女はもう休んでいるはずだ。
それに、あの独特の包丁の鳴らし方は——。
——ペタ、ペタ、ペタ。
続いて聞こえてきたのは、やわらかな足音だった。
妻が家の中で好んで履いていた、あの薄いスリッパが廊下を擦る音。
胸が跳ね上がった。息が止まる。
「星まつりの夜、ミルキーウェイを通って帰ってくる」という言葉が、
激しい鼓動とともに脳裏を駆け巡る。
「……あ……あ……」
声にならない掠れた息を漏らしながら、俺は引き寄せられるように部屋の引き戸を開けた。
廊下の先、月明かりが青く差し込む台所の前に、人影が立っていた。
薄闇の中に浮かび上がる、懐かしい輪郭。
妻だった。
「……あなた」
耳元で、あの柔らかい声が聞こえた。
気のせいなどではない。
間違いなく、俺を呼ぶ妻の声だった。
「帰って……きてくれたのか……?」
「ええ。あなたに会いたくて。……とても寂しかったでしょう? もう、頑張らなくてもいいのよ」
妻がそっと手を差し伸べる。
その指先からは、星の降る夜空のような、甘く冷たい匂いがした。
「私と一緒に来ない? ミルキーウェイを渡って、ずっと二人で暮らしましょう」
甘美な誘惑が、俺の死に体の心に染み渡っていく。
そうだ。
俺がここにいても、子供たちに苦労をかけるだけだ。
情けない父親など消えてしまった方が、あの子たちのためにもなる。
妻の元へ逝けるなら、俺の人生なんてどうなったっていい。
「行くよ……俺も、お前のところへ……」
俺は差し出された手を取ろうと、一歩を踏み出した。
——ズルリ。
踏み出した瞬間、違和感が鼓膜を刺した。
妻の足音が、変質したのだ。
——ヒタ……ズルリ、ヒタ……。
それはスリッパの音ではない。
湿った肉塊が、床を這いずるような不気味な異音。
見上げれば、月光に照らされた妻の顔が、のっぺりと平らに変形していた。
妻の姿を借りた「別の何か」が、歪んだ口元を吊り上げて笑っている。
(あちらの世界に、連れていかれる——)
恐怖で身体が竦み、動かない。
異形の冷たい手が、俺の首元にゆっくりと絡みついてくる。
だが、心の片隅で「これでいい」と思っている自分がいた。
騙されて殺されるなら、それも俺の運命だ、と。
その時だった。
——スースー……、スースー……。
障子一枚隔てた奥の部屋から、かすかな音が届いた。
小さく、重く、確かな生命の鼓動。
幼い長男と次女の、すやすやとした寝息だった。
「……ん……おとうさん……」
夢にうなされたのか、長男の小さな寝言が静寂を揺らす。
ふと視線を落とすと、柱の陰の小さな机の上に、長女の書きつけが見えた。
使い古された大学ノートに、鉛筆でびっしりと書かれた家計簿。
『妹の夏服』
『弟の新しい靴』
そして、一番端に小さく書かれた『お父さんの病院代』。
冷水をあびせられたようだった。
(俺は……俺は何をしようとしていたんだ?)
妻が命と引き換えにこの世に遺した、愛おしい宝物たち。
十六歳の若さで自分の青春を捨て、必死で家を守ろうとしてくれている長女。
俺はそんなあの子たちを捨て、自分だけ楽な死へと逃げ込もうとしていたのか。
妻が命をかけて守った子供たちを、俺が見捨てるような真似をしてどうする!
「お父さん」と、俺を頼る声が、頭の中で雷鳴のように響き渡った。
凍りついていた血が、一気に熱を帯びて駆け巡る。
俺の中で、押し殺していた「親としての感情」が爆発した。
「……離れろ!」
俺は叫びとともに、首元に伸びていた異形の手を力任せに振り払った。
床を強く踏み鳴らし、異形を睨みつける。
「俺は行かない! あいつらを……あの子たちを一人にして、そっちには行かない!」
——キィィィィィン……!
耳鳴りのような不快な金属音が響き、異形は悔しげに歪んだ。
やがて、その影は星明かりの粒子となって弾け、開け放たれた窓の外、天の川の光の中へと吸い込まれていく。
後には、ただ静かな夜風の音だけが残されていた。
風の中に微かに混ざっていたのは、異形の恐怖ではなく、本物の妻が遺していったような、やさしい温もりだった。
「……すまなかった」
俺は暗闇の中で膝をつき、絞り出すように呟いた。
涙が溢れて止まらなかった。
東の空が白み始め、鳥たちのさえずりが朝の訪れを告げていた。
俺は六年ぶりに、自分の意思で台所に立っていた。
包丁を握り、ちょっと不器用な音を立てて、朝食のみそ汁の具を刻む。
バタバタと足音がして、障子が開いた。
起きてきた長女が、パジャマ姿のまま、信じられないものを見る目で立ち尽くしている。
「お父さん……? どうしたの、こんな朝早くから……」
俺は包丁を置き、娘の顔を真っ直ぐに見つめた。
目の下にクマを作りながらも、健気に俺を気遣う大切な娘。
「今まで……苦労をかけて、本当にごめんな。」
声が震えたが、しっかりと伝えた。
「今日から、俺がやる。ちゃんと仕事も探す。お前はもう、自分のために時間を使ってくれ」
長女は一瞬呆然とし、それからぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
「お父さん……お父さん……」と何度も呼びながら、すがりついてくる娘を、俺は強く抱きしめた。
窓の外では、朝顔が揺れ、夏の日差しが街を照らし始めていた。
もう、妻の足音は聞こえない。
遠ざかっていくその音を見送りながら、俺は胸の中に消えない愛を抱き、
子どもたちの待つ「今日」へ一歩を踏み出す。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
実は、この物語を最初に思いついたとき、頭の中にあったのはまったく違う、中堅とは名ばかりの没落寸前な男爵家を支えるため、王宮で侍女として働くエルザの物語の登場人物のアナザーストーリーでした。主人公の父親の気持ちを深めていくうちに、今の物語へと少しずつ姿を変えていきました。
最初から計画していたわけではなく、まるで物語のキャラクターたちが導いてくれたような、不思議で愛おしい執筆の時間でした。
このお話が、みなさまの心に小さく温かい灯をともすことができたなら、これ以上に嬉しいことはありません。




