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第8話 印象、ラベナム

「私も連れて行って」


自分でも驚くほど大きな声だった。

マーシャが目を丸くする。


「で、でも……ベレナお嬢様を巻き込むわけには…」


私はマーシャの目をじっと捉えた。


「一人でなんか行かせないからね」


「マーシャは私の侍女なんだから」


少し間が開く。


マーシャの瞳が揺らいだ。


「……それに」


「侍女を助けるのもお嬢様の役割でしょ」


少しだけ視線を逸らす。


「一人にしたくないの」


「……そうですね……」


掠れた声だった。

唇が震える。


「それなら……仕方がありませんね…」


まるで何かを諦めるように笑った。


震える手が私の手を取る。


手は冷たかった。

けれど離れなかった。


引かれるまま、

私は馬車に乗った。


馬車の中の空気は乾いていた。

何かを置いてきた人の空気だった。


マーシャの幸せが、

このまま遠くへ行ってしまう気がした。


拾える。

やり直せる。


そう思った瞬間、

口が動いていた。


「お家に帰ろうよ」


マーシャの顔が上がる。


「私に居場所なんて、ないんですよ……」


「そんなことないよ」

「誰だって帰る場所はあるよ」


隣に腰をかけ、

そっと身を寄せた。


「……一緒に向き合おう」


マーシャの肩が小さく震えた。


しばらく何も言えず、

やがて力が抜けたように呟いた。


「……ベレナお嬢様には敵いませんね」


乾いた空気がほんのり温かく感じた。


馬車の向きが変わった。


暗闇の中で揺れる間、

私たちは見つめ合っていた。


触れた指先が、温かかった。


マーシャの温もりに包まれる。


意識がゆっくり沈んでいく。


次に目を開けた時、

私はマーシャの膝の上にいた。


揺れは止まっていた。


指先を握ったまま眠っていた。

離れないように。


窓の外には、

見慣れない風景が広がっている。


朝なのに、誰もいない。

人の気配がない。


静かすぎて、

風の音だけが、動いていた。


「ベレナお嬢様……おはようございます」


振り向く。


「ここが……私の故郷です」


マーシャは小さく言った。


「ラベナム村です」


崩れた門を通り、

村に足を踏み入れた。


土が黒かった。

焼けたような色だった。


踏むたびに、乾いた音がした。

生きている匂いがしない。


胸の奥が焼けるように熱かった。


「……何かへんな匂いがしない?」

と聞くと、マーシャは頭を横に振った。


村の掲示板には色褪せた新聞。

びりびりに破れていて、何が書いてあるか読めない。


風が吹いているのに、葉の揺れる音がしなかった。


花壇には枯れた苗だけが残っていた。


少し歩いた頃、

無数の視線を感じた。


私には向いていない。


全て、マーシャだけを追っていた。


マーシャは気づいていない。

だから余計に怖かった。


道の向こうに、

ひときわ大きな家が見えた。


空気が、そこだけ重い。


気づけば、

私たちはその家へと向かっていた。


マーシャは何も言わなかった。


庭は荒れ果てていた。

伸びきった蔓が柵に絡みつき、

まるで檻のように見えた。


マーシャは庭を見ようとしなかった。


目の前には錆びついた大扉が聳えている。

長いあいだ開かれていない色だった。


押しても開く気配がない。


窓は割れたまま放置されていた。


思わず息を呑んだ。


どこかで見た景色だった。

閉じ込められた場所。

逃げられない空気。


あの部屋に似ている。


マーシャの体は震えていた。


私は足元の瓦礫を拾った。


閉じ込められたままなんて、嫌だった。


それを思い切り窓に投げつけた。


ガラスが砕け、静けさを引き裂いた。


私は割れた窓を押し広げる。

マーシャの手を引いた。


私たちはそこへ踏み込んだ。


ガラスの破片を避け、奥へと進む。


本棚が倒れていた。

魔法学、経済学。

難しそうな本が散らばっている。


その中の絵本に目が寄った。


擦り切れた表紙。

幼い少女が家族と笑っている絵だ。


指でなぞる。

そこだけ何度も触れられた跡がある。


私は静かにページを開いた。


色鮮やかな絵。

庭で遊ぶ少女。

笑う父。

見守る母。


だが途中から絵が途切れていた。


最後のページだけ、

黒く塗りつぶされていた。


「その本、まだあったんですね」


マーシャの声が小さく揺れた。


「あの頃は……楽しかったんです」


今の家には、その面影はなかった。


ふと、足音が聞こえた。


乾いた床を踏む音だった。


廊下の奥に、女性が立っていた。

いつからそこにいたのかわからない。


やつれた顔。

乱れた髪。


目は虚だった。

誰も信用していない目だった。


私たちを見るなり、

鋭い声をあげた。


「あなたたち、出ていきなさい」


身体が一瞬固まる。


隣でマーシャの呼吸が止まった。


女性はゆっくり近づいてくる。

足取りは重く、けれど迷いがなかった。


「ここは何もないわ」

「帰りなさい」


その目は私を見ていた。


私は言葉を失う。


次の瞬間、

マーシャが一歩前に出た。


「……お母さま?」


女性の足が止まる。


沈黙。


風の音だけが止まる。


女性の目が揺れた。

信じられないものを見るように、

マーシャの顔を見つめる。


「……マーシャ?」


声が崩れた。


手が伸びる。

触れる直前で止まる。


「本当に……?」


マーシャの膝が崩れた。


女性は息を呑み、

その体を引き寄せた。


強く、

壊れそうなほどに。


ほどなくして、マーシャの母は立ち上がった。


何も言わなかった。

ただ、奥を見た。


「……奥へ来て」


私ではない。

その視線はマーシャに向いていた。



母は振り返らず歩き出した。


廊下は暗かった。

窓は板で塞がれている。


足音だけが響く。

家が呼吸していないようだった。


母の足が止まる。

重い扉の前だった。


母が扉を上げた。

薬の匂いが流れ出る。


部屋の中央に、男が横たわっていた。


痩せた体。

閉じたままの瞳。


生きているのか分からないないほど静かだった。


息が止まる。


「……お父さま」


返事はなかった。


ただ胸だけが、

わずかに上下していた。


呼吸の間隔が一定過すぎた。

眠りというより、

何かに閉じ込められているようだった。


原因はわからない。


言葉が出てこない。



マーシャの指が震える。


近づけない。

触れられない。


私はただ見ていた。


マーシャの父の部屋には、

見慣れないものが散らばっていた。


机の上に積まれた本だけが異様だった。


装丁は新しい。

けれど表紙には薄く埃が積もっている。


誰かがここに置いたまま、

一度も開かれていない本だった。


そっと本を開く。


「弱き血は穢れである」

「神の秩序のもと排除せよ」


折り目のない綺麗な頁だった。


裏表紙の紋章に、

見覚えがあった。


どこかで見た紋章だった。

処刑台に掲げられていた旗に似ている。


胸がざわつく。


「……お姉様」


なぜか分からない。

姉の顔が浮かんだ。


この家は止まっている。

まるで生きていることを許されていないように。


マーシャは視線を逸らした。

ここを見たくないように。


「あなたがここを出て行ってから、気付いたの」

「いかに私たちが愚かな存在だったかを」


「……あの人はおかしかったのよ」

「お祖母様の言うことを聞かず、口を開けばいつも『私には救える命がある』なんて、ろくに現実も見えていなかったのよ」


「穢れた者まで救おうとして」


「神だけが私たちを救うのよ……」


マーシャの母の目が大きく見開いた。

まるで信仰を語る者の目だった。


「……それでも」


「私はこの人を見捨てられないのよ」


「愚かだと思っていても」

「私は妻なの」


弱きものは淘汰されると言いながら、

彼女はその弱き者のそばを離れなかった。


「……違います」

「弱いから捨てるんじゃない」


「守りたいから、そばにいるんです」


「……お母さま」

「私ね、ここを離れてから色んなことがあったよ」


「馬車が壊れたり、野宿をしたり、大変だった」


「でもね、私、侍女になったことは後悔してない」


「だって……」


唇が震えた。


「……ベラお嬢様と出会えたから」

「お嬢様が私を光に導いてくれたんです」


母の瞳が揺れた。


言葉を探すように口が開く。


「……そう」


長い沈黙。


「あなたはあなたの居場所を見つけたのね」


空間がわずかに動いた。


この家は止まっていた。

でも、今は違う。


「マーシャ」


「これから、どうしたい?」


私はそっと問いかけた。


マーシャの目が揺れた。

何かを飲み込むように唇を噛む。


「……これからも」

「ベレナお嬢様のお側にいたいです」


震える声だった。


「そのために……向かいます」


「お祖母様の家へ」


逃げるためではなく、

選ぶために。

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