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第6話 種を蒔く者

それからベレナとしての人生が始まった。


その名を呼ばれるたび、

少しだけ遅れて振り向いた。


ヴェイルヘイヴンでの生活に、

エリーゼ=ヴィングスは存在しなかった。


今日もマーシャは騒がしい。

それでも、水は溢さなくなった。

髪結もうまくなった。


気づけば、笑うことが増えていた。


「マーシャ、今日から家庭教師が来るのよ」


「そ……そうでしたね」


声が震えている。

今日のマーシャはどこかおかしい。

鏡の前で何度も髪を見直している。


なぜか、胸が落ち着かなかった。


そのとき、

わずかに視界が揺れた。


床が遠くなる。


次の瞬間、

腕を掴まれていた。


「ベラお嬢様……!」


マーシャの手は冷たい。


胸元が熱い。

ペンダントが焼けるようだった。


鼓動が胸を打った。


マーシャの手がおでこに触れる。


「熱はないようですね」


マーシャの顔が近い。

緑色の大きい瞳が、

まっすぐに私を見ていた。


胸の熱が、少しだけ静まる。


私が落ち着くと、

マーシャは黙って床を拭き始めた。


窓へ歩いた。


指先が先に動く。

鍵を外す。


窓を開けた。


外の光が床に落ち、

冷たい空気が流れ込んでくる。


頬を撫でた風はかすかに土の匂いがした。

窓の下には庭が広がっていた。


整えられた、生垣。

遠くで、水の落ちる音がする。


一人の男が土を掘っていた。


ては黒く汚れていた。

それでも、動きは丁寧だった。


なぜか目が離れず、

気づけば遠くから声をかけていた。


「……何をしているんですか」


「……え?」


声は小さい。


風に流れて、

男は気づかなかった。


「な に を しているんですか」


今度は届いた。


男は顔を上げ、目を細める。

鍬を持ったまま、少しだけ笑った。


「苗を植えているんだ。」


「咲きますか?」


「時間はかかるがな」


男は土を押さえた。


「手をかけた分だけ応えてくれる。」


「……手伝ってもいいですか?」


男は手を止めた。

少し驚いたように窓を見上げる。


「ああ……構わん」


土のついた手で持ち上がった苗は、

とても小さかった。

まだ頼りない。


私は窓から手を伸ばす。

届かない距離。


風だけが触れた。


窓から身を乗り出し、身体が傾く。


「お嬢様!」


腕を引かれる。


マーシャの手が強かった。


私は振り向く。

「少しだけ……庭を見てきてもいい?」


「危険です」


マーシャは行く手を阻む


「どうしても……行きたいの」


マーシャは目を閉じた。


長く息を吐く。

「お嬢様はずるいです…」


「……私も一緒なら、です」


部屋を離れた。


庭へ続く扉の前で、足が止まる。


外の空気が、扉の隙間から流れ込んでくる。

冷たい。けれど嫌ではない。


マーシャがそっと扉を押した。


光が溢れ、思わず目を細めた。

光が痛くない。


風が頬を撫で、髪が揺れる。

土の匂いがした。


一歩外へ出る。

柔らかな感触が足の裏に伝わる。

私は少しだけ走り出しそうになった。


音がある。

風の揺れる音。

鳥の鳴き声。

遠くの水の音。


世界が動いていた。


私は、しばらく何も言えなかった。


庭師は土を掘り、

小さな苗をそっと置いた。


「根を傷つけないように」

「土を優しく戻すんだ」


私は真似をする。

指先が土に触れる。


冷たく、少し湿っていた。


生きている匂いがした。


庭の奥へ進むと、音が変わった。


金属の音が聞こえる。

乾いた音だ。


城の奥に広い空間がある。


砂の上で剣をぶつけ合っていた。


「そこだ」

低い声。


一人の少年が立っている。

笑っているのに、

目が笑っていなかった。


隣にもう一人、

年の近い少年がいた。


まだ幼さの残る顔。

けれど、剣の握る手が少し震えていた。


その少年と目が合った。

その震えが、

自分の鼓動と重なった。

痛みが同じだった。


砂を踏む音が止まった。


「弱いな」

笑っている。

目だけが笑っていない。

少年は唇を噛んだ。


「あの方達は、公爵様の子供たちですよ。」


マーシャがささやく。


「……第一公子のヴィクター様と、

第二公子のルシアン様です。」


「公爵の娘が土に触れるとはな」


ヴィクターは私の手を見ていた。


私に近づき、手を取った。

彼の手は温かいのに、

触れられた場所だけが冷えた。


そして土を払う。


乱暴ではない。

ただ迷いがなかった。


「上に立つ者は、触れぬ」

「汚れることは、弱さだ」

「弱さは下へ落ちる」


ルシアンの手が震えた。

私の胸元も揺れた。


「公爵家の名を背負うなら、

常に清潔であれ」


「私の妹であるなら」


ルシアンは何も言わない。

ただ視線だけが揺れていた。


払われた土が足元に落ち、

踏み潰された。


ルシアンの視線が、

散り散りになった土を追った。


さっき触れた土の温かさが、

まだ指に残っている。


私は土を握り直した。

まだ温かい。


唇が動かない。


彼の近くでは音が消えていた。


「せいぜい生き残るんだな」


その一言を残し、

ヴィクターの足音だけが遠ざかる。


空気が残るまで、誰も言葉を出さなかった。


私はルシアンを見た。


「強いってどういうことなの」


ルシアンの肩がわずかに揺れた。


唇が動く。

声にならない。


視線が落ち、

握っていた剣が揺れている。


彼は何も言わず、

背を向けた。


足音は軽かった。

振り返らない。


残ったのは踏み潰された土だけだった。


「……生きた心地がしませんでした」


マーシャの声が震えている。


遠くで鐘が鳴る。


私はまだ土を見ていた。


「……授業のお時間です」


私たちは庭を離れた。


案内された部屋は静かだった。

机の上に本が並び、一人の男が待っていた。


黒い服。

背筋はまっすぐだった。


「私はシュバルツ=ハルンベルグ」




「クラウンフォードのものだ」


声は静かだった。

こらちを見ているというより、

記録されているような視線だった。


「……今日から貴女を教える」


気づくと距離が近い。

いつ近づいたのかわからない。


私は席に座る。


椅子は固く、逃げ場がなかった。


シュバルツは机の上に小さな石を置いた。


「触れてみなさい」


私は手を伸ばす


冷たい。

それだけだった。


何も起こらなかった。


沈黙。


「……そうですか」

彼はわずかに目を細めた。


「何も感じませんでしたか」

私は首を振る。


では教えましょう。

彼は石を指先で転がした。


「この国の魔法は力ではありません」



「資格です」


私は言葉の意味を探した。


「魔法とは、血に反応します」


胸元がわずかに熱くなった。

ペンダントが触れている。


シュバルツの視線が一瞬そこへ落ちた。

一瞬だけ。


「血が濃い者ほど、強く働く」


「王家が王家たる理由です」


私は口を開いた。


「……皆を守るから……ですか?」




「違います」


声は変わらない。


「支配できるからです」


「世界は平等ではありません」

「強い血があり、弱い血がある」


「それが秩序です」


ヴィクターの言葉を思い出した。

汚れることは弱さだ。


胸がざわついた。


「では、問題です」

シュバルツが言う。


「弱い血はどうなると思いますか」


答えが出ない。


「淘汰されます」


彼は淡々と言った。


その瞬間、胸元が焼ける。

呼吸が乱れ、視界が揺れる。


ペンダントが熱い。

脈打つように。


シュバルツは動かなかった。


ただ、興味深そうに観察していた。


私が苦しむほど、

彼の瞳だけがわずかに光った。


「体調が優れないようですね」

助けようとはしなかった。


「本日はここまでにしましょう」


私は頷いた。


立ち上がると足が重かった。


部屋を出る直前、

背後から声が聞こえる。


「血は隠せませんよ」


声は優しかった。


振り返ると、

彼はこちらを見ていなかった。


それでも歩き出すと、

背中のどこかが冷えたままだった。


振り返る気にはなれなかった。


揺らぐ視界の中、足が勝手に進んだ。

呼吸が乱れる。

身体の中の空気が抜けた。


侍女の部屋を通りかかる。


空気が沈んでいる。

どこかで聞いた声が、壁にぶつかって散っていた。


指に残っていた土が冷たくなっていた。


「あぁぁぁぁ!」

「どうして……どうして……!」


私は足が止まった。


私はまだ知らなかった。


この城の賑やかな光が、

どれほど壊れやすいのかを。

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