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第5話 未完の肖像

――あれから数日が経った。


「ベレナお嬢様、朝の支度をいたしますね」

マーシャはそう言って、思いっきりカーテンを開けた。

朝の光が、差し込む。


思わず目を閉じてしまった。


まだ空気は冷たい。

布団の中に、身体が沈んでいく。


マーシャは私を見ると、指先をもじもじと動かし、どこかへ行った。


視界が暗くなる。

そのとき、洗面所から水音がした。


大きな水音と共にマーシャが慌てて戻ってきた。


「お、お嬢様…助けてください……」

声が少し裏返っていた。


完全に目が覚めた。


「……何があったの?」


「お顔洗いの水が溢れてしまいました……」

「お許しください……」


マーシャは慌てて膝をつき、床に手をついた。


「床、冷たいよ」

「私も手伝うから…一緒にお掃除しよう?」


「ベレナお嬢様……」


マーシャは涙を浮かべた。

床に落ちた雫が、冷たく広がる。


そこから、朝の支度は何度もやり直しになった。


ようやく顔を洗えると思ったら、服に水が飛び散る。髪結はむちゃくちゃだった。

服の留め具はすぐにはずれる。


マーシャは、何度も私に謝っていた。


可笑しくて、どうしようもなかった。

気づけば、口元が緩んでいた。


「あ、お嬢様……いま、笑いましたよね?」


「別に、そんなことないよ」


「……鏡で、自分の顔を見てくださいよ」


「……なんともない、わよ」


「……あ」


マーシャは視線を逸らした。


「そう言えば……お嬢様って、ここに来る前は何をしていたんですか?」


視線を落としたまま、少し沈黙が続いた。


「私ね、外に出たことがなかったの。」


「私と同じですね」

「父さまの看病で、あまり遊べなかったんです。」


「……そっか」

マーシャも外を知らなかった。


一通り身支度が終わると、朝ごはんが運ばれてきた。

「……今日は、お部屋ででよろしいと」


朝食はお粥だった。


湯気が立ち上がっている。

マーシャは、そっと冷ましてくれた。


「熱くないですか?」


「大丈夫よ」


マーシャが冷ましてくれたお粥は、温かった。


そのまま、朝食を終えた。

マーシャは、ようやく一息をついた。


――コン、コン。


扉が控えめに叩かれた。

マーシャの背筋が、すっと伸びる。


「……失礼いたします」


低く落ち着いた声が扉の向こうから届いた。


「執事長のハロルドでございます。

公爵閣下よりお嬢様を広間へお連れするように仰せつかりました。」


広間。

その言葉だけで、胸の奥が少しだけ引き締まった。


私の身なりに目を留め、

ハロルドはマーシャへ、わずかに視線を向けた。


マーシャは、私にだけ分かるように親指を立てた。

それを視界の端で捉え、

ハロルドは小さく息を吐いた。


「……昼頃に、また参ります。」

どこか諦めたような声だった。


そう言い残し、静かに扉を閉めていった。


「少し時間もあることですし、お城を回りましょうか」


私は思わずマーシャを見て、

小さく頷いた。


マーシャに促されて、

私たちはまず、書斎へ向かった。


廊下では、侍女たちが静かに掃除をしていた。


通り過ぎようとすると、

彼女たちは顔を上げ、優しく声をかけてきた。


「あら、マーシャその子は誰なの?」

一人の侍女が、首を傾げて尋ねた。


「お久しぶりです、イザベラさん」


「こちらは……

私がお使えしているベレナお嬢様です。」


「まぁ、なんて可愛らしいお嬢様ですこと。」

侍女たちは顔を見合わせ、

ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。


「もう……我慢できません。」

そう言って、侍女の一人がそっと手を伸ばした。


「や、やめて」


「こ、来ないで……」


私はその場を離れた。


侍女たちは、たぶん悪魔だ。

そうに違いない。


油断したら、食べられてしまう。


気持ちが落ちついてくると、

別の問題に気がついた。


迷子になってしまった。


ああ、一人になって、ようやく気づいた。

ここは、ずいぶん賑やかなんだな。


こんなときでも、

どこからか、マーシャの騒がしい声が聞こえる。


「こんなところで何をしているんですか?」


後ろの扉が開き、

低い声が響いた。


そこには、ハロルドが立っていた。


「……ここの賑やかさを、噛み締めていました。」


遠くで侍女たちの声が重なる。

外では鐘が鳴っていた。


「……そろそろですかね」

私はそっと立ち上がった。


ハロルドの後に続き、

果ての見えない廊下を歩いた。


ふと、見上げるほど大きな肖像画に目が止まる。

薄灰色の瞳。

整えられた口髭。

暗闇を閉じ込めた灰色の髪。


見覚えがあった。


「……これは、公爵様ですか」


ハロルドは何も言わなかった。


構図にどこか歪みがあった。

公爵の視線は、誰もいない場所へ向いている。

端の色だけが新しかった。

そこだけ、時間の流れが違うように見えた。


理由は分からない。

私は視線を逸らした。



ハロルドは振り返らなかった。


大きな扉に近づくにつれ、

声が増えていった。


どの声も落ち着かなかった。


その刹那、声が響いた。

覚えのある声だった。


声が止まった。

誰も呼吸しなかった。


「皆の者、よく集まってくれた。」


「今日ここに、一人の娘を迎える。」

「……入ってくれ」

全ての視線が扉へ向いた。


扉が開いた。

冷たい空気が頬に触れる。

息が止まった。


数多くの視線が私を突き刺す。

細い針のように。


体が震える。

足が動かない。


――殺せ。

――魔女の娘。

――生まれたことが……


「……様!!」

「お嬢様……!!」


聞いたことのない声だった。

いや、違う。


私を呼ぶ声だった。


私は顔をあげた。


マーシャだ。

人の列の向こうで、

抑えられながら私を呼んでいた。


エリアスと目が合った。

ただ見ていた。


私は一歩を踏み出した。


人々の横を通る。

視線が背中に刺さる。


床が一段高くなる。

皆を見下ろす位置に立った。


それでもエリアスはなお大きかった。


「この者に名を与える」


「その名は……」


空気が張り詰める。


「ベレナ」


一拍の静寂。


「ベレナ=ヴェイルヘイヴン」


ざわめきが止まる。

その名が空間に落ちた。


その名は重かった。

王女としての名ではなかった。


それでも。


私はいつか必ず戻る。

あの名を取り戻す。


やがてざわめきが戻る。

その中に、二つの視線があった。


一つは冷たく。

もう一つは、迷うように。


私はまだ、その意味を知らなかった。

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