第2話 守るということ
その日から、
私の隣にはいつも温度があった。
それがクララだった。
周りから冷たい目で見られても、
クララは気にした素振りをしなかった。
私は、ただ隣にいる理由がわからなかった。
「ねぇ、私の部屋においでよ」
突然、クララが言った。
「……どうして?」
少し遅れて、言葉が出た。
「だってさ」
クララは笑う。
「放っておけない顔してるもん」
「それにね」
「一人でいるより、二人の方が楽しいじゃん」
楽しい。
それが何を指す言葉なのか、
うまく思い出せなかった。
けれど、
なぜか断る理由が思い浮かばなかった。
クララに手を引かれて部屋に向かう。
私の手を離さないように。
クララの手は温かかった。
「ここが私の部屋だよ」
「開けてみて」
震えた手で扉を開けた。
中は狭かった。
けれど、
散らかったベッド。
窓辺の小さな花。
少し歪んだ机。
人の気配があった。
––生きている気配がした。
私は立ち尽くした。
なぜか、目が離せなかった。
下を見る。
本が散らばっていた。
「まって……見ちゃだめ!」
クララはとっさに本を抱えた。
「……それは?」
どこか見たことがある表紙だった。
家族に囲まれた幼い少女。
笑っていた。
誰にも触れられずにいる私にとって、
その世界は眩しかった。
……あの絵本。
昔、家にあった。
「は、恥ずかしいよ……」
クララはそれを抱えたまま離さない。
「……こんな家族があったらいいなって」
クララはベッドに仰向けになった。
家族。
その言葉を聞いた瞬間、
頭の奥にぼんやりとした光景が浮かんだ。
思い出せない。
けれど、温かかった気がした。
「ね、いつかさ」
クララは天井を見たまま言った。
「こういう家族、作れるのかな」
わからないよ。
家族がなんだったのかも。
けれど––
胸の奥が、少しだけ痛かった。
「ねぇ、マーシャ」
思いっきり腕を引っ張られる。
ベッドに倒れ込んだ。
クララの顔が近い。
息が触れそうな距離だった。
どうしてだろう、
胸がざわついた。
「私ね、パパとママがいないんだ」
言葉の意味はわかる。
けれど、
どう返せばいいのかわからなかった。
思わず目線を逸らしてしまった。
「ちょっと」
「こっちを見てよね」
逃げようとした視線を、
逃してもらえなかった。
「おじいちゃんが言うにはね、小さい頃の私は臆病で何をするにも泣いていたんだって」
「考えられないよねー」
クララが笑った。
「おばあちゃんがね、私に教えてくれんだよ」
『人を助けなさい、
人を助けることは、自分自身を助けることだ』
「ってね」
「だから私はね」
「困っている人を見たら助けるって決めてるんだ」
「……マーシャもね」
クララがなんで私を気にかけるのか、
まだよく分からなかった。
けれど––
彼女の手を離したくないと思った。
––次の日
「マーシャ今日はこっちを掃除するよ」
「待って……」
置いていかれるのが怖かった。
私はクララの後を追った。
「さて、廊下を綺麗にしないと」
クララはいつも通り笑った。
私はその隣にしゃがむ。
さっきまで冷たかった廊下が、
少しだけ温かく感じた。
––しばらくして
「マーシャ、見て!」
「私たち優秀なんじゃない?」
先ほどの廊下とは思えなかった。
ほとんどクララのおかげだった。
私は何もしてあげられてない。
それでも––
隣にいてもいいのだろうかと思った。
その時、
廊下の奥から話し声が近づくのが聞こえた。
「ねぇ、さっきのお客様すごくかっこよくなかった?」
「私もう、死んじゃうのかと思ったわ」
「誰なのかしらね」
侍女達は水桶に近づいてる。
気がついていないのだろうか。
「きっとヴィクター様の先生よ」
次の瞬間、
乾いた音が響いた。
水桶が蹴り飛ばされた。
汚れた水が足元に広がる。
……さっきまで温かかった床が、
一瞬で冷たくなった。
侍女達の視線は私に向いていた。
逃げ場がない。
「あらあら、ごめんなさいね?」
「でも、優秀な元貴族なのだからこんなことどうってことないわよね」
身体が震えた。
––助けて。
そう思った瞬間だった。
「ちょっと、ベルベット」
「これ、なんのつもりなの」
クララが一歩前に出た。
私の前に立つ。
私は何もできなかった。
「クララちゃん」
「私たちは偶然ここを通りかかっただけなの」
「それにね、こんな廊下にきったない水桶を置くのもよろしくないわよ」
ベルベットはそう言った。
「そんなに大きな瞳なのに、水桶すら見えないの?」
「それ、本当に勿体無いわね」
クララはベルベットをまっすぐ見た。
「それとも、見えないふりをしてるの?」
ベルベットの顔から笑みが消えた。
私は声が出なかった。
ただ、背中越しにクララを見ていた。
「……チッ」
ベルベットは舌打ちした。
何も言い返せないまま、他の侍女を連れて去っていった。
「あんな奴は言い返してやればいいのよ」
クララは笑っていた。
「……私には出来ないよ」
「クララがいないと、私はここにはいられない」
クララは私の手を握った。
「大丈夫」
「私が守ってあげるから」
「マーシャは特別だから」
クララは小さく笑った。
クララの指が少しだけ強く食い込んだ。
クララの手は温かかった。
胸の震えが止まった。
この手が離れたら、
私は壊れてしまう気がした。
「マーシャに頼られないと私は……」
その続きを、
クララは飲み込んだ。
クララが私の手を握ったのを、
遠くから見ている視線があった。
––あの視線は消えなかった。
その日から、執拗に私は嫌がらせを受けた。
クララは何度もベルベットと言い争った。
まるで私のことのように怒っていた。
けれども、嫌がらせは止まらなかった。
それでも私は、
クララの手を離したくなかった。
クララの手には傷が増えていた。
なのに彼女は笑っていた。
その傷が、
私のせいだと分かっていた。
––この笑顔が、
いつまで続くのかは分からなかった。
「マーシャちゃん、この花瓶をルシアン様の部屋まで届けてくれない?」
ある日突然、
ベルベットから言われた。
その声は、
妙に柔らかかった。
私は少しだけ首を傾げた。
––どうして私に?
けれど、
断る理由がなかった。
「……はい」
受け取った花瓶は、
思ったより重かった。
「気をつけてね?」
その言葉の意味を、
まだ私は知らなかった。
「マーシャ、私もついていくわ」
クララがそっと言った。
さっきまで笑っていたはずなのに、
その目は鋭く細められていた。
––なにかを警戒しているようだった。
花瓶を抱えたまま廊下を歩いた。
やけに静かだった。
足音だけが響く。
––嫌な感じがした。
その時、
誰かの肩がぶつかった。
身体が揺れる。
花瓶が手から離れた。
空中をゆっくり回転する。
手を伸ばした。
届かない。
––ぱりん。
乾いた音が響いた。
破片が床に散った。
私は動けなかった。
ただ、
終わったのだと思った。
水がゆっくり床に広がる。
それが血のように見えた。
––きゃああああっ!!
突然、
鋭い叫び声が廊下に響いた。
誰の声なのか分からなかった。
少し遅れて、
私は振り返った。
そこにいたのは、
さっきぶつかった侍女だった。
彼女は私を見ていた。
まるで、
待っていたかのように。
やがて、遠くから足音が近づいてくる。
早すぎる。
まるで最初から呼ばれていたみたいに。
現れたのはイザベラ達だった。
「何があったの?」
答えようとした。
けれど声が出なかった。
沈黙を見さからって、
メイドはとっさに口を開いた。
「この子が思い切り私にぶつかってきたんです」
そう言って、
彼女は私を指さした。
その指先は、
迷いがなかった。
「私は避けようとしたのに」
震えた声だった。
イザベラの視線が私に向いた。
「……本当なの?」
答えようとした。
声が出ない。
喉が、閉じたままだった。
「私も見たわ」
「あの子、笑っていたのよ」
周りからそう聞こえた。
違う……
私じゃない。
そう言おうとしたのに、
私は何も言えなかった。
その沈黙が、
罪を認めたように響いた。
ベルベットが笑っていた。
その沈黙を裂いたのは––
「違います」
声が響いた。
私の前に、
クララが立っていた。
小さな背中だった。
クララの手がわずかに震えた。
呼吸が乱れている。
それでも一歩前に出た。
「私がやりました」
空気が止まった。
イザベラの眉がわずかに動く。
「クララ……?」
「マーシャは悪くありません」
はっきりと言った。
迷いがなかった。
「私がぶつかりました」
「私が割りました」
ベルベットの舌打ちが響いた。
「何を言ってるの?」
クララは振り向かなかった。
ただ、私を庇うように立っていた。
「この子は何もしていません」
その声は静かだった。
けれど決して折れなかった。
私は何も言えなかった。
なぜ。
どうして。
どうしてそこまで。
理解できなかった。
「……いいのね?」
イザベラが低く言う。
わずかな沈黙。
クララは笑った。
「いいですよ」
でもその笑顔は、
なぜか泣きそうに見えた。
「謹慎を命じます」
それだけ告げて、
イザベラは去っていった。
ぼとなくして、
あたりのメイド達も持ち場に戻りにいった。
廊下には私とクララ、そしてベルベット達だけが残った。
沈黙。
次の瞬間––
ベルベットがクララの胸ぐらを掴んだ。
「どうして、庇うのよ」
「私たちは物のように扱われてきたのよ」
その目は、怒りで歪んでいた。
その瞬間、
私は初めて理解した。
守られるということは、
誰かが壊れるということだった。




