第1話 私の名前
「ヴェイルヘイヴン家で侍女として働きなさい」
ある日突然、お祖母様からそう言われた。
命令だった。
理由は告げられなかった。
お父様が倒れ、
村が焼かれ、
家も、名前も、全て失った。
あの日から私は––ただの平民だった。
逆らう理由も、
逆らう力も、
もう何も残っていなかった。
馬車の窓から見える景色は、
灰色に滲んでいた。
焼け跡の匂いが、まだ鼻に残っている。
私はこれから、どうなるのだろう。
どこへ連れていかれるのだろう。
「マーシャお嬢様、降りてください」
馬車の揺れが止まり、ハルバンがそう言った。
……まだ、そう呼ぶの?
お祖母様には何度も注意されてるはずなのに。
「ここで、少し休憩しますよ」
扉が開く。
冷たい風が流れ込む。
まるで、これからの行き先を
告げているようだった。
そこは、少しこじんまりとした宿屋だった。
軋む扉。
煤けた壁。
焚き火の匂い。
ハルバンは私の椅子を静かに引いた。
「温かうちにどうぞ」
差し出されたのは、
湯気の立つ簡素なスープだった。
温かいはずなのに、
身体の奥までは届かない。
私はただ、
空になった器のように、
そこに座っているだけだった。
何も考えていないのに、
何かが失われていく感覚だけがあった。
意識がゆっくりと沈んでいく。
音も、匂いも、寒さもない。
頭の中が真っ黒になった。
ただ――
人形のように屋敷に着くことを待っていた。
馬車がゆっくり止まった。
「着きましたよ」
ハルバンが私の手をそっと引く。
窓の外に視線を向ける。
巨大な屋敷。
白い壁。
整いすぎた庭。
なぜか――
生きている気配がなかった。
「私はここまです」
「お嬢様どうかお元気でいてください……」
ハルバンは私に何かを言っていた。
悲しそうな顔。
涙が溢れていた。
けれど――
何も感じなかった。
私は何も言わず、馬車を降りた。
お祖母様の言う通りに、
侍女棟へ向かう。
それ以外の選択肢はなかった。
そこでは、多くのメイドたちが慌ただしく動いていた。
だが――
誰一人として声を出していない。
足音だけが静かに響く。
視線も合わない。
感情のない人形のように感じた。
私は何も思わなかった。
そのまま与えられた部屋に向かう。
廊下を歩いていると、視線を感じた。
「ねぇ、あの子?」
「そうそう。今日から来る新しい子よ」
「元貴族らしいわ」
声が途切れる。
足音だけが響いた。
視線がより鋭くなった。
部屋はとても簡素なものだった。
一つだけの明かり。
小さいベッド。
その光景を見た瞬間、
呼吸の仕方を忘れた。
部屋に押しつぶされているようだった。
ここに、私の居場所はないのだと分かった。
いつの間にか、膝が崩れていた。
しばらく動けなかった。
落ち着いたとき、私はふとベットに目を向けた。
埃をかぶった制服が投げられていた。
埃をはらい、それを身につけた。
鏡を見る。
腫れた目。
乱れた髪。
見慣れない服装。
そこにいたのは、
もう私ではなかった。
ただの侍女だった。
――コン……コン…コン
扉の向こうから音が聞こえた。
次の瞬間大きく扉が開いた。
「……似合っているわね」
誰だろう。
振り向く。
整った身なりの女性が立っていた。
冷たい視線。
隙のない姿勢。
「あなたが新入りのマーシャで間違いないわよね」
私は頷いた。
「私はイザベラ」
「この屋敷の侍女長よ」
感情のない声だった。
「ここでは身分も過去も関係ないわ」
「与えられた役目を果たしなさい」
それだけ言って、
イザベラは踵を返した。
足音だけが遠ざかる。
わたしの胸は、何も動かなかった。
「準備ができたら、広間に来なさい」
その声もやがて消えた。
広間には多くの侍女が整列していて、
イザベラがなにか指揮をしていた。
近づくと、視線が一斉にこちらへ向いた。
イザベラが手招きをする。
気がつけば、
私は大勢の前に立っていた。
「みなさん、今日から新しく入る子よ」
隣に立ったイザベラが言う。
「ほら、何か自己紹介でもしなさい」
声が耳元に落ちた。
――何を言えばいいのだろう。
視線が突き刺さる。
「いいですかーー?」
視線の先から、大きく手が上がった。
「元貴族って聞いたんですけどー」
「それって本当ですかー?」
ざわめきが広がる。
私は口を開いた。
……何も出なかった。
「心の底からは私たちを見下しているんでしょ?」
別の声だった。
「恥ずかしいと思わないわけ?」
ざわめきが大きくなる。
「黙りなさい」
あたりが静まり返る。
「ここでの価値は身分ではありません」
「どう働き、どう尽くすかです」
「ですが」
イザベラの視線が私に向いた。
「その覚悟がない者は、去りなさい」
私は口を開いた。
……やはり、何も出なかった。
イザベラはため息をついた。
「働くことも出来ないのなら、いないほうがましよ」
辺りからは小さな笑い声が漏れていた。
――そうかもしれない
私がいなくても、
誰も困らない。
それなら、ちゃんと役に立てるようにならないと。
無意識に身体が動いた。
考えるより先に、
役目を探していた。
床に落ちていた布を拾う。
桶を持つ。
指示もなく、手を動かす。
しばらくして、
誰かが咳払いをした。
空気が切り替わる。
一人、また一人と動き出した。
誰も私を見ていなかった。
足音だけが響いた。
しばらくして、廊下の掃除に取り掛かった。
手が動く。
身体が動く。
どうしてそうしているのかは、分からなかった。
「……一人でやらなくていいよ」
声がした。
私に向けられた言葉だと気がつくまで、
少し時間がかかった。
振り返ると、一人の侍女が立っていた。
手には雑巾。
服は汚れていた。
それでも、その目だけはやけに優しかった。
彼女は何も言わず、私の隣に膝をついた。
そして同じように床を吹き始めた。
作業をしながら、ときどき私の様子を気にしているように視線を向けていた。
私は彼女に視線を合わせた。
何も感じなかった。
けれど、なぜか目を逸らせなかった。
「やっと目が合ったね」
彼女は小さく微笑んだ。
「私ね、クララ」
「あなたは?」
私は口を開いた。
言葉が出なかった。
彼女は急かさなかった。
ただ、待っていた。
「……マーシャ」
ようやく声が出た。
かすれた声だった。
その瞬間、
彼女の顔がぱっと明るくなった。
「マーシャ」
彼女は嬉しそうにその名前を繰り返した。
「いい名前だね」
小さく笑った。
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥で何かがわずかに動いた気がした。




