第11話 霧の海を望む公女
マーシャの涙が止んでから、10日が過ぎた。
あれから私のもとには、ほぼ毎日のように手紙が届いている。
すべて伯爵夫人からだった。
マーシャはきちんと食べているか。
夜は眠れているか。
寒がってはいないか。
怪しい人物に近付いていないか。
どれも孫を案じる言葉ばかりだった。
社交界の動きについての報告も添えられていた。
社交界。
お姉様の管理下にあるようなものだ。
光が集まり、人々が利用される場所。
今の私は、とてもそこへ足を踏み入れる気にはなれなかった。
書物の匂いだけが漂う静かな部屋。
「聞いておられますか?お嬢様」
すぐ後ろから声がした。
振り向くと、いつの間にかシュバルツが立っていた。
「公爵家の娘ともあろう方が、私の授業を聞き逃すなんて」
「実にもったいない」
家庭教師シュバルツ。
王国最高学府ーークラウンフォード学園出身だという。
「この大陸には、ウィングス家が統べるノクティファル王国の他に」
わずかな間。
「もう一つ巨大な大国がございます」
視線が私に向く。
「ご存じですか?」
沈黙。
私はその答えを知っていた。
「アルカディア帝国」
思わず口が動いた。
「王国とは"違う"在り方で栄えた国でございます」
その言葉に、
理由のわからない寒気がした。
思い出した。
第一王妃キャサリンの出身国だ。
「現在両国は大昔に休戦を締結し、均衡を保っています」
シュバルツはわずに微笑んだ。
「王家に帝国の娘が嫁ぐのもそのうちの一つでございます」
「いつか帝国に行くのをおすすめしますよ」
その微笑は柔らかいはずなのに、
どこか硬かった。
「まるで楽園そのものです」
「世界が変わるのですよ」
視線が合わない。
何かが見えているのだろうか。
静けさが身を襲った。
時計の秒針音だけが響いている。
彼の視線の先には、
きっと私の知らない"世界"がある。
「私はかつて、帝国に留学してーー」
もう聞いてはいけない気がした。
時間だ。
部屋に戻ろう。
私はそのまま逃げるように教室を出た。
扉が閉まる音が響く。
「おや……」
しばらくして、声がした。
「これはまだ時間がかかりそうですね」
私はただ走った。
気がつくと書斎に出向いていた。
あたり一面、本に囲まれている。
先人による知の積み重ね。
それを肌に感じた。
けれど……
胸のざわめきは消えなかった。
私はひたすら帝国に関する本を探した。
棚を移り、
題名を確かめ、
また次の棚へ手を伸ばす。
何度も、何度も繰り返した。
――見つからない。
どれだけ探していても、
帝国について書かれた本は一冊もなかった。
沈みゆく太陽を見て、私はただ考えることしかできなかった。
目を瞑っていると、窓の外から声が聞こえた。
「さきに行ってろよ」
「後で追いつくからな」
冷たい声だった。
まるで別れを惜しんでいないような。
馬車に乗るルシアンをヴィクターが見送っていた。
その横顔には笑顔がなかった。
馬車が小さくなっていく。
ヴィクターだけが残った。
「穢れた血の養子の分際で……」
静かな声だった。
胸の奥が凍りついた。
ヴィクターは目を細めていた。
――気がつかれた。
ふと、視線が合った。
「誰だ、そこにいるのは」
足音が一歩近づく。
私はとっさに身を屈め、窓の影に隠れた。
窓の縁に指が当たる。
かすかな音。
だが振り返る余裕はなかった。
足が重かった。
背中に視線が張り付いている気がした。
走っているのに、
前に進んでいないようだった。
部屋に着くまでがどれだけ長かったのか思い出せない。
扉を閉めた瞬間、
ようやく息が戻った。
ソファに腰を深く下ろした。
ヴィクターの言葉は、
私に向けられたものではなかった。
その視線には、
憎しみに近い感情が宿っていた。
私ではない。
別の誰かを見ている目だった。
……ルシアン。
「ルシアンに恋でもしておるのか」
声が落ちた。
背後からだった。
振り返る。
気がつくと、公爵が部屋に入っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
胸の奥の違和感が消えなかった。
「あの子は、なんなんですか?」
公爵はすぐには答えなかった。
ただ私を見つめていた。
「お前と同じ養子じゃよ」
私は言葉を失った。
「帝国で拾った」
それだけ言って、公爵は視線を外した。
「ヴィクターとの関係はご存じなんですか?」
沈黙。
公爵は大きく息を吐く。
「わしはあの子らのことがわからん」
わからない。
その言葉が胸に残った。
この家では、
本当の意味で「家族」というものが
あったのだろうか。
「ヴィクターは……」
思わず口から出てしまった。
公爵を見る。
その背中は遠く感じた。
「なんでもありません……」
沈黙が落ちた。
このままでは終わらせてはいけない気がした。
「それで……」
少し言葉に迷う。
「どうしてこちらにいらしたんですか?」
「……お前の様子を見に来ただけじゃ」
ぶっきらぼうだった。
けれどどこか不器用だった。
沈黙。
公爵は視線を外したまま続ける。
「エレオノーラから文が届いてる」
「お前の未来に期待しておるそうじゃ」
「クラウンフォード学園への推薦だ」
公爵は目を細めた。
「だが……あそこは安全ではない」
「学園は……今、ある人物の影響が強い」
「思想の強いものじゃ」
「お前には合わぬかもしれぬ」
視線を逸らす。
「守り切れる保証もない」
小さく息を吐く。
「それでも……」
「行くかどうかは、お前が選べ」
私は思わず息を呑んだ。
選ぶ。
またその言葉だ。
シュバルツのような人が
その場所には大勢いるのだろうか。
神を語り。
世界を語り。
人の生き方を決めようとする人たち。
胸がざわついた。
「あの二人も……」
言いかけてから、
言葉を選ぶ。
「学園にいるのですか?」
公爵はわずかに目を伏せた。
「ルシアンはもう行ったよ」
「わしも、そこで多くを失った」
視線が合わない。
言葉の意味を問い返す前に、
胸の奥がざわついた。
――穢れた血の分際で……
ヴィクターの声が脳裏に蘇る。
学園。
その場所で、
何かが変わるのだろうか。
人が。
思想が。
生き方が。
––その時だった。
胸元が、微かに熱を帯びた。
ペンダントが震える。
心臓とは違う鼓動。
私のものではない感覚。
視界が一瞬揺らいだ。
白い石の廊下。
冷たい視線。
押し殺した息。
……見たことない光景。
知らないはずなのに、
胸の奥が締め付けられる。
これは……
私の記憶ではない。
次の瞬間、
視界が戻った。
残ったのは、
胸の奥に残る鈍い熱だけだった。
けれど、体は冷たかった。
寒気が身を襲った。
汗が頬をつたう。
――このままではいけない。
本能がそう叫んでいた。
「……行きます」
思わず口が開いた。
公爵がゆっくりと目を見開く。
私は大きく息を吸う。
何度も言葉を選ぶ。
逃げないように。
揺れないように。
「私には……見定めるものがあります」
「何が正しくて、何が間違いなのか」
「それを確かめに行きたいです」
公爵は私の目を見る。
その瞳が、わずかに揺れた。
「……似ておる」
誰に、とは言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「あの場所は、人を変える」
低い声だった。
「だが」
「お前は選ぶと決めたのだろう」
沈黙。
「ならば行け」
その一言が、
私の背を押した。
――その頃。
書斎には誰もいないはずだった。
夕暮れの光だけが床に伸びている。
かすかな足音。
ヴィクターがゆっくりと部屋に入った。
視線が床に落ちる。
何かが光っていた。
小さな指輪。
彼はそれを拾い上げる。
窓の外を見上げた。
「……見ていたな」
低い声。
指輪を握りしめる。
その口元が、静かに笑った。




