第10話 印象、揺れる光
祖母の家に近づくと、
いつも体が震えた。
ただの屋敷のはずなのに。
父と来る時だけ、
胸の奥がざわついた。
ここでは……
選ぶことが許されない。
ただ従うだけになる。
黄金の天秤。
審美の目。
あの日見たものと、
何も変わっていない。
至る所で私を見つめていた。
部屋は静かだった。
体が動かない。
立ちあがろうと思えば立てる。
それでも足が動かない。
私はただ待つことしかできなかった。
やがて……
扉が開いた。
「顔をあげなさい」
声が落ちた。
低く、
逆らうことを許さない声だった。
ゆっくり顔を上げる。
黄金の瞳。
透き通る白銀の髪。
祖母が立っていた。
「久しぶりね、マーシャ」
わずかに微笑む。
「孫を待たせるなんて」
「悪い祖母ね」
祖母が静かに椅子に腰を下ろした。
逃げ場を塞ぐような位置だった。
「元気にしてたかい、マーシャ」
「ヴェイルヘイヴンの老いぼれに粗末に扱われたりはしてないだろうね」
祖母の視線が私を貫いた。
言葉が出てこない。
「……顔色は悪くない」
「躾はされているようだね」
汗が頬を伝う。
「あ、あの……」
「まだ話すことを許していないわよ」
部屋の空気が息を潜めた。
「マーシャ」
「どうして遅くなったのかしら」
わずかな間。
「ヴェインヘイヴンの養子の影響かしら」
「穢れた血なのにね」
その言葉を聞いた瞬間、
口が開いた。
「……違います」
声が震えた。
それでも止まらなかった。
「ベレナお嬢様は……」
一度息を吸う。
「私の居場所をくれた人です」
「光なんです」
祖母の目がわずかに細まった。
沈黙が落ちた。
次の瞬間―
祖母が笑った。
低く。
喉の奥で転がすような笑いだった。
「……光、ね」
肩がわずかに震える。
「はは……」
祖母の瞳が細まる。
「面白いことを言うじゃないか」
視線がまっすぐ刺さる。
「穢れた血に光を見たか」
わずかな間。
「いいね」
「ようやく話ができる」
祖母はゆっくり背もたれに身を預けた。
「その目……」
「誰に似たのかしら」
黄金の瞳が私を射抜く。
逃げ場がない。
喉が震える。
それでも……
言うんだ。
私は選んだんだ。
「お祖母様」
声が震えた。
「私……」
「結婚なんてしたくありません」
「誰かに決められる人生は嫌です」
……沈黙。
祖母はゆっくりと笑った。
「やはりあの子の血だね」
指先で肘掛けを叩く。
「でもどうしてだい?」
空気が重くなる。
「貴族に戻れるのよ」
「名も、血も、未来も取り戻せる。」
「それを捨てる理由があるのかい?」
「幸福になれる道を与えているのに」
「私は……」
「選ばれる側じゃなくて」
「選ぶ側でいたいんです」
震えていた声が止まった。
「血は運命なのよ」
祖母の指がゆっくりと机を叩いた。
「選ぶこともできない」
「運命に逆らう理由があるのかい?」
「逆らった者がどうなるか、見てきたはずだろう?」
沈黙。
マーシャが息を吸う。
「あります」
「私は……」
扉が開いた。
部屋の空気が揺れた。
「ありますよ」
その一言で、
部屋の空気が揺れた。
私は一歩踏み込んだ。
視線が一斉にこちらへ向く。
空気が変わるのが分かった。
夫人の指が止まる。
黄金の瞳が私を捉えていた。
「ほう……」
夫人の視線が私に落ちる。
瞳がわずかに細められた。
「ヴェイルヘイヴン家の養子」
「お前か」
「要は済ませたのかい?」
「ハルバン」
視線を私から逸らさないまま言った。
「はい、仰せのままに」
感情のない声だった。
執事が夫人の側へ静かに歩み寄る。
耳元で何かを告げた。
声は聞こえなかった。
夫人の瞳が、
わずかに細められた。
「お前もあいつと同じなのかい」
声は冷たかった。
わずかな間。
「……神を見ようともしない」
その言葉だけ、
どこか疲れていた。
「ベレナ=ヴェイルヘイヴン!」
夫人の肩が揺れる。
怒りだけではない。
何かを思い出したような、
押し殺した痛みが滲んでいた。
しばらく沈黙が落ちる。
私は静かに口を開いた。
「伯爵夫人」
視線を逸らさない。
「私はね」
一度息を吸う。
「あの時こうしていればって後悔したことが何度もあるの」
声はまだ少し震えている。
「無力な私には、
出来ないこともある」
指先に力を込める。
「でも……」
視線を上げる。
「後なって後悔するのは、ただ苦しいだけです」
小さく息を吸う。
「だから」
「私は選ぶの」
迷いながら、それでも言い切る。
「後悔しない選択を」
沈黙。
夫人の瞳がわずかに揺れる。
「……そうね」
視線が遠くなる。
「私は、後悔してばっかりだわ」
かすかに笑う。
「ろくに……息子一人守れない」
「あなた……」
指先で机を叩く。
「マーシャは好きかい」
「……好きです」
迷いなく言った。
「だから」
一度息を吸った。
「私はマーシャを守ります」
「たとえ誰に否定されても」
「間違いだとしても」
「失うとしても」
小さく掌を握る。
「守れなかったって後悔するくらいなら」
「全部失ったっていいです」
「守れなかったって思い続ける方が」
「きっと苦しいから」
夫人は大きく息を吐く。
長い沈黙。
やがて小さく笑った。
「……同じだね」
震えた声だった。
「私の息子もそう言った」
夫人は目を閉じた。
長い沈黙。
「私はあの子を守れなかった」
ゆっくり目を開く。
「だから」
指が止まる。
「今度は守るよ」
「孫の未来くらいは」
「––私が背負ってやる」
その言葉が落ち瞬間だった。
張り詰めていた何かが、
音を立てて切れた。
「……っ」
椅子に座ったまま、
マーシャの肩が震えた。
呼吸が乱れる。
手が膝の上で強く握られる。
堪えようとしているのが分かった。
けれど止まらない。
涙がぽつりと落ちた。
一滴。
また一滴。
やがて視界を覆うように溢れた。
「……お祖母様……」
声は崩れていた。
背を丸め、
顔を伏せる。
立ち上がることもできない。
ただそこに座ったまま、
泣くことしかできなかった。
夫人は何も言わなかった。
ただ、
静かに目を伏せた。
私はそっとマーシャの肩に手を置いた。
小さく震えていた。
夫人は静かに立ち上がった。
「今日はここまでにしよう」
それだけ言った。
使用人に案内され、
私たちは客室へ通された。
広い部屋だった。
視線は感じなかった。
マーシャはベッドの端に腰を下ろしたまま、
しばらく動かなかった。
私は隣に座る。
「……よかったね」
小さく頷く。
それだけだった。
どれくらい時間が経っただろうか。
扉が叩かれた。
たどたどしい音だった。
返事を待つず、
扉が開く。
そこに立っていたのは夫人だった。
どこか急いでいるようだった。
「マーシャ、ベレナ」
「食事会に参加しておくれ」
夫人はそう言って去っていった。
しばらくして夕刻、
食卓には並びきらないほどの料理が置かれていた。
たった数人の席なはずなのに、
まるで祝祭のようだった。
「帰ってきたんだから当然だろう?」
夫人は当然のように言った。
マーシャは落ち着かない様子で椅子に座っていた。
昔と同じ光景なのに、
どこか違う。
屋敷の空気はもう重くなかった。
誰かに見られている感覚もない。
「ベレナ様ほどの意志をお持ちなら」
ハルバンが静かに言った。
「学びの場に置かれるのも一つの道でしょう」
「クラウンフォードの学園などは特に」
学園。
その言葉が胸に残った。




