第9話 印象、祈りの間
ラベナム村を離れ、
私たちはマーシャの祖母の家へと向かった。
「セシリア=エレオノーラ」
マーシャが小さく言った。
「私のお祖母様の名前です」
少し間があった。
「……エレオノーラ家は、
この地方を治める伯爵家なんです。」
「昔から帝国と関わりが多くて……」
言葉が続かなかった。
指先がわずかに震えている。
「お祖母様の言葉は絶対なんです」
「わかってくれるでしょうか?」
私は少し考えた。
「……わかってくれるよ」
小さく笑う。
「家族なんだもん」
それきり、
馬車の中は静かだった。
だが……
何かがおかしかった。
屋敷が近づくにつれ
馬が落ち着きを失った。
何度も足を止める。
御者が手綱を引くたび、
低く鳴いた。
空気が違ってた。
ラベナム村で感じたものと、
似ていた。
けれど、
もっと静かで、
もっと整えられた恐怖だった。
やがて揺れが止まる。
扉が開いた。
冷たい空気が流れ込む。
目の前には、
白く巨大な屋敷が立っていた。
人の気配がない。
灯りもない。
生きている気配がなかった。
その時だった。
ぽつり、と音がした。
雨だった。
空気が急に冷えた。
急いで玄関へと向かった。
扉の前には男が立っていた。
いつからそこにいたのかわからない。
私を見ているはずなのに、視線はどこにも向いていなかった。
「お待ちしておました」
感情のない声だった。
ただその一言を放ち、静かに扉を開けた。
「ベレナ様はこちらに」
執事の手が静かに動く。
「マーシャ様はあちらへ」
わずかな間。
「伯爵夫人がお待ちです」
マーシャは奥の扉へ歩いた。
暗闇の向こうで彼女の足音だけが小さく消えた。
沈黙が落ちた。
「ヴェイルヘイヴン家の養子はあなたですね」
背後で声がした。
「ご案内します」
呼吸が止まる。
「……祈りの間へ」
執事は静かに奥へ進む。
廊下は長かった。
壁には見慣れない紋章が並んでいる。
どれも視線を感じた。
胸の奥がわずかにざわついた。
廊下の奥へ進むにつれ、空気が重くなっていった。
やがて壁一面に巨大な絵画が現れる。
思わず足が止まった。
天から光が降りている。
雲の上に立つ神。
その足元で、人々が跪いていた。
だけど――
光に照らされている者ばかりではなかった。
影の側では、
泣き叫ぶ人々が地面に押し倒され、
光から遠ざかっている。
救われている者と、
切り捨てられている者。
その境界があまりにも鮮明だった。
布が風に煽られ、
人物の身体は大きくねじれ、
今にも絵から飛び出してきそうだった。
光を受ける者の瞳には、廊下の紋章と同じ印が刻まれていた。
血の気が引いた。
「……救済の図です」
執事が静かに言った。
「神は弱き者を選別される」
私は何も言えなかった。
ただ、絵の中の光が……
どこか処刑台の光景に似ている気がした。
石像が並んでいた。
蛇に締め上げられた人間たち。
叫びの形のまま固まっている。
「神に背いた者です」
執事はそれだけ言った。
さらに奥には別の像。
天を見上げていた。
見えない何かに貫かれている。
苦痛なのか分からない顔だった。
「神の恩寵です」
執事の背中が遠く感じた。
やがて足が止まる。
「つきました」
執事が扉に手をかける。
重い音を立てて扉が開いた。
次の瞬間――
光が落ちてきた。
思わず目を覆う。
視界が慣れた時、
そこは空だった。
天井は存在していなかった。
遥か上、円形の世界が広がっている。
無数の人物が天へと昇り、
中心には光があった。
全てがそこへ向かっている。
祈りも、嘆きも、救いも。
人の運命全てが吸い上げられるように。
足が止まる。
床は冷たい石。
空気は重く、息が浅くなる。
壁一面に絵が並んでいた。
神に救われる者。
神に裁かれる者。
どの視線も、こちらを見ている。
逃げ場がなかった。
私は小さく息を吐いた。
ここでは――
人はただ「見られる側」になる。
「ここが祈りの間です」
執事の声だけが、
やけに静かに響いた。
執事は中央で足を止めた。
「どうぞ」
静かに促される。
床には円形の紋様が重なっていた。
人々の祈りの言葉が重なり合ったような。
私はその中央に立つ。
上を見上げた。
光。
ただ光。
天井の世界は輝いているのに、
どこか遠く感じる。
「祈ってみてください」
執事の声。
私は目を閉じた。
……静かだった。
周囲の空気は重く、
何かが見ているのはわかる。
けれど。
何も来ない。
声も。温もりも。幻も。
ただ、私の呼吸だけがあった。
目を開けた。
変わらない光。
変わらない光景。
それだけだった。
「何も」
言葉がこぼれる。
「見えません」
執事は驚かなかった。
「そうでしょうね」
静かな声だった。
「多くの者はここで神を見る」
「赦しを求め、救いを願い、意味を与えられる」
一歩近づく。
「ですが」
「あなたは違う」
私は何も答えなかった。
確かに何も感じなかったからだ。
怖くはなかった。
ただ……ここに縋りたいとは思わなかった。
私は立っているだけだった。
執事はわずかに微笑む。
「意志の弱い者が神を作るのです」
「見えぬものに意味を与えて、安心する」
「ですが………」
視線がまっすぐ落ちる。
「あなたは自分を信じていらっしゃる」
「それでいいのです」
少し笑った。
胸の奥が小さく揺れた。
あたりの視線が弱まる気がした。
「では」
執事は踵を返す。
「伯爵夫人のもとへご案内します」
私は何も見えなかった。
それでも……
迷いはなかった。




